35. 恋
ただでさえ静かな森の中に、重い沈黙が下りた。鳥の声ひとつ響かず、木々さえも息を潜めているような。ロイはこの世の終わりのような顔をしているし、傍らに寄り添うアルヴィードの表情も硬い。
けれど、今ひとつその状況が飲み込めず、ディルが長く伸びた髪をくるくると指先で弄んでいると、不意に風が吹いた。ひんやりとしたその感触に思わず身を震わせると、ふと、アルヴィードの眼差しが緩んだ。
そうしてようやく気づいたとでもいうように、自分の外套を外してディルを包み込む。その暖かさで体が冷え切っていたことを自覚すると、くしゅんと小さなくしゃみが洩れた。それを見て、さらにアルヴィードの金の眼差しが愛おしげに甘く緩む。
「子供みたいなくしゃみだな」
「そう?」
アルヴィードはただ笑って、そのままディルを抱き上げた。
「とりあえず、このままじゃ風邪を引く。まずは屋敷に戻るぞ」
「一人で歩けるよ?」
「裸足でか?」
「……なんで、そもそも裸なの?」
「俺に聞くなよ」
そんな呑気な会話をする二人に、イングリッドはふと微笑み、ロイも毒気を抜かれたようにぽかんとした表情になっている。
「あなたのその明るさは救いね」
「……馬鹿にされてる?」
「まさか。あなたはもうあなたの運命を見つけた。あとは幸せになるだけ。でも、そうね。アルヴィードの言う通り、まずは屋敷に戻りましょう」
そう言って、艶やかに微笑むとすぐに景色が変化した。
そこはもうイングリッドの屋敷の中で、大きな寝台のある部屋に二人を案内すると、もう一度艶やかに微笑んで部屋を出ていった。アルヴィードはまるで壊れ物でも扱うかのように、そっとディルを寝台の上に下ろす。寝台の上には、着替えが
「さすがだな」
「アルヴィードは、あの人の知り合い……なんだよね?」
着替えながらそう尋ねると、なぜかため息を一つ吐いてから頷いた。
「古い知り合いだな。どちらかというと厄介な相手だが」
「ロイも、そんなことを言ってたよ」
ディルがそう言いながら首をかしげたが、アルヴィードはただ苦笑するばかりでそれ以上答えようとはしなかった。着替えを終えて寝台から立ち上がると、少し彼の顔が遠いように感じられた。
「……縮んだかな?」
「そうか?」
アルヴィードはそう答えながら、ディルを引き寄せた。いつもより優しい抱擁は、少し戸惑っているようにも感じられた。頬に大きな手が触れ、それから額の髪をかき上げて、じっと瞳を覗き込まれる。
「全体的に、柔らかくなっている感じがするな。それに、その瞳……」
「何か、変わってる?」
「ああ、薔薇色になっている」
「え……?」
壁にかけられた鏡を見れば、確かに瞳は夜明けによく見る鮮やかな薔薇色をしていた。けれど、窓の外の空は鮮やかに青い。
「……どういうことだろう?」
「さあな。だが、分化によって体の特徴が変化することは、そう珍しいことじゃない」
背中に触れていた手が、ゆっくりと腰へと滑り降りてきて、その感触にぞくりと背筋が震えた。思わず彼の胸元を掴むと、笑う気配が伝わってくる。目を上げれば、甘い光を浮かべた金の双眸がこちらをじっと見つめていた。魅入られたように、目が離せず見つめ返していると、ゆっくりとその顔が近づいてくる。
戸惑いながらも、目を閉じると、ややして唇が重ねられた。何度も繰り返し、啄むように繰り返し口づけられる。けれど、それ以上は触れてこない。目を開けると、やはりとろけるように甘い表情がそこにあった。あまりの落差にどうしていいかわからず俯くと、顎をすくい上げられる。
「何で目を逸らすんだ?」
「だって……あなたがそんな顔するから」
「そんな顔?」
「……優しくて、まるで——」
「まるで?」
「恋人に、するみたいな」
ディル自身はそんな相手を持ったことはなかったが、旅の途中で酒場や食堂で吟遊詩人の真似事をして歌っていると、親しげに肩を寄せている恋人たちを見かけることはよくあった。彼らに求められて恋の歌を歌うと、見ているこちらが恥ずかしくなるくらい、互いにうっとりと見つめ合う光景を目にすることになるのが常だった。
それは、酔った客や、宿を乞うた相手がディルに向けてきたような、欲望に満ちたそれとは全く異なっていた。本当に互いを想い合っているとわかるその様子は、見ていて気恥ずかしいが、微笑ましいものでもあった。そんな眼差しが自分に向けられる日が来るなんて、想像もしたことがなかったけれど。
「違うのか?」
「え?」
「俺は、伝えたつもりだったが、まだ伝わっていないのか?」
それとも、眠っている間に忘れてしまったのか? と少し呆れたように耳元に口を寄せて囁く。
「ディル、お前を愛してる」
あまりに率直なその低い声に心臓がどくんと強い鼓動を打った。全身が熱を持ったように感じて、指先が震える。ディルのその手をアルヴィードの大きな手が握りしめて、間近に金の双眸が迫る。
「たとえどんな運命がお前を搦めとろうとしても、絶対に俺が守ってみせる」
だから、とアルヴィードは強い眼差しのまま続ける。
「俺と共に生きると、二度と俺を庇ってお前の命を危険に晒すようなことはしないと約束してくれ」
その眼差しはごく真剣で、そして何より心底彼女を気遣う光に満ちていた。だからこそディルは微笑んで、首を横に振る。
「約束は、できない」
「何だと……?」
声を荒らげかけた彼の顔を引き寄せて、間近に目線を合わせる。かつてはその眼差しの強さに怯えたこともあったけれど、今は真っ直ぐに自分を見つめてくれるそれが何より愛おしかった。
「言ったでしょう? 他の誰でもなく、あなたの側にいたい。誰よりもあなたが大切だから、またきっとあの時と同じような状況になったら、私はきっと同じ選択をする」
その言葉に、アルヴィードが何とも言えない複雑な表情になった。喜んでいいのか、それとも怒るべきなのか。彼らしくなく戸惑う様子に、ディルはさらに笑みを深くして、その背中に腕を回し、胸に頬を預ける。
「もう、一人になるのは嫌だから。あなたに置いていかれるくらいなら、死んでしまう方がいい」
「馬鹿を言うな」
声は険しかったけれど、強く抱きしめ返してくる腕は優しく暖かい。
「そうかもしれない。でも、私はあなたに出会うまでずっと辛かった。あなたと別れてからはもっと辛かった。だから、約束して」
——どんなことがあっても、私を絶対に置いていかないと。
「……それが、寿命でもか?」
呆れたように言う声に、ディルはくすりと笑って頷く。
「うん」
「無茶言うな」
「でも、黒狼の寿命は長いんでしょう?」
それは、きっとディルよりは長いはずだと、どうしてか、そんな予感がしていた。
「……お前が俺を置いていくのはいいのか?」
「あなたの方が、強いもの」
「こと、そういうことに関しては、普通は逆だと思うがな」
呆れたようにそう言いながら、それでもアルヴィードは彼女を強く抱きしめる。そうして、何かを諦めたかのように苦笑して、頬を両手で包み込んだ。
「お前はわかってない」
「何が?」
「俺が、どれほどお前を必要としているか」
精悍な顔が近づいて、額に、眦に、頬に、まるで獣がするように舌と唇が触れていく。
そうしてその金の双眸がまたひたりと据えられて、縛り付けるように、ディルの心をまっすぐに強く射抜く。
「万が一、その呪いがお前を捕えてしまうようなら、その時は、俺もお前と一緒に逝ってやる」
言葉を失ったままの彼女に、アルヴィードはふっとまた眼差しを緩めて、今度は驚くほど優しく抱きしめる。耳元に届いた声は、低く笑みを含んでいた。
「わかったか?」
「……わかった、気がする」
愛しい相手から命を賭けるほどの想いを寄せられて、嬉しくないはずがない。だが、それは同時に相手を縛り、苦しめるものでもある。それは甘い|苦痛《いたみで、手放しに受け入れられるようなものではない。
「なるべく……努力する」
曖昧なままのその言葉は、それでもきちんと伝わったらしかった。低くもう一度笑う気配が伝わって、それからくしゃりとディルの前髪をかき上げる。
「まったく、厄介だな」
「厄介?」
「愛おしいと思えば思うほど、手が出せなくなる」
逞しい腕に抱きすくめられ、その引き締まった体躯を感じて、ディルは思わず頬を染める。既にその手も唇も、彼女の全身に触れたはずだというのに。そんな彼女の心の声が聞こえたかのように、アルヴィードは少し笑って、それでも金の双眸に確かな熱を浮かべる。
「俺がつけた痕も全て消えている。まるで何もなかったようにな。繭の中で作り替えられたのか、あるいは時の流れと同じように消えたのか……。ともかくも冬の初めの雪原のように、清らかに見える」
何を言わんとしているのかわかって、ますます頬が熱くなるのを感じた。
「今すぐ……と思わんでもないが、まずはこれをなんとかしてからだな」
開いた襟元から覗く、黒く絡みつくような文様に手を滑らせて、そう呟く。
「……気味が悪い?」
「そういうわけじゃないが、いい気はしないな。俺の大切なものに、あいつの証が刻み込まれているようで」
揶揄うように言われたその言葉に、苦悩するような青紫の瞳が脳裏に浮かんだ。その切ない色に、ずきりと心のどこかが痛む。振り返れば、どれほどにロイの存在が彼女を救ってくれていたか、今さらのように気づいてほとんど呆然とする。
それでも、やはり、想いは変わらない——変えられない。
「——謝らないと」
「やめておけ」
「どうして?」
「かえって
今度は呆れたように言う顔に首を傾げると、アルヴィードは天を仰いでため息をつく。
「お前、本当に今までそういう経験をしてこなかったんだな……」
「……呆れてる?」
上目遣いにそう尋ねると、ぐっと妙に動揺した顔をして、それからもう一度深いため息をついた。
「そんな顔、あいつに見せるんじゃないぞ」
「そんな顔って?」
「——言われなくたって、邪魔しやしねえよ」
不意に割り込んだ声に驚いて目を向ければ、扉のところにうんざりしたような顔が見えた。
「覗き見とは趣味が悪いな」
「何度もノックしたし、俺だって真っ最中に踏み込んじまったらと思わないでもなかったが、そうも言ってられねえ」
飄々とした顔も、うんざりとしたような声も相変わらずだったが、その眼差しにはいつになく厳しい光が浮かんでいた。その様子に気づいたアルヴィードが表情を改めると、ロイは一つ頷いてから、言葉を続ける。
「北の果てに妙な気配がある。あそこには、ディル、あんたにかかった呪いの根源がある——もしかしたら、一月も待たずに何かが起きるかもしれない」
「何か……って?」
尋ねたがロイは難しい顔のまま首を横に振った。
「俺にもはっきりとは視えない。こと、あんたに関わることは特にな。まずは魔女が話があるそうだ」
その瞳には何かを迷う色があった。けれど、確かにディルを気遣う想いを感じて、また心のどこかが痛む気がしたけれど、そんな彼女の肩をアルヴィードが強く抱き寄せた。
「ここでこうしていても仕方がない。まずは話とやらを聞こう」
たとえ、どんな運命がこの先に待ち受けていたとしても、この想いだけはもう揺らがない。
その強い金の双眸に安堵して、ディルは素直に頷いた。
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