23. 再会
ふと目を覚ますと、空は白みかけていた。夜の深い色も、明け方の燃えるような色も失って、ただ深い青へと変わる少し前の、ごく薄く空を映す水盤のような色だ。自分の瞳も同じような色に染まっているのだろうが、見る相手もいなければ確認しようもない。
向かいの寝台は空だった。ディルが眠ってしまった後に出かけてそのまま戻ってこなかったのか、あるいは朝早くに出かけたのか。寝台を使った様子がないから、おそらくは前者なのだろう。行き先は訊かなくてもわかるような気がしていた。
ざわざわと心臓が騒いだ気がしたけれど、その理由はよくわからなかった。ともかくもと寝台から降りようとしたその時、部屋の扉が開いた。窓から差し込む白い光に照らされた顔は、なんだかひどく疲れているように見えた。
「……
軽い冗談のつもりでそう言ったのだが、ロイは唖然としたように大きく目を見開いてディルを見つめ、それからふと、その視線がテーブルの下に転がっている物を捉えた。
空になった
みるみるうちにその顔が険しくなり、濃い色の眉がこれまで見たこともないほどに寄せられて、ほとんど睨むようにこちらを見つめる。
「——ディル」
名を呼ぶ声は地の底から響いてくるのかと思うほどに低い。いい名だと思う、とそう言ってくれたあの優しい声音が幻か何かのように。
「……は、はい?」
「まさかとは思うが、あんた昨夜、ひとりでアレを全部空けたわけじゃないよな?」
「ええと……」
「酔っ払って寝惚けてた、なんて言わねえよな……?」
静かだが、その強い声は凶悪と言っていいほどに、明らかな怒りを含んでいる。
「……三本目は、まだちょっと残ってると思うよ?」
「そういう問題じゃねえ!」
あーもう、くそっ! から始まり、聞くも耐えない罵詈雑言で、誰に対してか、ひとしきり口汚く罵ってから、じっとこちらを睨みつけるように見下ろしてくる。
「いいか、次はもう遠慮しねえからな。どんなに後悔しようとも、食っちまうから覚悟しとけよ!」
何だかわからないが、大変に怒っているらしいことだけは伝わってきたので、神妙な顔をしてとりあえず謝っておく。
「ごめんなさい……」
だが、返ってくるのは凍てつくような冷ややかな眼差しだ。
「何に謝ってんだ、ああ!?」
くそう、俺の純情を返せ……! とやっぱりよくわからないことを呟いている。ディルは内心でそっとため息を吐きながら曖昧な昨夜の記憶を探った。
ふと目を覚ました後、ロイも
ほとんど透明なその白い葡萄酒は、意外に爽やかな甘さで飲みやすく、ついでに酒と一緒に分けてもらった干した果物と塩っ気の強い焼き菓子を食べながら飲んでいるうちに、気づいたら二本の空き瓶が出来上がっていた。
三本目の半ばを飲んだところまでは覚えているが、その後の記憶がない。どうやら酔い潰れたらしい、と判断する。だがそれだけにしては、ロイの態度が気になった。
「……何かやらかした?」
「知るか」
そっぽを向いて、子供のようにふてくされている。何やら機嫌を損ねたらしいが、それでも部屋を出ていくわけでもないので、ひとまずは寝台から下りて空き瓶を片付ける。確認したところ、三本とも綺麗に空になっていた。
「……それだけ飲んで、大丈夫なのか?」
不意に薬師の顔になって、こちらを見下ろしてくる。
「わからないけど、何ともないみたい」
元々あまりたくさん酒を飲む習慣がないし、ましてや前後不覚になるほど飲んだのはこれが初めてだった。そう言うと、ロイはさらに深いため息をつく。
「賢明だな。あんな状態、どうぞ好きにしてくださいといってるようなもんだ」
「あんな状態……?」
「あんたは今日は一日、黙って反省してろ」
剣呑な眼差しで言い渡され、何をしでかしたのか気にはなったが、それ以上はひとまず口をつぐんでおくことにしたのだった。
宿の食堂で朝食を済ませると、代金を支払って宿を出る。空は高く晴れ渡り、そろそろ夏の気配が近づいてきていることを感じさせた。それでも、元いた場所の気候に比べると随分涼しい気がする。
「北って、夏でも寒いの?」
歩きながら尋ねると、まだ不機嫌な気配は完全には消え去ってはいなかったが、それでも、こちらに視線を向けて答えてくれる。
「この辺りだと大して他所と変わらないな。カラヴィスよりもっと北、それこそイェネスハイムあたりは、冬はほとんど雪に埋め尽くされるし、夏でもまあ涼しい感じだが」
「へえ……。雪って見たことないな」
「あっちじゃ降らなかったのか?」
「少なくとも住んでいた街では降ったことはなかったよ」
「じゃあ、楽しみにしておくんだな。あっちじゃ、秋の初めでもたまに降る」
楽しみに、無事にたどり着ければよいけれど、とは心の中で呟いておく。その心の声が聞こえたわけでもないだろうが、ロイが少し気がかりな眼差しを向けたが、何も言おうとはしなかった。
そのままゆっくりと並んで歩みを進めた。街を出て、野原と丘を越え、森の中の道へと入る。
だが、その森に入って半刻ほど経った頃、不意にロイが何かを感じたかのように足を止めた。
「どうかした?」
「……ああ、あんたは覚えてないのか」
苦い顔で笑ったその顔に、なぜか胸が痛んで、ディルは胸元を掴むように拳を握りしめた。
「ロイ……あの」
「悪いが話は後だ」
ロイはそう言って、ディルを後ろ手に庇うように前に出た。林の間から男たちがニヤニヤと笑いながら姿を現す。どれも見覚えのない顔だったが、抜き身の剣を手に近づいてくるその目的は明らかだった。
ロイはディルの前に立ったまま、いつも通りの飄々とした顔で男たちに声をかける。
「俺たちは見ての通りのしがない旅人だ。盗るものなんて、なんにもないぜ?」
「いやいや、ずいぶんな別嬪さんを連れてるじゃねえか。あんたみたいな男には手に負えないだろうから、俺たちが引き取ってやろうと思ってな」
言いながら、木陰からもう一人男が顔を出した。茶色い髪に、同色の瞳。短く整えられた髪と服装のせいか、他の男たちに比べて身綺麗な印象を受けた。だが、その瞳には、ぞっとするほど酷薄な光が浮かんでいる。
「生憎と、こう見えて腕にも
声は笑っているが、ロイの気配が一瞬で尖ったものに変わる。だが、男たちは引く気はないようだった。下卑た笑みをその顔に浮かべ、さらに近づいてくる。ロイが腰の剣に手をかけた。
「まあ落ち着けよ。あんたに危害を加えるつもりはねえ。俺たちが用があるのはそっちのお嬢さんだけだ。その眼、
聞きなれない言葉に、ディルだけでなくロイも首を傾げた。喋っている男はそんなことも知らないのかとでもいうように肩を竦めた。
「空の色と共に変わる瞳は、
値踏みするようなその眼差しに嫌悪感が増す。思わずロイの服の裾を掴むと、ほんの少しだけ視線が向けられて、安心させるように頷いた。だが、すぐに男たちに向き直り、低く怒りを込めた声が聞こえた。
「……
「人攫いとは人聞きの悪い。研究の協力者と言って欲しいね」
そう言った瞬間、男は背後から何かを取り出すと、こちらに向けて投げつけてきた。とっさにロイが剣を抜くのが見えたが、それが淡く輝く銀色の紐で織り上げられた網だと気づいて、唖然とする。その網は二つに分かれて、まるで野生の獣を捕らえるように、ディルとロイをそれぞれ絡め取っていた。
ロイが舌打ちして剣で斬りつけるが、ごく繊細に見えるその紐は、けれど一向に切れる気配もない。
「無理無理、これは
「ふざけるな……!」
網の中でもがけばもがくほど、むしろその網は絡みつくようだった。男はロイには構わず、ディルに近づいてくると、網の上からその顎を掴んだ。
「へぇ、本当に変わってやがる。色の変わる瞳なんて気味が悪ぃと思っていたが、どうしてどうして、綺麗なもんだな。抉り出して飾りたくなる」
「離せ」
網の下から振り払おうとしたが、その腕も掴まれた。
「大人しくしていれば悪いようにはしないさ。なにしろ大事な
いつかも聞いたような台詞に、ディルがその瞳に怒りを滲ませると、男はさらに口の端を上げて笑った。
だが、突然後ろで野太い悲鳴が上がった。目を向ければ、ニヤついていた他の男たちの姿が見えない。
その姿が全て地に倒れ伏しているのだと気づいた時、ディルの顎を掴んでいた男の腕が、不意に
「え……?」
男が驚愕した顔のまま、横から蹴り飛ばされて離れた場所に蹲り、肘から先がなくなった腕を抱えて、呻き声を上げた。
あまりの事態にただ呆然とその光景を見つめていると、目の前に背の高い影が落ちてきて、黒みがかった刃があっさりと銀の網を切り裂いた。
彼が無造作に剣を振ると、まとわりついていた血も脂もするりと流れ落ちて、曇り一つないわずかに黒がかった鋼の刃が煌めく。そのまま流れるような動きで鞘に納めてから、ディルの腕を掴んで引き寄せた。
胸の中に閉じ込めるように強く抱きしめられて、あの甘いような辛いような匂いが目眩がするほど強く香る。
「——どうして」
その顔を呆然と見つめながら溢れた曖昧な問いに、だが彼はかつてそうであったように、正確にディルの思いを読み取って、腕を緩めると、ディルの頬を両手で包み込んだ。
「約束しただろう?」
——必ず、迎えに行ってやるから、何があっても生き延びろ、と。
「……アルヴィード?」
強い光を浮かべた鮮やかな金の瞳が、ほんのわずか緩む。それが笑みを浮かべているのだと気づくまでにしばらくかかった。その瞳に見惚れながら、けれどディルはその気配に気づいた。おそらくはあたりに溢れた血が、ディルの水を操る
血溜まりの中から向けられた銃。引き金を引くその瞬間がひどくゆっくり感じられて、ディルはあの時と同じように迷いなく振り向いて、けれど今度はただ、守るために両手を広げた。それが意味のあることかどうかは、今のディルには関係なかった。
「——ディル!」
叫んだ声は二人分。響いた銃声と共に肩と胸に衝撃が三回。視線の先で、ロイがその男を蹴り飛ばし、剣を突きつけるのが見えた。銃がその手を離れたのを確認して、ディルは安堵の笑みを浮かべる。
貫かれたのだ、と自覚するより先に焼けつくような痛みが傷口だけでなく全身を駆け巡る。崩れ落ちそうになる体をアルヴィードが抱き留めた。
「馬鹿、何でお前が……! 俺ならあれくらい——!」
怒りと困惑が同時に浮かんでいるその顔は、あの時見たのと同じそれで、だからディルはさらに笑みを深くする。
——だって、約束通り、あなたは迎えに来てくれたから。
それだけで十分だと、そう言いたかったけれど、口にするより先にディルの意識は闇に溶けた。
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