24. Missing link 〜黒狼〜 #1(アルヴィード)

 眼前に広がっていたのは、色とりどりの炎だった。紅蓮、蒼青、黄白色、そしてひたすらに視界を焼くまばゆい輝白色。


 端から見れば、美しい花火のようなそれは、だが、現実には破壊と汚染の象徴だった。人間と精霊とが互いの力を誇示するために放ったその力は、ひっそりと暮らしていた彼らの山と集落を、何の理由も意味もなく焼き尽くした。

 彼らは強靭で俊敏な肉体と、あらゆる魔法を基本的に受け付けない稀有な性質を持っていたが、人間のもたらした銃火器の炎と、精霊たちの放った自然の力を最大限まで引き出した異質な炎は入り混じり、想像を遥かに超える破壊の力をもたらした。それは、彼らの身体を一瞬で灰に変え、後にはその影のみが焼きついて残されていた。


 一人で気ままにでかけて、燃え上がる炎に気づいて駆け戻ってきた彼は、ただ呆然とその光景を眺めていた。


 もともと彼らの個体数は減少する傾向にあった。厳格な婚姻と、基本的には同族にしか惹かれないのに、近親婚を種として受け容れない彼らは、その寿命の長さゆえにか種の保存にあまり熱心でなく、放っておいてもあと数百年もすれば滅びてしまうのではないかと、大人たちは笑って話していた。一族には変わり者もいて、人間や他の種族と交わり、その血を残すものもいたが、基本的には同族内での求愛と婚姻がほとんどを占めていた。

 だが、あまりに唐突に故郷と同胞を失った彼は、何をどうすればいいのか、まったく考えもつかなかった。

 ただ呆然としている間に、数日が過ぎた。飲まず食わずでそうして過ごして、流石に意識が朦朧とし始めた。だが、それでも足は動かない。食事をとって、生き延びたとして、この先に何があるというのだろう。


 ——たった独りで、この世界に取り残されて。


「酷い有り様だな」

 不意に低い穏やかな声が、とてもそうは思っていなさそうな平坦な口調でそんな言葉を呟くのが聞こえた。

「毎回毎回、それしか言うことはないのかい?」

 もう一人、こちらは涼やかな声でどこか面白そうな響きを宿している。足音は聞こえなかったが不意に彼の前に鮮やかな一対の薔薇色が現れた。

 それが、こちらを見つめる美しい人の瞳だと気づくまでにしばらくかかった。

「やあ、生きてるかい?」

 乱雑なその問いに、呆れたような声が割って入る。

「どう見ても生きてるだろ」

「生存者を見つけたら、声をかけるのは基本だろう」

「ならもうちょっとましな呼びかけはないのか?」

「うるさいなあ、じゃあ自分でやってみればいいじゃないか」

 あまりに無惨な光景を前にしているにしては、のんびりとした会話に、麻痺していた感情が苛立ちに傾く。

「……うるさい」

 口から漏れた声は、自分のものとは思えないほどに掠れていたが、それでも意図は伝わったらしい。

「それはすまなかった」

 まったくそうは思っていなさそうな声で、その人物は謝罪の言葉を口にする。今の夜明けの空を映したような薔薇色の瞳は、こちらを見つめてやはり面白そうな光を浮かべている。

「私はアストリッド」

 唐突に名乗ってこちらに手を差し出してくるその顔は恐ろしいほど整っている。美しい弧を描く眉に、鮮やかな瞳、顔を縁取るのは白金かと見紛う、ごく淡いまっすぐな金髪。頬は滑らかで、首筋は折れそうなほどに細い。だが、すらりとしたその身体は、男なのか女なのか、判然としなかった。


「初めまして、最後の黒狼」


 その言葉に、弾かれたように彼が顔を上げると、アストリッドと名乗ったその若者は、ふわりと微笑んだ。

「よかった、言葉は通じるようだね」

「……最後……って」

 問い返す声が震えているのが自分でもわかった。相手は、事もなげに答える。

「言葉通りだ。この山に他に生存者はいない。黒狼は他の地域にはもういないと聞いているから、だとすれば君が最後の一人だ」

 それは、彼の予感をただ補強する情報に過ぎなかった。だが、それが真実だというのなら、生き残ったとしても、この先彼はずっと独りだ。

「……アストリッド、馬鹿だ馬鹿だとは思っていたが、本当に馬鹿の極みだなお前」

 ほんのわずか怒りの滲む声が近づいてくると、彼の前に膝をつき、不意に彼の頭をその胸に抱き込んだ。そうして、彼の背をゆっくり二度、叩いた。


 その胸元が濡れたのに気づいて、ようやく彼は、自分が涙を流していることに気づいた。嗚咽は出ない。ただ、ひたすらに涙だけを流す彼の背を、青年はただ撫で続けた。


 どれくらいそうしていたのか、ふと顔を上げると、こちらを見下ろす穏やかな藍色の瞳が見えた。年の頃は人間で言えば二十代の半ばくらいだろうか。だが、その瞳は明らかにそれより遥かに長い時を生きてきたであろう老成した光を浮かべている。

「落ち着いたか?」

 人前で泣くなど、あまりに情けなくて、黙ったままその腕から抜け出す。立ち上がったが、飢えと渇きのせいか、くらりと目眩がしてその場に膝をついてしまった。

「とりあえず飲め」

 そう言って差し出された水筒を、断るのも面倒で素直に受け取って口をつける。ただの水だろうが、ひどく甘く感じられ、気がつけばその中身を全て飲み干していた。

「……あ、悪い」

「気にするな。水ならそこら中にあるさ」

「ふふん、私の最も得意とするのは水を操る術だからね。何なら今すぐ雨を降らせて見せてあげようか?」

「黙れ、この能天気アメフラシ」

「……あんたら、何者?」

 とりあえず、そう尋ねるとアストリッドが嬉しそうに顔を綻ばせた。

「ようやく聞いてくれたか! 私は大戦終了後の和平交渉この世界アルフヘイム代表だ」

 子供のように胸を張って満面の笑顔でそう言ったその若者に、隣の青年が呆れたようにため息をつく。

「何でそんなに嬉しそうなんだよ」

「この馬鹿げた! 大戦が! 終わって嬉しいからに決まっているだろう!」

「……だったら何でもっと早くに介入しなかったんだ?」

 藍色の瞳の青年の静かな声には、怒りが滲んでいる。

「——俺は何度も警告したぞ」

「仕方ないじゃないか。先見視さきみで証明するまで、だーれも私の言うことなんて聞こうとしなかったんだから」

、ごり押しできただろう」

「面倒くさいじゃないか」

 肩を竦めて言ったアストリッドに、だが藍色の瞳の青年ははっきりと怒りを浮かべた眼差しで、目の前に広がる光景を指し示した。

「……この惨状を見ても、まだそんなことが言えるのか?」


 焼け焦げた大地。そこに染みのように残る、黒い影たち。

 そして、彼自身がその犠牲の何よりの証左だ。


 その眼差しを受けて、アストリッドは表情を改めた。

「……悪かった。私もここまで状況が悪くなっているなんて、気づかなかったんだ」

「気づかなかったで済む話か。お前はあれらを統率する責任があったはずだ」

「それを言われると返す言葉がないねえ」

 反省しているようで、だが、彼の耳に届くその口調には、まったく重みがない。彼の視線に気づいたのか、アストリッドがこちらに目を向けた。

「とりあえず、黒狼の。何か望みはあるかい?」

「望み……?」

「私たちは、今、大戦の償いのために世界を巡っている。力になれることがあるなら教えて欲しい」

 真摯な眼差しに、だが、空っぽになった彼の心は虚ろな響きを返す。

「……望みなんて、ない。俺が最後の一人なら、生きていてもほとんど意味なんてない」

「それは、種の保存、という意味で、かい?」

 アストリッドの問いに、隣の青年が難しい顔で口を挟む。

「黒狼は近縁でない同族としか婚姻しないんだったな」

「だが、まったく他の種族と実績がないわけじゃないだろう?」

「……あんたたちが滅ぼしておいて、適当に他の種族と交われと? まっぴらごめんだ」

 怒りを露わにした彼に、だが、アストリッドはどうしてだか不意に微笑んだ。

「なるほど、それでは運命の相手が必要だな」

「……はあ?」

「おい、アストリッド、お前ろくでもないことを考えているだろう?」

「何を言う。最高の考えアイディアだよ。まあでもしばらく時間がかかるだろうから」

 そう言うと、不意に彼の目の前に膝をついた。それからおもむろに、彼の頬を引き寄せると、まっすぐに彼を見つめる。

「しばらく眠っておいで。準備ができたら起こしてあげるから」


 最後に見たのは、楽しげに笑みを浮かべる薔薇色の瞳。不意に唇に何か柔らかいものが押し付けられ、そこで、彼の意識は一度完全に途切れた。

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