22. Interlude 〜理性と本能〜 #3(ロイ)
「あんたなら、吟遊詩人として立派にやってけると思うがな」
じわり、と胸の奥に浮かぶ熱を押し隠して、杯に口をつけながらそう言うと、ディルは彼の内心など気づいた風もなく、ただ首を傾げた。
「人目を引くと、面倒事の方が多いよ」
「用心棒を雇うか?」
「……本当に、必要な時はね」
ようやく少し微笑む。その柔らかい笑みに、心臓がまたおかしな鼓動を打ったが、無視して酒を呷る。ディルは、そんな様子にまた首を傾げながら、そういえば、と尋ねてくる。
「カラヴィスまで、あとどれくらい?」
「のんびり歩いても二日か三日ってとこだな。ほぼ隣街みたいなもんだ。だが、あっちは魔術が盛んで、どっちかっていうと魔術絡みの商売や研究が主な街だ。うまいものを食うならこっちの方が確実だな」
「へぇ」
その相槌はひどく上の空で、おそらく本当に聞きたいのはそんなことではなかったのだとありありと伝わってくる。思わず苦笑していると、彼の言いたいことを悟ったのか、ディルはその細い指先で木の杯を撫でながら、小さくごめんと呟いた。
それから、少しためらうように視線をさまよわせる。何となく、何を聞きたいのかはわかったが、杯を傾けながら、あえて話し出すのを待った。
「……アルは、カラヴィスにいるんだよね?」
「おそらくな」
「何をしているんだろう……?」
その瞳は何かを思い詰めているように揺れている。不安か、嫉妬か、そんなところだろうか。相手は魔女だし、対象は獣だ。その正体を知らないはずのディルが嫉妬というのもおかしな話だが、そうとでも考えなければ、この不安定さの説明がつかない。
——それとも、本当は、あの獣の正体にもう気づいているのだろうか。
「あんた、あいつのこと、どう思ってるんだ?」
「どうって、頼りになる獣だと思ってるけど?」
「……それだけか?」
「他に何かあるの?」
その表情に嘘や隠し事はなさそうに見える。だとしたら、完全に無自覚で無意識ということか。どちらかというと、そちらの方が面倒そうだった。
ともかくも、あまり夜が更けないうちにと食事を切り上げて宿へと戻る。二人部屋で、寝台も二つ。ディルは早々に寝台に潜り込むと、あっという間に寝息を立て始めた。野宿の日々には慣れているとはいえ、やはり疲労が蓄積していたのだろう。
穏やかに眠るその寝顔を眺める。固く閉じられた瞼の周りを、銀の睫毛が烟るように縁取り、薄い唇はやや開いてこちらを誘っているように見えた。
その頬に思わず手を伸ばしかけて、ぎりぎりで自制する。いくら惹かれる自分を自覚したとしても、今がその時でないことは明らかだった。ひとつ頭を振って財布だけ取り出すと、彼は部屋をそっと滑り出た。
幾度か訪ねたことのある馴染みの娼館で、適当に見繕った女と寝台に転がり込む。久しぶりに直接触れる柔らかい肌と香りは、文句なく心地よく、しばらくは面倒事をきれいさっぱり忘れて、そのひとときを愉しんだ。
だが、真夜中に眼を覚ましてしまった。同時に、寝台の上でうずくまる銀色の小さな影が、あの森の中で見た幻影よりも遥かにくっきりと目の前に浮かび上がる。あまりにそれが鮮やかで思わず手を伸ばしかけて、だがすぐに部屋に灯る蝋燭の色でそれが現実でないと知る。
ただの夢や幻影でないことにも気づいていた。むしろそうであってくれればどれほどいいか。
落ちてきた前髪を掴んで額を押さえながら、その幻影が完全に消える前に、わずかな蝋燭の灯りに浮かび上がる隣の女を見る。なかなかの美人で機転もきき、体の相性も悪くない。何ならこのためにもう二、三日滞在してもいいくらいだというのに。
「……どうしたの?」
しなだれかかる腕に名残惜しさを感じつつも、気がつけば寝台を降りてしまっている自分にため息を吐いた。
「またな」
その頬に口づけて、少しばかり多めの金を置くと身支度を整えて部屋を出た。
星が冴え渡る空は、まだ夜明けからは程遠い。
「ったく……」
戻ったところで、ぐっすり眠っているはずだ。あるいは、そうでなかったとして、どうするつもりなのか。自問しながらも、足はまっすぐに宿へと向かってしまっていた。
部屋に入ると、びくりと何かが動く気配がした。ああくそ、と内心で毒づく。やはり戻ってくるべきではなかった。
寝台を見れば、半ば欠けた月明かりの下、先ほど視えた幻影と同じように、ディルが膝を抱えて丸くなっていた。引き寄せられるように寝台の端に座り込むと、顔を上げる。その
「……どうした?」
「何でもない」
わずかに震える声と揺れる藍色の瞳は彼の理性を揺らがせる。早鐘を打ち始めた心臓に、ただ鎮まれと内心で呟いてその頭をぽんぽんとあやすように撫でてやる。
「泣いてたんだろ?」
「……でかけてたんじゃなかったの?」
ほんの少し、責めるようなその声は彼の行き先をわかっているせいだろうか。いずれにしても、責められる謂れはないはずだが、口の端を上げて笑って見せる。
「まあな。だが、あんたが泣いてるのが
「……
そろそろ開示してもいい頃だろうか、と何となく考える。ディルも何かに気づいたのか、こちらをじっと見つめてきた。
「言ったろ、俺の魔力はもっと繊細な方に向いてるって。
遠い、あるいは近い未来や、離れたところの光景を幻影として
「だからあの時、私の進む先がわかった?」
「ああ」
「……そして今夜も、私が視えたから、戻ってきてくれたの?」
どうして? と問うその言葉は、問いというよりは確認で、そしてそのまっすぐな言葉は思った以上に彼を動揺させた。
答えあぐねているうちに、白い手が彼の顔を引き寄せた。だがその瞬間、美しい眉が何か痛みでも感じたかのように顰められる。
「どうした?」
「……誰かと、一緒だった?」
移り香でもしたのだろうか。しまった、と顔に出たが、ディルはほんの少し苦しげにさらに眉根を寄せただけで、それから、ゆっくりとその美しい顔が近づいてきた。
呆然としている間に重ねられた唇の柔らかさに、今度こそ残っていた理性が本能に覆い隠されて、その後頭部を引き寄せると深く口づけ返した。角度を変えて、何度も貪るように口づけながら、その胸元に手を伸ばす。触れた手の先でディルの身体がびくりと震えた。
目を開けて見れば、夜を映す紺色の瞳は潤み、だが揺らいでいる。
「どういう心境の変化だ?」
尋ねるべきではないとわかっていたのに、そんな言葉が口をついて出た。ディルは潤んだ瞳のまま、しばらく視線をさまよわせた後、ゆっくりと、何かを確かめるように言葉を継いだ。
「あなたに抱かれれば、夜、そばにいてくれる?」
——たったそれだけの望みのために、己を差し出そうというのか。
「ほんの小さな望みのために、懐に入れてくれた相手の行為をすべて受け入れようとする」。黒狼に噛みつかれても平然としていた彼女を、そう
おそらくは無意識に誘う眼差しに、もっと触れたいというはっきりとした欲望を何とかねじ伏せ、その身体をそっと抱き寄せた。頬に触れる柔らかな銀の髪と細い肩にくらりと目眩がしたが、それも抑えつける。
「……望みがあるなら、素直にそう言え。そんなことのために自分を安易に差し出そうとするな」
先ほどまでその欲望を
「そばにいて、抱きしめて欲しい」
それは、どう聞いてもこの上なく男を誘う言葉なのに、そうでないことがはっきりとわかってしまう我が身が悲しい。
背中に腕を回し、しっかりと抱きしめてやると、頬を寄せて、すぐに穏やかな寝息が聞こえてきた。涙の浮かぶその顔は、それでももはや子供ではなく、どちらかといえば、はっきりと扇情的だ。
自分があの黒狼の代わりであることはわかっていた。あるいは完全にそうでないにしても、ディルがまだ本心では、そういう行為を望まないであろうことも。
彼はどちらかと言えば本能に忠実な方だという自覚がある。だが、これほどまでにしがらみの多い相手は彼にとっては初めてで、故に、まるで初めての恋に戸惑う若者の如く身動きが取れなくなっている。
それでも、今、この身体を押し倒し、欲望のままに快楽を与えたらどうなるだろうか。自分の与える快楽に喘ぐその姿態は容易に想像できてしまい、じわりと自分の中の熱が高まるのを感じて——全力で後悔した。
あまりに情けない現状に、彼はただ、腕の中で眠る月の精そのもののような美しい寝顔を見下ろしながら、もう今日だけでも何度目か数えきれないほどの深いため息を吐くより他なかった。
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