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 あの夜のことは、今でもまだ、よく覚えている。


 冷えた手をこすりあわせて夜空を見上げたら、今にも空が崩れて落ちてきそうなくらい、どんよりとした暗い灰色の雲が立ちこめていた。

 天気予報では、今夜22時頃から雪が降ることになっていて、それほどに寒い夜だった。


 それで私は、コンビニでのいつものバイトが終わるとすぐに、今夜の晩ごはんとして買っておいたコンビニ弁当片手に、早歩きでうちに帰ろうとしていた。


 当時私が住んでいたボロアパートは、繁華街のすぐそばにあったので、私がバイトをあがる頃…それはだいたい21時すぎくらいになったんだけど、いつも帰り道、どれだけ夜遅くになっても人の往来はなかなか多いものだった。


 でも、その日の夜に限って言えば、外を出歩いている人は、ほとんどいないように感じられた。

 本当なら、これからの時間がいちばん繁華街が賑やかに盛り上がる時間なのに。


 そんなことを考えながら、ネオンが輝く繁華街の夜道を、私はひとりで歩いていた。

 まあ、当時高校生だった私には、繁華街の繁盛具合なんて、関係のない話ではあったけれど。


 いつもより人気のない繁華街、きっと、みんな雪を警戒して、寄り道なんてせず、さっさとうちに帰ってしまったんだろう。

 本格的に降ってきたら、雪の上をヒールで歩くのは危ないし、革靴は雪で傷んでダメになっちゃうもんね。


 ニットマフラーに首をすっぽりと埋めた私は、ただ前だけを見て歩き続けた。

 吐く息は、とても白い。


 そのうちに、見慣れた我がボロアパートの姿が、古めかしいテナントビルの隙間に飲まれるようにして、ちんまりと見えてきて、さっさと私はその敷地内を進んでいく。


 敷地内に入ると、まさに華やかな建物の陰に入り込んでしまったみたいに、しんと静かで、一気に地味な空気になる。

 敷地のこちら側とあちら側で、まるで世界が分断された感じ。


 周囲にあるビルの陰に包まれ、いっそう暗く見える敷地内を、私は歩く。


 私が住んでいた部屋は、ボロアパートの一階にあった。


 歩きながら、私はうちの部屋の窓へと目をやる。

 ここから見る分には、部屋の窓から明かりは見えず、真っ暗だった。

 どうやら母はまだ帰ってきていないらしい。


 それを確認して、通学カバンから部屋の鍵を取り出そうとする。

 だけど私はそうしながらも、うちへと帰るための最短ルートをねじ曲げて、ちょっと寄り道していくことにした。


 ささやかな、気まぐれ。


 私はそのまま、ボロアパート住民専用の、ボロ駐輪場へと足を向けた。


 ボロアパートの敷地内、正面入口をすぐ左に曲がると、雨よけのためのショボいプラスチックの屋根がついただけの、ちんまりとした空きスペースがある。

 ゴミ捨て場と間違えそうになるくらい狭く、塀に囲まれた薄暗い角地、そこが、アパート住民のための、駐輪場だった。


 だけど、そこに自転車をとめている住民は、アパートのなかでも私一人だけなのだった。

 このアパートに住んでいる人たち全員のことを、みんな把握しているわけじゃないけれど、だいたいがすぐそこの繁華街で働いている大人ばかりのようだったので、みんなチャリなんか使わないのだろう。


 だからこの、賑やかな繁華街の近くにあっても、忘れ去られたようにひっそりとしているボロアパートの、さらに誰からも必要とされていない駐輪場の薄暗く狭い空間は、長いこと私だけの貸し切り状態になっていた。


 と、言いたいところだけど、実は私以外にも、この駐輪場を利用している者がいたのだった。


 それは、私のうちの右隣の部屋に住んでいる、水商売のおねえさんが飼っているトラ猫だ。


 夜、おねえさんがお仕事に行ってしまうと、彼女が帰ってくるまで退屈なのか、部屋から抜け出したトラ猫が(自由に出入りができるように、風呂場の小窓を開けっ放しにしているらしい)誰も訪れることのない駐輪場の、私の自転車のサドルの上で丸くなっていることが度々あった。


 それがきっかけで、私とそのトラ猫は顔見知りとなり、ときどきは頭をなでてやったり、一緒にパンを食べたりするような間柄になったのだった。

 おねえさんのうちのトラ猫は、このアパートでの、私のいちばん親しい隣人…いや、隣猫だ。


 だからその日の夜も、私はあのトラ猫が自転車の上にいるのかどうか確認してから、自分のうちに帰ろうと思ったのだ。

 コンビニ袋の中には、弁当のほかに蒸しパンが1個入っていた、ひとくちくらい分けてあげてもいい。


 でもその夜、トラ猫は駐輪場にいなかった。

 よく考えてみればそうだろう、今夜は降雪予報がでているくらい寒いのだ、あのトラ猫は、素直におねえさんの部屋の中で丸くなっていたのだろう。


 猫はいなかった。

 だけど、その私専用の駐輪場には、猫の代わりに見知らぬ人間がいたのである。

 

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