第20話


「一件落着?」


 エィミとノアがユウェール家に着くと、エイダンの訳知り顔な言葉が飛び込んできた。


 ノアはエィミを自分の前に乗せる。そうして自身の両腕から逃さぬ様彼女を抱え込む様にしてから、手綱を握り、帰宅した。

 大切に大切に抱え込み、風に乗って香ってくるエィミの匂いに不謹慎ながら身を昂らせてしまったのは、自分だけの秘密だった。

 グムはというと、ライズと共に馬に乗り、詳しく事情を聞く為に屋敷へ連れ帰ってきた。


「一件落着って何だそれ」


 自分が馬から先に降りてから、エィミを宝物の様に抱き抱えながら降ろすと、無意識にその細腰を自分の方へ引き寄せるノア。


「だって周りを巻き込んだ痴話喧嘩だったんだろ」


 ニヤニヤしながら二人を見るのはエイダンだけではないらしい。

 今か今かと帰りを待ち侘びていたハクにジュン。リリーにクレア。先んじて報告へ馬を走らせたアパルも、皆、主人たちの帰宅を首を長くして待っていた。


 ノアとエィミの様子を見れば、説明する言葉など邪推なものだ。


「おかえりなさいませ」

 と、侍女二人が前へ進み出る。

「ただいま。リリー、クレア。ありがとう」

「エィミ様ぁぁぁ」

 侍女たちの方へ行きたいと、上目遣いで強請られたノアは、不本意ながら左手に込めていた力を抜くと、三人は互いに抱き合った。

「お久しぶりに声が聞けて嬉しいです」

「これから何でもおっしゃってくださいね」

 涙声でそう言う二人はとても嬉しそう。

「ありがとう」

「エィミ様」

 リリーは抱き合う身体が離れても、グスグス泣き続けていた。


 後から知ったのだが、彼女は、エィミが夜中にうなされている声が頻繁に聞こえてきたのをずっと心配していたらしい。そうして色々考えた末、よく休んでもらおうと睡眠作用のあるバレリアンを煎じてお茶に入れたという。

 それが偶然にもグムが屋敷に入り込んだのと重なってしまい、ここまで騒ぎが大きくなってしまった。

 というのが事の始まり。

 事件を大きくしてしまうきっかけを作ってしまったリリーは、暇を申し出たが、今回の事で誰かを罰するという決断をノアは下さなかった。

 それは、グムに対しても同じ。

 特に被害が出た訳でもないので、衛兵に突き出すという考えは微塵もなかった。

 むしろ、周りの人間も口々言っているが、当て馬的存在になってくれたお陰で、屋敷の空気も昔を取り戻したかの様に明るくなり、感謝すらしている。

 今では、ユウェール家に出入りしてもらい、宝石商のツテを作ってもらったり、鉱物についての知識を教えてもらっている。


 クレアについては、完璧にノアの勘違いにより怖い想いをさせてしまったので、顔を合わせる度に申し訳ない気持ちでいっぱいになる。今では謝罪しようと口を開こうとすると、「もう結構ですから」と先手を取って主人の言葉を塞ぐまでに、ノアのあしらいが上手くなってきた。

 なんとなく最近、ジュンに似てきたな、と言葉を漏らすと、あの件がきっかけとなり、エイダンとの仲が深まった。とかいう話をエィミは楽しそうに話してくれた。


 それではその後。

 ノアとエィミの仲はどうなったのだろうか。


「いや。奴は初恋を拗らせてるから、どうだろうな」


 領地の仕事の合間に、屋敷に足を運ぶ事が増えたエイダンは、呑気に、侍従たちが集まる部屋で、クレアと話していた。

 クレアが、二人の夜の生活はどうなのか、と、彼に耳打ちしてしまったのが良くなかった。

 エイダンの幼馴染を揶揄うセンサーが反応してしまったのだ。

 ノアもクレアも、互いに部屋があるのに、未だに夜中は同じベッドに寝ている。

 けれど、本当に寝るばかり。痕跡がないので邪推ながらも心配になってしまったのだ。

「大事にしているといえば言い方はいいけどな。日中のスキンシップは周りも恥ずかしくなる程だけど、夜は違うってことね」

 訳知り顔で言ってのけるエイダンは、彼に何かアクションでも起こすつもりなのだろうか。

「ノアは、ああ見えて経験ないから。そりゃもう。女の子たくさん寄ってきてもエィミ一筋だったからね」

 誘われても誘い方が分からないんじゃない?と悪気もなく、そして飄々と主人の秘密を暴露してしまう。

「ま。俺たちが気にする事じゃないよ。様子みてみたら?」

 出されたお茶をグイッと飲み干したエイダンは、面白い情報ありがとう。と、手を軽く振って笑顔で去っていく。


「夜はこれから。さて。どっちから誘うのかなぁ」


 ***


「エィミ。寝てる?」

 麦畑の刈り入れもあと残り僅かとなり、ノアの領地での仕事が、これから忙しくなってくる。

 先にノアのベッドで横になっているエィミの側に腰掛け、寝顔を眺めるのが日常となっていた。

「起きてるよ」

「起こしちゃった?」

 初めはおでこに触れた大きな手が、優しく頬に移動する。

「ううん。待ってた」

 目をゆっくり瞬かせるその仕草は、おそらく夢の世界へ足を踏み入れ掛けていたのではないか、と想像させる。

「触れてもいい?」

「なに?もう触ってるよ」

 無意識に彼女に触れた手に、エィミの小さな手が重なる。

「くちびるに」

 暗がりで分からないが、もし、今が明るかったら、ノアの耳が真っ赤に染まっている事にエィミは気付いただろう。

「キスしてくれるの?」

 ノアの発言にエィミは目を丸くする。

「ダメ?」

「ダメなんて……。ダメなんかじゃない。触れて欲しい」

 エィミは言いながらゆっくり瞼を閉じる。

 ノアの左手に掛けられた体重でベッドが少し沈み、少しずつノアの顔が近付く気配。

 互いの息遣いを感じる距離まで近付いた所で、ノアも目を閉じ、静かに自分の唇でエィミのそれに触れる。

「……」

「……」

 それは、本当に軽く触れるだけのキス。

 ゆっくり離れ、そうして互いにゆっくり瞼を開く。

 まるで初めてのキスみたいに。

「……」

「……っ?エィミ?」

 寝ているエィミの瞳から涙が一粒溢れた。

「ごめん。やっぱりまだ」

「ちがう」

 ノアの言葉を遮りエィミが首を振る。

「嬉しいの。わたしの身体。……色んな人が触って……汚いから……触れてくれないのかと思ってた」

「エィミ」

 泣きながら話す彼女の身体をノアは掬い上げる様に優しく抱きしめる。

「君に汚いところなんて、どこにもないよ。ただ、僕が臆病なだけで……」

 ノアは言うか言うまいか戸惑いながら言葉を繋ぐ。

「僕……エィミが初めてだから」

「……」

「ずっとエィミ以外は必要なかったんだ。触れ方も一応……勉強はしたけど……」

 ごにょごにょと語尾を濁しながらノアは告白していく。

「それに、エィミは色んな事があったと思うから、怖がらせるのも嫌だったし、こういう事は、ゆっくりでもいいかな……って」

 嘘だ。

 言葉にしながら、ノアの頭は綺麗事を否定する。

「もう一度……」

 熱のこもった眼差しに、何を言いたいのか察したエィミは頷き、目を閉じる。

 本当は、ノアがどんな顔でキスしてくれるのか見たかったが、今は我慢する。

「んっ」

 唇が触れる。

 そして静かに離れ……もう一度。

 好きな人に触れられるキスはこんなに気持ちのいいものなのか。身体の奥から湧き上がる熱にゾクゾクするエィミは、薄らと目を開けた。

 そこには唇を離した瞬間に、自身の唇をペロリと濡らすノアが、獲物を狙う顔をしている。

 初めてなんて……嘘でしょ。

 角度を変え、まだ閉じたままのエィミの唇を、ノアの舌がねっとりとなぞる。

「あ」

 入ってもいいかという合図に、軽く唇を開いた瞬間、それはエィミの口内を探り始めた。

 ノアもうっすらと目を開け、エィミがどんな反応をしているか観察している。

「んっ……あ」

 甘い声が漏れ始めると、ノアはわざと音をたてながらエィミの口を味わっていく。

「ごめん。俺……今、謝っておく」

 エィミから触れてもいい許可を得たばかり。

 ノアは今まで我慢していた欲望の向かう先をようやく見つけ、そうして、タガが外れてしまった。

 優しく。

 傷付けないように。

 頭の中で呪文の様にひたすら唱えていた。

 だが、好きな人の前ではその呪文も効果はない。

 その温もりに溺れてしまったのなら、余計に。制御ボタンなど存在しない。


 この夜。

 エィミは愛する人と熱を交わす幸せを初めて知り、ノアはその温もりに溺れた。


 ずっとずっと恋焦がれ続け、ようやく戻ってきてくれたエィミにひたすらに甘い夢を。


 ノアは彼女が流した一粒の涙を摘み、一粒、コクンと飲み込んだ。


 流れた想いもすべて俺の。


 ノアは寝ているエィミの唇にキスをおとし、同じ夢を見ようとその瞳を閉じた。


 ***


「さて。あと一つ、仕事が残ってる」


 ノアの部屋に呼び出されたエイダンは、呼び出された理由が分からなかった。

「仕事ってなんだよ」

「ここに判をつくだけの簡単な仕事」

 ヒラヒラと目の前をチラつかせる書類の内容に、引っ掛かりを覚えたエイダンは、乱暴に取り上げる。

「なんだ。これ。養子縁組ってなんだよ。え?俺とお前が?」

「そう兄弟」

 書かれた書類に目を通したエイダンはノアに詰め寄る。

「急に何を……」

「急じゃない。ずっと考えてた」

 ノアは既に押印された判を指差して笑顔を作る。

 彼はずっと考えていたかもしれないが、エイダンにとっては初耳だ。

「なんで?」

「俺が何でお前によく仕事の愚痴とかこぼしてたか分かる?あれは愚痴っていうよりも仕事の相談。しかも、結構際どい内容もあったんだけどね。お前はその内容を人に漏らす事もなく、的確なアドバイスをくれた。お陰で上手く捗った商談もあったよ。ありがとな」

「はい?」

 淡々と話が進み、普段なら冴える突っ込みも今は何も出てこない。

「いつか言ってくれただろ。逃げてもいいんじゃない?って。だから、逃げちゃおうかなぁって思ってさ。でも、ここまで活気付いてくれた領地の皆を捨ててはいけないだろ?で、領地の管理は多分俺より出来るエイダンに任せちゃおうかなって。それならユウェール家に入った方が動き易い。……ま。他の仕事は少しずつ出来る様になってくれたらいい」

 ノアの口調は、エイダンがユウェール家に入ることが決定しているみたいで、それが癪に触る。

 ふと机の上に置かれた書類をみると、親のサインも既に書かれている。

 何故何の相談もなかったのか。

「ジュンは喜んでくれたぞ」

 エイダンの思考が読めたのか、ノアがニヤリと笑う。

「じゃあ、うちの方の後継の方はどうなるんだよ。俺一人っ子」

「ユウェール家の領地内にあるんだから、何の問題もないだろう。一緒に育ったんだから、マナーも出来てるし。……今となってはジュンに感謝だな」

「ノア。お前、もしかして初めからこのつもりで?」

「どうだろね」

「でも、全ては俺が頷くかどうかだろ」

「大丈夫。逃げるとはいっても、ちゃんと戻ってくるから。俺もエィミもこの屋敷の皆が好きだから帰ってくるよ。それにこの話に頷いた方が、クレアは子爵令嬢だし、縁談纏まりやすいと思うよ?うちは公爵家だし、社交界出たら香水の匂いに囲まれる。……俺もそうだったし。それなら、早くに身を固めちゃった方が賢明じゃない?お前は知ってると思うけど、うちは爵位に拘ってるわけじゃないし、結婚は自由だよ。社交界も適度に顔出せばいいし、俺はもう領地の皆が不自由なく生活出来れば、爵位の降格も特に何とも思わない。だって、この爵位もエィミのお陰で陞爵されたものだし。エイダンの自由にしてくれて構わないよ」

「……ノア。お前」

 次々来る情報にエイダンは黙ったまま。

「全部エィミの為か?」

 その一言でノアは押し黙る。

 そう。

 エィミと離れてから、全ては彼女の為に動いてきた。

 全てはエィミを取り戻す為に。

 話してくれた。

 笑ってくれた。

 熱を分けてくれた。

 空白の時間を埋めるべく、一緒に居たいというのは間違いだろうか。

「そうだって言ったら?」

 嫌な思いをしてきただろう。

 ここから離れて二人でゆっくり過ごしたい。

 そう願うのは我が儘だろうか。

「分かった」

 エイダンだけでなく、ユウェール家に関わる人間は総じて優しい。

 話を持ちかけられた彼は深く息を吐いた。

「考える時間が欲しい」

 突拍子もない提案を、何の猶予もないまま了承するのは良くない。

「前向きに検討頼むよ。

 ノアは机に肘をつき頬杖をつきながらニヤッと笑った。


「あぁー。もうヤダ」

 エイダンの叫びは壁を隔てた向こうまで響いていく。

「ハハ。大丈夫大丈夫。俺もついてるから」

「ッッそういうんじゃないっ」


 母親のジュンだけじゃない。

 ノアの部屋にエイダンが呼ばれた時にすれ違ったハクも、恐らく屋敷の人間はきっとこの話の内容を皆知っている。

 わざと外堀を固めて、断りにくい状況を作って、首を縦に振るよう誘導しているんだ。


「そういえば、エィミとの結婚はどうするんだ?」

 今はその事を考えたくなくて話題を逸らす。

「結婚って?」

 だって人間じゃないだろ。エィミは。

 という言葉をエイダンは飲み込む。

 言わなくとも察しのいいノアの事じゃ気付かない訳がないのだが。

「まぁ、あんなの紙切れ一枚のことですからねぇ」

 話の主導権を取られ、ノアは捻くれた声を出す。

「離れてた時間が長いから別にどうでもいいというか」

 しかし、律儀に答えを返そうと考えながら言葉を繋ぐのは、ノアの心も揺れているからだろうか。

「エィミがそれを気に病む事があれば考えようかとは思ってるよ。だから、ここを出て違う空気を吸って、色んなものを見てこようかな。なんてさ。で。もし、エィミが……結婚……とか、望んでくれて……でも、自分が……人間じゃないからとか。そんなくだらない理由で俺から離れるような事があるなら、そんな書類、いくらでも書いてやる。俺が前例を作ってやる。離れなくしてやる。どこまでも追いかけるんだ。……で、それを実現する為に、全てお前がこの話を受けてくれたら、俺も少し時間が出来るし、少しはいい感じで解決するんだけどなぁ」

「お前。きったね」

 自分の心の中の気持ちを、整理することもなくそのまま言葉に吐き出すノア。

 自分の事を語りながら、締めは持っていきたい方へ繋がれ、真剣に話を聞いていたエイダンは素で言葉を返す。

 跡継ぎは、エイダンがこの話を受け入れてくれるのなら、彼らに望める。

 地位とか名誉とかいうものに執着の薄い家系だ。

 このまま例え血が途切れてしまったとしても、領地を守ってくれる人間が跡を継いでくれたらそれでいい。

 

「よろしく頼むよ。お兄ちゃん」

「やめろ。それ」


 二人は顔を合わせて笑った。

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よすがの宝石 碧野 悠希 @aonoyuuki

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