第17話
エィミは目を開けようとして、でも、開けてそれを確認するのをやめた。
彼女はユウェール家に来てから暫く経っても、よく寝れない日が続いた。
夜になると悪夢が全てを支配する。
ぬるっとしたものが身体中を這い回り、息が止まる。
毎夜、気持ちの悪さで目を開けると、心配そうにノアが顔を覗き込み、汗を拭ってくれている事に気付く。
「大丈夫だから、おやすみ」
そう言いながら頭を撫でてくれる手は、大きくてとても優しい。普段彼は触れてくれようとしないから、エィミはその温もりに甘えた。
初めは手の平の動きを気にしていたが、次第に呼吸も落ち着いて深く深く眠りにつく。
そして見るのは幸せな夢。
ノアがこうして触れてくれるのも、これが夢の中だからだと思っていた。
そうしてエィミは次第に優しい夢を見る様になった。
ノアの匂いに包まれて。
やっと深く眠れる様になったのだ。
しかし、今回はそれが仇となってしまっていた。
抱き抱えられ、運び出され、馬車に乗せられ揺れていた。
荷物を運ぶ為の馬車に、ご丁寧に藁を敷かれ、その上に布団を被せ、寝かせてられている。
こんな感じでも、比較的大切に扱われている方だ。
ーーガッタン
大きな石を踏んだのか。
突然の大きな揺れに、エィミはようやく目を覚ます。
「起きた?」
暗がりで顔は見えない。
けれどエィミはその人物を知っていた。
エィミは上半身を起こし、無意識にその人物から離れようとする。
どうして?
もうそっちの世界に戻りたくない。
エィミは視線を逸らさない様にしながら後ずさった。
***
「で?エィミは?」
社交界を終えたノアは廊下を駆けながら現状説明を求める。
「まだ見つかっておりません」
「早く探せ」
屋敷内で走り回ることは好ましくないことは重々承知であるが、今はそんな事を言っている場合ではない。
「目星はついているのか」
ノアは自分で聞いておきながら、脳裏にたった一人思い浮かべる。
王宮地下のオークション。最後の最後でノアに競り負けた人物。
その正体が明らかにされない限りは、身動きが取れない。
屋敷の中は今日の社交界に向け、みなが忙しなく動いていた。
勿論、エィミを買い上げたのがノアだという話は広く知れ渡っているので、諸々警戒はしていた。
何か言い訳をつけて屋敷内を彷徨く人間もいる。
だから、会場から一番遠く離れ、部外者が足を踏み入れる事がない場所に籠るよう指示したというのに。
意味はなかった。
社交界でエスコートをし、常に隣に立つ事の方が守れたかもしれない。
けれど、邪な感情を抱く視線を彼女に向けられたくなかった。
だから信頼している人間をエィミの側に置いていたというのに。
「クレアは?」
手掛かりを探そうとノアの部屋へ向かう廊下で気付いた。
リリーとクレアは交代でエィミの世話を任せている。
リリーには、エィミがこの部屋に居ると思わせる為、カモフラージュの為に彼女の部屋の前で控える様に伝えてある。
姿がない、行方を知っているか、と伝えた途端、一瞬取り乱した後、捜索に加わっている。
では、クレアは何処に?
これだけ屋敷内がざわめいているというのに、顔を見せないというのはおかしい。
「クレア」
ノアは自室の前に立つ侍女の姿を認め、彼女を捕らえた。
「エィミはどこだ」
「ノア様。エィミ様ならこのお部屋から出られておりませんが」
平然と答えるその姿に全身の血液が逆流する。
「どけ」
扉の前に立つ侍女を押し退け、ノアは部屋へ入る。
「エィミ」
一目散へ寝ているベッドへ向かう。
ふっくらと膨らんで人一人寝ている様に感じるが、気配はしない。
ノアは勢いよくブランケットをめくった。
「……。クレア?これはどういうことだ」
鋭い目付きで侍女を睨んでも彼女は怯む様子もない。
そこには幾重にも重ねられ、細長く丸められたブランケット。
「存じ上げません」
「……」
いくら眼光鋭く彼女を見ても表情を崩さない。その内面を読み解くことは出来なさそうだ。
ノアは時間の無駄だという様に、翻し部屋を見回す。
何やら風の通りが良いと思えば、窓が大きく開かれていた。今日は舞踏会が終わるまでは、窓を開けない様に指示している筈だ。
「これは?」
月明かりが異様に眩しく差し込む。
「分かりません」
窓枠に結ばれた長い布を誰かに見せつけるかの様に、ノアは地面まで伸びていたであろうそれをゆっくりと引き上げる。
まさかこんな拙いロープ代わりの布で、エィミを抱えて本当に逃げたと言うのか?
これは見せかけているだけではないのか?
「エィミの居場所が分からないと?」
淡々と返された言葉に、ノアは語気を強める。
そんな筈ある訳ないだろう。
「アパルがエィミを抱き抱え馬車へ乗る人物を見ている。暗くてよく分からなかったらしいが、あの髪色はエィミだと。彼は俺が幼い頃から仕えてくれているからな」
信頼している。
騎士としてノアを鍛えてくれたアパルはエィミの事も良く知っていた。ノアの側に仕えるよりも、エィミを捉えられる範囲に控え、何かあれば対処してくれている。
今回は不覚にも社交界だった為、行動範囲を少し広く持たせてしまったのが、仇となってしまった。
アパルは遠目からでも彼女と分かる姿を認めると、近くの人間にそれを伝え、急いで後を追ったという。
馬車に乗るのは確定できても、どこの者か、紋章までは分からなかった。という報告は受けている。
「誰の指示だ」
まだそれに続く連絡は来ていない。
なら、知っている人間に吐かせるしかない。
「……」
クレアに一歩歩み寄ると、彼女もそのぶん後ろに下がる。
無言のまま時間は過ぎ、彼女は壁に追い詰められる。
「吐け」
ノアは彼女が逃げ出さぬ様、両手を壁につけ圧力を掛ける。
「知りません」
「まだ言うか」
クレアはブリアール国に僅かばかりの土地を有する子爵の令嬢で、下に弟がいるが、家督を継ぐ彼を助けようと早くからユウェール家に仕えてくれた。
礼儀作法も文句なく、幼いエィミも彼女に色々教わったと聞いていたが……。
ノアは苦虫を噛み潰す。
「知っている事を言え」
右手がその喉を絞めてしまおうと近付いていく。
それでもまだクレアはノアから目を背けない。
「……ノアッッ」
彼の事をそう呼ぶのは一人しかいない。
足音と共に叫びながら扉を開ける。
「エイダン」
急いで走って来てくれた彼は、肩で息をし、伝える為に必死で呼吸を整えようとしている。
クレアに伸びた手は止まるが、彼女をその場に留めておく為に、ノアはそこから離れない。
「馬車で……。リッシュ方面に」
「……リッシュ国?国境を越えるというのか?」
「とりあえず行け。用意周到におとりも準備していたみたいだが、アパルが潰したらしい。リッシュに向かう荷馬車一台にエィミが乗ってる筈だ」
「荷馬車?」
「ひとまず行け」
エイダンの一言でノア、先程まで責めていたクレアから離れる。
「あ。ノア」
急ぐ事を指示したのはエイダンなのに、その彼がノアを止める。
「クレアに謝れ。彼女は本当に何も知らない」
「……なに?」
語尾が上がる。
「リリーが食後、エィミに運んだお茶にバレリアンを混ぜていた」
「バレリアン?」
睡眠作用がある薬草。
「あー。まぁ、説明は後だ。エィミの所に行け……、の前にクレアに謝りなさい」
ノアにそんな口調をきいて、ジュンに叱咤されるのは想像に容易いが、間違えを知ったまま放っておくのも良くはないと、エイダンは思っている。
「エィミの事となると、周り見えなさすぎ。反省して」
家令のハクでも侍女頭のジュンでもなく、幼馴染に諭されるノア。
ハクもジュンも年長者であるので、彼らに怒られるのは仕方ないと思っているが、この幼馴染に言われるのが一番精神的に堪える。
「……クレア」
ノアは侍女から一歩退き、頭を下げた。
「申し訳なかった」
「そんな。ノア様は……」
「いや。エイダンから言われたように、焦っていたわたしの判断ミスだ。本当にすまない」
「……」
まさか仕える主人に頭を下げられると思っても見なかったクレアは、恐縮してしまって、何も言葉が継げない。
「とりあえず、ここは俺に任せて行っておいでよ」
側にきたエイダンが、頭を下げ続けるノアの肩を叩き、早く行く様促す。
「俺と一緒に報告受けたライズからいろいろ聞いて、連れ戻しておいで?」
馬車の中で何されてるか分からないよ?と、先程までの真剣なやり取りは何処へ行ってしまったのか、という程に軽い口調で言葉を繋ぐエイダン。
幼馴染とはいえ、年は彼の方が上。
生真面目なノアと比較的すると、色々軽そうにも見えるがそれは表面だけで、実のところ、周りを一番俯瞰して見ている上での行動だったりする。
「ありがとう」
ノアはエイダンに礼を言う。
彼が居てくれるから、ノアは自分を見失わずに済んでいる事をしっかり自覚している。
「ほら。礼はいいからさっさと走れ。冗談でなく、本当に馬車でヤラレちまうぞ」
「最後の一言は余計だ」
ノアはエイダンに背中を押されて走り出す。
国境を越えられてしまえば、許可証がないと入国できない。
詳しくは早馬に乗りながらアパルを師と仰ぐライズに聞きながら。
荷馬車であれば、細い獣道など通れはしないから、必然とある程度幅のある道を使うしか手はないだろう。
リッシュ国へ入国する道は二カ所。
アパルは既に囮を退治したと言っていたが、一体彼は馬を駆けながらどれ程の距離まで走ったというのか。
リッシュに向かう道は二箇所あり、一つはユウェール領地を通る。
まさか、敢えてそこを使うか。
ノアの治める土地を。
アパルが間に合ってくれればそれでいい。
助かればそれに越したことはない。
ただ、我儘を言っていいのであれば、ノア自身が自分の手で、エィミを取り戻したい、と強く願っていた。
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