第15話


「エィミ。食事が終わったら部屋に篭っていてもらってもいい?」


 珍しく昼食の時間を一緒に過ごしているノアが、すまなそうに眉を寄せる。自由にしていていいよ、という彼にしてはとても珍しい事を言い出すものだ。


 最近、ノアだけでなく屋敷全体が忙しなく動いていた。

 いつもならリリーとクレアの二人がついていてくれるのだが、ここしばらくはどちらか一人、という事が多い。

「エィミの部屋よりも、僕の部屋の方があそこからは遠いから、今日はこれからそっちで過ごしてもらってもいい?まぁ、夜は僕の部屋で寝てるから特に不安はないだろうけど、もし、何かあるようなら、クレアにお願いして」

 とはどこだろう。頭に浮かんだ疑問を胸に、素直に頷く。

 ノアはいつも食べる量よりもかなり少なめの食事を食べ終わり、エィミが食べ終わるのを待ってくれていた。

 コーヒーを啜りながら近くの侍従に何やら話すと、一礼し、食堂から出て行ってしまう。

「しばらく忙しくしててごめんね。これが終わると落ち着くと思うから、また出掛けよう?」

 エィミは屋敷へきてからまだ一言も話さないというのに、ノアは変わらず笑顔を向けてくれる。嬉しい筈なのに、飲み込んだ感情が時々チクリと喉を刺す。

「……」

 それにしても、隣でじっと見られながら一人で食事をするのはとてつもなく食べにくい。

 エィミはお皿にまだお肉も魚も残っているというのに、持っていたフォークを置いてしまう。

「どうしたの?」

 食事中だというのに机の上に肘をつき、熱っぽい視線を向けるノアは、彼女の体調を心配する。

「……」

 食事をしていた手を止め俯いてしまうエィミ。

 それを低い位置から見上げるノア。

「食後の甘い物でも食べる?ジュンが作ってくれたブランマンジェがあるよ」

 ノアの視線を受けた侍従が「承知致しました」と食堂を出て行ってしまいそうになる。

 確かにジュンお手製ブランマンジェは大好きだった。

 エイダンと一緒に遊ぶ時、彼女が手土産として持ってきてくれるのが楽しみだった。

 庶民のお菓子ですよ、と出されたそれは蜂蜜たっぷりで、食べただけで笑みが溢れる。

 食べただけで、自然と笑顔になれるのだ。

 ノアはエィミの笑顔が見たかった。

 ユウェール家へきてから、まだ一度も笑ってくれていない。

「お言葉ですが。ノア様」

「ん?」

 エィミの表情を読み取ってくれたのか、クレアが一歩進み出る。

「なんだ」

「そのようにじっと見つめられてはエィミ様もお召し上がりにくいのでは」

「え?」

 自覚していなかった。

「え?」

 言われて始めてノアはエィミを見過ぎていたことに気付く。

 侍従たちに視線をやると、皆が一様に生温かい目を主人に向ける。

「何だ。お前ら」

 ユウェールに仕える侍従たちはそれほど入れ替えもなく、ほぼ同じ顔触れなので、ノアの気持ちは皆に筒抜けである。

 語気強く言われても、顔を赤くしてしまっては説得力も何もない。

「エィミ?」

 そうなの?と彼女に向き直ると、エィミは小さく肯定する。

「ごめん。じゃあ……やめるね」

 ノアは気付かなくてごめん、と少し気まずそうに笑うと、机の方へ向き直ってしまった。

「……」

 恥ずかしかったけれど、別に嫌ではなかったのに。

 視線を逸らされてしまいエィミは少し寂しく感じてしまう。

 コーヒーを口にするノアを一瞬見やり、エィミは再びフォークを手に取り、食事を続ける。

 

 ノアはカップの中が空になっても、エィミの食事が終わるまでは隣にいてくれた。

 

 ***


「エィミ様。おやすみなさいませ」


 この日は夜になっても変わらず屋敷は騒がしかった。

 ノアに言われたように、午後は自室の本棚から何冊か選んでノアの部屋で読んでいた。

 何故彼がそう指示したのかは不明だが、食堂から出て行く時にも念を押されてしまえば、言うことを聞くより他ない。

 エィミはノアが自分を傷付けることはしないと、知っているから。

 記憶の中の彼はただひたすらに甘く、ただひらすらに想いを伝えてくれた。

 机の中に戻した箱は、そういうキラキラした物が詰まっていて、眩しかった。


 では今のノアは?


 いつも忙しそうに動き回っている。

 子どもの頃。彼が学校へ行っている時間以外は同じ時間を過ごしていた。

 あの頃はなんでも話せていたから、お互いについて知らない事なんてなかった。

 でも今はどうだろう?

 ノアについて知っていることなんて、一つもない。

 ノアもエィミの話を聞こうとはしない。

 聞いたとしても、答えが返ってこないのだから、それも当たり前なのかもしれない。


 エィミは月明かりに誘われて窓の外を見た。

 月はまぁるく、一段と眩しい。


「今日はユウェール家主催の社交界が開かれているのですよ」


 エィミが声に振り向くと、先程就寝の挨拶を交わしたクレアが背後に立っていた。

「ノア様は主催者なので、本来ならば昼食もクラブでお付き合いがあった筈ですが……わざわざエィミ様に言伝を伝える為だけに帰って来られて……」

 尋ねてはいなかったが、知りたい事を教えてくれたクレア。

 言葉に少し違和感を覚えたものの、何も言わない。

 エィミは一瞬だけ、ハクの隣を早足で歩くノアの姿を認めた。

 いつもよりも煌めく服を身に纏い、まるでエィミの好きな本に登場する王子様のよう。

「舞踏会でノア様はどの御令嬢とダンスをされるのでしょうね。主催が踊らないという訳にはいかないでしょうから」

 エィミも王宮で舞踏会に参加した事はあるので、知っている。

 眩いばかりの空間で人と人が出会いを求める事を。

 皆、笑顔で相手に近付きダンスを踊る。淑女には必要だ、という事で、幼い頃、エィミもハクの指導で、ステップをひたすら鍛えられた。

 しかしながら、エィミはそこでダンスの腕を披露する機会はやってこなかった。

 ただ一方的に品定めをされ、求められれば身体を差し出さなければいけなかった、という嫌な記憶しかない。

「……」

 エィミは気持ち悪い自分の過去から目を背ける為、その場から離れた。

「社交場はこの部屋から最も遠い場所にありますので、音も届かないと思います。ゆっくりおやすみになられますよ」

「……」

 普段はリリーのおしゃべりに隠れてしまっているクレアが珍しく多く口をきく。

 エィミは口角を上げ、彼女の横を通り過ぎた。

「それでは今度こそおやすみなさいませ」


 ーーぱたん


 一礼と共にクレアが部屋から出て行くと、エィミは息を大きく吸って吐いた。


 身体の中心がゾワゾワ気持ち悪くうねり始める。

 それは社交界の事を思い出したからではない。

 ノアが誰の手をとって、その瞳を見つめているか想像してしまったから。


 いや。

 エィミは想像しなくても知っていた。


 だって、見ていたから。

 その姿に気付かない振りをして。


 あの金色だった髪が、エィミの知らぬ所で漆黒の色に変わり、色とりどりのドレスに囲まれていた事を知っていた。

 背丈が変わっても、髪の色が変わっても、声が変わっても、エィミを見る瞳は変わらなかったから。

 認めてしまったら、手を取ってほしくなってしまうから。

 エィミはひたすらその姿を視界に認めないようにし、そして他の男の手を取り、社交場を後にする姿をノアには見られたくなかった。


 だから。

 エィミは彼が社交界で自分を見ていた事は知らない。


 何をしているのかなんて知られたくない。

 知ってほしくない。


 ***

 

『好きってなぁに』

 記憶の中のエィミがノアに尋ねていた。


『心がぽかぽか温かくなる』


『ずっとそばで、こうやって笑っていてほしくて、離れていても、エィミは何してるかな、とか、困ってないかな、とか、早く会いたいなって思ってる』


 ねえノア。

 好きってなんだろう。


 わたしの中の好きは、ノアの言ってた好きと違う。


 温かいとか、そういうやさしいものだけでできてないみたい。

 心臓が痛くなって、苦しくなって、ヘドロの様な塊が全身を覆う。


 これってなんだろう。

 好きって気持ちと違うなら、この想いはなんと言うの?


 ノアの「好き」は今誰にあるの?

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