第14話


「好きだよ」


 そうノアに言われたエィミは、その瞳の中に自分の姿を認めた。

 いつかの夜中にも、同じ事を言われた。

 夢と現の間で放たれた言葉だったが、その時も今と同じようにトクンと心臓が鳴った。


 綺麗だ。

 好きだよ。

 愛らしい。


 何度も囁かれ聴き慣れた睦言の一つなのに、何故か彼の口から放たれた言葉は、優しくて切なくて胸を締め付ける。


『好きだよ』

 心に響く声と耳に届く声は全然違うのに、エィミの頭の中で言葉が重なる。


 小さかった頃、何度も何度もその想いを伝えてくれた男の子。

 太陽の髪をしていて、瞳は……そう。今、エィミを見つめている青年と同じ色素の薄いエメラルドグリーン色。

 目の前のノアは黒い頭髪だが、どことなく匂いが似ていて、ベッドに横になると、その香りで安心して眠ってしまう。


 心の奥の方に大切に鍵をかけて置いた、誰にも触れてほしくない宝物。

 時々取り出しては眺めて、そして現状に絶望して……。

 その内手に取る事をやめた想い出。


 ノアに差し出したエィミの手は、自分よりも大きな彼の手を重ねられ、そしてそれはきゅっと軽い力を込めて壊さぬ様に丁寧に握った。

「嫌だったら言って?」

 城にいた頃は、男の人が肌に触れてきたら、それに身を寄せ、擦り寄っていたエィミ。だが、自分からは絶対に触れなかった。

 彼女の目の前に立つ男は、エィミが自分から触れてきてくれた手の感覚を逃したくないと、その手をそこに止め置く。

 

 嫌ではなかった。


 むしろ、ずっと触れてみたかった。

 優しくされるだけで、あの日からエスコート以外で少しも触れようとしてこなかったノアの熱に。

 夢の中で「大好き」と自分に囁いたその人の熱を感じてみたかった。


「……」

 エィミは、首を横に振る。

 嫌じゃない。

「良かった」

 安心したという吐息のような呟きがノアから漏れ、エィミの手が頬の熱から離された。

「そろそろ帰ろうか」

 重ねられた手が、そのままエスコートのポジションを取り、ノアはエィミに歩くよう促す。


 もう少し触れていたかったのに。


 今まで感じていた彼の熱は麦畑を揺らす風に奪われてしまった。

 しかし、エスコートしている手も同じように熱くなっている事に気付くと、ノアの少し後ろをついて行くエィミの顔も、その熱を吸い取って赤く染まった。


 ***


「おかえりなさいませ」


 今日は一日休みが取れると言っていたのに、屋敷へ帰ると、待ち構えていたハクが勢いよく寄ってきて、ノアを執務室の方へ連行してしまった。


 取り残されたエィミは、リリーとクレアと共に自室へ戻り、リリーがお茶の支度をしてくれる。

「ノア様とはどうでしたか?」

 ニコニコと明るいリリーが話題を振る。

 例え話さなくても、こうして接してくれるのはとても嬉しい。

 昔もこんな風に楽しく笑っていた事があった。


 王宮にいた頃は、ただひたすらに外を眺めて過ごすばかりだった。

 仕える侍女たちはお世話をしてはくれたが、それらは全て与えられた仕事であって、決して楽しく一日を送る為に尽くしてくれている訳ではなかった。

 

 夜になると部屋の扉の向こうからやってきて、重ねられる大きな身体。それは一方的に熱を持ち、力の弱いエィミは諍う術を持たず、いたずらに弄ばれた。

 毎夜続けられたその行為は、エィミをただの人形としか扱わず、その周りを取り囲む人たちもまた、同じ様に接した。エィミは心を閉し、身体を開くことを強要された。


 時折、無駄に着飾られて出向く社交界。

 それは国の飾りの人形として。

 向けられる視線は数えきれぬ程。

 その先を知りながらも尚、差し出される手を取らざるを得なくて、抱かれに向かう。


 エメラルドグリーンの瞳がその姿をひたすらに映している事も知らない。

 幸せだった頃を思い出してしまったら、今の自分が可哀想だと分かってしまうから、彼女は全てを諦めていた。


 今ではもう、エィミの定位置となった窓際の椅子。

「そういえば」

 窓の外を見ていると、リリーが湯気の出たカップを差し出してくれる。

 中は砂糖の入った甘い緑茶。

 飲むとなんだか優しくなれる。

 懐かしい味がした。

「お気に召しましたか?」

 一口啜って嚥下した後、ほんのり笑顔になったのを見逃さなかったクレアは優しく尋ねる。

「……」

 エィミは口をきかなかったが、クレアは肯定ととる。

「小さい頃、エィミ様が好きでよく飲まれていたんですよ。外出されてお疲れだと思いましたので、久しぶりに用意してみました」

 お茶の準備をしたリリーが口を挟む。


 ちいさいころ。


 それっていつのころ?


 ユウェール家に来てから、皆が自分のことを知っている様な口調で話しているのが、不思議でならなかった。

 大事に抱え込んでいた宝箱の中身を知っている口振りは、その思い出の中にリリーたちも存在しているからか。


 まだその宝箱を開ける勇気のないエィミにはまだ分からない。


「ここは昔のエィミ様のお部屋です。あの時のままですよ」


 にっこり笑うクレアはそう言うと、リリーを目線で促し部屋を後にした。


 あまい。


 エィミはもう一口お茶を啜る。


 おいしい。

 うれしい。


 城から離れてしばらくが経った。

 ずっと感じなかったそういった感情を取り戻している最中だった。


 きょうも

 たぶん たのしかった。


 喉まで出かかっている言葉は、そのまま小骨の様に喉にささったまま、何かの拍子に飲み込まれる。


 イタイ。

 ヤダ。

 ヤメテ。

 カエシテ。


 いくら叫んでもその言葉は聞き入れてもらえなかった。


 だから、噛み砕いて飲み込み続けた。


 そうやって生きてきた。


 ここは……

 わたしのへや?


 言われて改めて空間を見渡す。

 部屋の雰囲気に合わせて置かれた本棚は、様々な国の言葉で書かれたタイトルが並ぶ。

 エィミはそう言われて、初めて外の世界以外へ目を向けた。


 わたしのもの?

 

 立ち上がり、本棚へ向かう。

 城にいた頃はそんなもの読まなかった。

 興味がないというより、疲れ果ててしまい、読む気力がなかった。

 しかし、ここへ来てからは良く眠れているし、方々から向けられる突き刺さる視線もない。

「……」

 エィミは、その中から一冊選んで手に取った。


 どこの国の言葉だろう。

 忘れてしまっていたが、文字は追える。


 エィミは椅子に腰掛け、本を机に置いた。

 金箔で縁取られた表紙の文字は触れてみると、どこか懐かしい手触りがする。

 彼女はゆっくりそれを開く。


 それは、お姫様と王子様が登場する話。

 両親によって大事に大事に育てられたお姫様。彼女は外に出たくても許してもらえない。

 ある日城の中にその姿を認めた王子が姫に一目惚れをし、城から連れ出す、という内容だった。

 大人が読みやすい、子ども向けの本。

 実はこのお姫様は、子どもが出来なかった王と妃が海に願い、海から託された人魚の子だったのだ。


 かつてのエィミはこの本がとても好きだった。

 覚える程に読み込んでしまい、それでも夢中になって文字を追った。


 エィミにとっての王子様は、ずっとノアだけだった。

 だから、幼かった彼女はこの本が好きだった。

 殻の外から、生まれる意思のないエィミに声を掛け続け、生まれておいでと言ってくれた、ただ一人。

 その声の為だけに生まれたいと願ったのだ。


 閉じ込めていた感情が、少しずつ顔を出し始める。


 エィミは視線を下ろした先にある引き出しに手を伸ばした。


 すぅっと抵抗なく引き出されたその奥には、薔薇の花が彫られている箱。

 彼女はこれを知っていた。

 優しく取り出し、その凹凸をそっと撫でる。

 蓋を開けると懐かしい文字の並び。

 毎日毎日続いたやり取りの記憶。

 エィミが出した手紙に返ってきた、ノアからの返信。

 彼女は一番上の一つを取った。


『愛するエィミへ』


 どの手紙も、必ずその言葉から始まる事を彼女は知っていた。


『雨だったので、ダンスレッスンをしたみたいだね。今はまだステップを覚える段階だから大変だと思うけれど、今度エィミをエスコートできたら嬉しいな。

 誰よりも君を想う ノアより』


 子どもらしからぬ文言で締め括られたそれは、エィミがハクから教わるレッスンが厳しい、という愚痴めいた内容に対する返しだったように思う。


 広げた手紙の上に落ちて弾む雫。

 エィミの瞳から溢れたそれは『生きた宝石』から結晶化したピンクダイヤ。

 彼女たちは愛玩として可愛がられるだけではなく、知る人間は涙を零させて宝石を手に入れ、富を築くものもいた。


「……のあ」


 エィミは机の上に落ちたそれを拾い上げ、口の中に入れる。


 この想いは知られてはいけない。

 昔と同じように想いを言葉してくれるノアが触れてくれなくなったこの身体は汚い。


 ーーごくん


 その感情を文字通り飲み込んだエィミ。

 その涙は喉を伝い、そうして身体中を巡り、誰にも見られない様に胸の内に仕舞い込んだ。

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