第13話
ノアが朝話してくれた様に、時折吹き抜ける風はとても気持ちが良かった。
外に出て風が心地良いなどと感じるのはいつぶりだろう。
外へ出なかった訳ではない。
彼と会えない時にも、リリーとクレアが常に庭園へと誘ってくれた。何も話さなくても、二人のやりとりを聞いているだけで楽しさは感じていた。
城にいた頃は、ただひたすら淀んだ空気の中に押し込められていた気がする。
時折煌びやかな世界に誘われ足を踏み入れると、そこも同じようにドロドロと濁って息が出来ない。
ユウェール家へ来て、しばらく生活し、そこでようやく自分は息を止めていたのだ。と、気付いた程に、息苦しさに鈍感になってしまっていたらしい。
「大丈夫か。姫さん」
黄金色に揺れる麦畑は、昔はもう少し高く感じていたような気がする。
それだけ月日も流れ、それだけ大きくなった。
そろそろ刈り入れ時期になる。
その前に金色に輝く絨毯を一緒に見たかった。
大人に怒られながら麦畑を迷路にして駆け回ったあの頃。
少し小高い丘になっている場所まで案内をし、ノアはそこに座った。ハンカチーフを引いてエィミにも座る様に促したのだが、彼女は隣に並んでくれなかった。
少し肩を落としたが、もしこの辺り一面に広がる黄金の波をみて、何か感じてくれたら嬉しい、と、エィミの背中を見ながら一人微笑む。
前みたいに笑って暮らせたらいい。
もう一度あの頃と同じ笑顔を見せてくれたらいい。
他愛もない話で笑い会えたらそれだけでいい。
「おぉーい。聞こえてるだろ」
二人だけの逢瀬だった筈なのに、恐らく馬車を認めてやってきたのだろう。
エイダンの声が後ろから掛けられているが、ひたすらに無視されているので、これみよがしにドカっと隣に座った。
「邪魔すんなよ」
せっかくの二人きりの空間に招かざる人間。
しかも、寝る間も惜しんで作った時間に。
「何それ。俺だって一緒に遊んでた仲じゃん」
仲間に入れてくれよ、と続けるエイダンに対し、眉間に皺を寄せ、迷惑そうな態度を隠そうともしないノア。
「姫さん。本当にお人形みたいになっちまったな」
ジュンからいろいろと聞いているのだろう。
首を突っ込まずに見守っていてくれてもいいと思うのだが、こうしてお節介に首を突っ込んでくるのは、幼馴染の御子息に弱音を吐く相手がいないから。
「……どうだろな」
侍女たちの間で「お人形」と呼ばれ、互いに楽しく着飾ったりしながら笑っていた時の言葉とは違う。
動かない愛玩人形。という意味。
ノアは顔を歪め、苦しそうに笑う。
「もし」
言葉を言いかけてエイダンは口を噤む。
「なんだ」
「手元に置いておくのが苦しくなったら、売ってしまえばいい」
幼馴染は冷たく言葉を吐き出す。
半分は本心からで、残りは嘘。
「……」
毒を吐いたエイダンは、物心つく前からノアと一緒にいた。
それこそエィミよりも過ごした年月は長い。
ノアの母親が屋敷から出て行ってしまった時、大泣きしながら侍女頭から離れなくなってしまい、しばらく家にジュンが帰ってこれずに、エイダン自身も寂しい思いをした事。
子どもの成長に興味のない父親との距離を図りかねて、せっかく家に帰ってきたのに互いに一言も会話出来ず、また何処かへ行ってしまう父親を見送って、後悔の言葉を漏らした事。
両親のいない屋敷で我儘を言う相手もおらず、幼馴染のエイダンがしばらくストレスの受け口になってしまっていた事。
エィミが来てからは、若干気取った部分は変わらないものの、しっかり子どもらしく無邪気に笑える様になっていき、そこで初恋を知った事。
実の父親の手でエィミと引き離されたノアは、しばらく魂の抜け殻になってしまい、喝を入れたのがエイダンだった。頬を叩かれたノアも痛かったと思うが、エイダンの手の平もしばらくジンジンと痛み、同時にジュンから激しい叱責を受けた事は少し苦い記憶だ。
彼女を取り戻す術も分からないまま、がむしゃらに知識を蓄え、稽古をつけてもらいながら身のこなしを覚え、今まで地位を築いてきたノア。
好奇の目で見られ、蔑まれ、自身を囲う色んな意味を持った感情に飲み込まれまいと必死で努力する姿は、狂気の沙汰ともいえた。
どこかで折れやしないか、挫けやしないかと、見守り続けてきたエイダンは、何度も「もう諦めろよ」という言葉を掛けたくなった。
だが、一度も言わなかったのはノアの為だけではない。
そうして、やっとエィミがユウェール家に帰ってきて、皆が笑えると思っていたのに。
またノアは頭を悩ませている。
ならば、もうやめてしまえばいい。
「そんなに苦しいなら手放したら?」
同じ言葉を口にしたのは、今度は本心ではなかったから。
ノアが絶対にそれをしないと知っているから。
幼馴染にギロリと刺されそうな視線を向けられ、エイダンは、ふっ、と、笑った。
「なら、甘やかしてやるしかねぇんじゃないの?」
子どもの頃みたいにさ。
口調を和らげ、「お前なら得意だろ?」と付け加える。
心が凍ってしまったのであれば、ひたすらに温めて、温め続けて、溶けるのを待てばいい。
エィミを甘やかすのはノアの得意分野。
「もうしてるよ」
そう答えたノアは「当たり前だろ」と言わんばかりの表情をしていたものだから、エイダンは思わず声を上げて笑ってしまった。
「何?昔みたいに好き好き言ってんの?」
「なっ……ばか。そんな事言える筈ないだろ」
顔を真っ赤にして否定する姿は揶揄いがいがある。
「なんで?今でも姫さんの事、好きなんだろ?」
「すっ……きだけど、まだ」
面白そうな話題を見つけたと言わんばかりのエイダンに、ノアは言葉を詰まらせる。
今はまだ、甘やかしている、というより、甘やかしたい、という希望の段階。それも、仕事が忙しくてなかなか会う時間も取れないからだ。だから今日、やっと一日空けたというのに、邪魔が入って少し機嫌が悪い。
「お前さ、そう言えば、姫さんが来てから余計に忙しくなってないか?」
ノアの自分を見る目が少し苛立ちを含んだそれに変わったのを感じ、エイダンは話題を変える。
「分かるか?」
「そりゃな」
よく息抜きで領地を見に来る事があったが、最近はあまり歩いている姿を見かけない。それはこの地で働く同い年位の女性陣も感じていたらしく、近頃ノア様を見かけないがどうしたのか、という質問をあちらこちらで聞かれた。
「いや。異国の大使を接遇しろって話が増えてきてさ」
「……」
ノアの溜め息にエイダンもその意味を察して口を閉じる。
「多分、エィミを……てことなんだろうけど……。俺がその思惑に乗るとでも思ってんのかって話でさ」
話している途中で苛立ってきたのか、後半から口調が荒くなる。
「色々クラブを手配したり、宴会だの狩猟だの、好きな事を調べたりしながら駆けずり回ってるよ。エィミとようやく一緒にいられるってのに、その時間を作り出す事が出来ないでいる俺の仕事の処理能力の遅さに嫌気がさす」
一気に捲し立てられ、エイダンは聞き役に回った。
こういう事は、誰かに吐き出してしまった方がいい。
「後悔してる?」
「まさか。これっぽっちもしてない。する筈ないじゃないか。エイダンだって、俺が何のためにここまでやってきたか知ってるだろ」
「ならやるしかないんじゃないか?」
「ああ」
エイダンは色んな事を軽々しく言葉にしている様に感じるが、付き合いの長い幼馴染にしか分かり合えない事だってある。
いつも背中を押してくれるのは幼馴染の言葉。
「でも時々、エィミを連れてここから逃げ出したくなる」
毎晩、彼女が寝付いた後に自室に戻る様にしているノア。ほぼ毎日の様にうなされている姿を見てしまうと、胸が痛くなる。
彼女が夜中に何をされてきたのかなんて考えたくもないし、何がエィミの心を壊してしまったかなんて想像もしたくない。
自分も彼等と同じ男だという目でエィミから見られているのだとしたら……。同じ括りにされてしまっているのであれば、もう恐らく先には進めない。
エィミを金で買ったという事実は変わらないから。
ノアはそれが恐かった。
だから、毎晩。彼女の眠りを確認し、少しだけ寝顔を眺めてから、離れた場所で自分も眠る。
少しでも側にいたくて。でも、怖がらせたくないから距離を置く。
「いいんじゃない?」
「あ?」
「ノアが逃げたとしても屋敷の人間やここの奴らは誰も文句言わねぇと思う」
弱音を吐いたノアに、返ってきたのはお気楽な言葉。
「ノアは親父さんの代わりに十分やってきたじゃん。俺はお前の親父キライどけどな。……分かってんのか?お前はこんな目に合わされても何も言わないから、俺が代わりに言ってやってんだぞ」
ノアは自分の事を言われているのに、どこか他人事のように聞いている幼馴染に迫る。
リベルテが外へ出たまま『生きた宝石』の存在を忘れてくれていたら、エィミもノアも、問題なく結ばれていただろう。
まぁ、エィミが人でない、という事は多少壁にはなるだろうが、世の中には人の知らぬものがたくさんあるという。エィミが幼い頃、人魚やら魔法使いやらが出てくる本を好き好んで読んでいたので、何処かの国にはそういった人でないものも暮らしているのだろう。
人目を惹く外見以外は、エィミだって何ら人と変わりないのだから、そういった類のものが人間に紛れて生活していてもおかしくはない。
「ありがとな」
自分の親を嫌いだと真正面から言われたというのに、ノアは少し嬉しそうに笑う。
「みんな、土地だけ転がしっぱなしで自分たちの生活を顧みなかったリベルテよりも、真っ向からぶつかって領地改革したノアの味方だぜ。今まで好き勝手してきた奴に押し付けてもいいんじゃねぇの?」
害虫にも自然災害にも強い品種を作りたい。
という幼馴染の意見を理解した上、変革を望まない領地の人間を共に説得し続けたエイダン。
皆が毎年の天候を気に病んで、空の様子を不安げに見上げているのを知っているから。そこに住まう彼だからこそ協力した。
そうして、知識のあるノアなら実現出来ると誰よりも知っていたから。
「逃げてもいいと思うよ」
向かい続けなくてもいい。
エイダンは彼が走り続けている姿しか知らない。
「気分転換してきたら?」
彼だけじゃない。
エィミだってエイダンの幼馴染だ。
望まぬ世界に放り込まれ、戻ってきたら光を失っていた。
ノアがその光になってくれたらいい。
「で、疲れたら帰ってくればいいじゃん。旅行行くつもりでさ。で、気に入ったら居付いちゃえばいいし」
「居付く……て、そんな無責任な」
「だって、お前の親父だって、そんな生活してるだろ。確かに金も持ってくるかもしれないけど、留守にしている尻拭いをしてるのは、お前やハクさんじゃん」
ずいぶん呑気に言ってくれる。
ノアは大きく息を吐いた。
だが、休んでもいい、と、はっきり言ってくれたのは、エイダンだけだった。
当たり前だ。
疲れたら休めばいい。
そんな単純なこと、言われるまで気が付かなかった。
ノアは、言いたい事だけ言って去っていってしまった親友の背を頼もしげに眺めた後、その姿が見えなくなると、風に揺れる麦畑を一人で見つめているエィミの隣に立った。
「エィミ」
声を掛けると首をくいっと、ノアの顔を見上げる。
「……」
「……」
エィミを屋敷に迎え入れても、エイダンの言うようにノアは仕事が忙しく、中々二人の時間がもてていない。
信頼できる侍女たちからは、一日の出来事を報告してもらっているが、叶うのならば自分がずっとエィミの世話をしていたかった。
甘やかしたいし、想いも伝えたい。
ただひたすらに愛してあげて、閉じ込めておきたい。
だが、それは王宮に囲われているのと何ら変わりない。
ノアはエィミの頬に触れようと腕を伸ばそうとするも、途中で怖くなり引っ込めてしまう。
触れたい。
触れていいものか。
嫌がられたらどうする。
拒絶されたら……。
エィミを大切にしたいばかりに、今まで彼女にどう触れていたのかすら分からなくなってしまう。
エイダンには、甘やかしてるなどと強がって言ってはみたが、本当はどう接していいのか迷っている。
「……エィミ?」
拳を作り、俯くノアの頬に、冷たい彼女の手が伸びてきた。
名を呼んでも答えてはくれないが、いつまでも黙ったままの彼を心配そうに覗き込んでいる。
「エィミ」
何度も何度も呼んだ名前。
ノアが名付けた名前。
ずっとずっと会えない間も呼び続けていた名前。
そんな哀しそうな顔をさせたいんじゃないんだよ。
僕はただ、君に笑って欲しいだけなんだ。
「エィミ」
ノアは自分に触れてくれた手の平に、自分の手を重ねる。
「好きだよ」
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