第10話
ノアはその会場を出るや否や、屋敷に先触れを出した。
一つは今すぐ王宮へ指示した金額を用意する為。
そして、もう一つは、長年使う者を失っていたその部屋の支度を整える為に。
ずっと抱き上げるだけの力がなくて出来なかったお姫様抱っこも、今なら軽々と出来てしまう。しかも、折れそうな程に細い線の女性なら尚更。
澱んだ空気の部屋からお姫様を連れ出したノアは、しばらくそのまま抱きながら歩き、人目のつかない場所まで来ると、その月明かりの届く手摺りの部分に彼女を腰掛けさせた。
「エィミ」
「……」
「僕のこと……分かる?」
「……」
聞きながらも、ドクドクと五月蝿いくらいに心臓が鳴る。
髪の色も違うし、いつの間にか声も低くなってしまった。
ノアはエィミに見つけてもらえるよう、ずっとあの時のままで時を止めていたかった。しかし、それは彼女が美しく成長するのを止められないのと同じで、叶わぬ望みだった。
月明かりに照らされるエィミは天使というより、女神。
胸が早鐘を打ち続けるのを止める術もなく、その温もりに触れてもいいものか迷いながらも、ノアは彼女の頬に手を伸ばした。
すると、その途端。
「ッッ」
差し伸べられたその男の手に擦り寄る様に、エィミは自身の頬を軽く押し付ける。
「エィミ」
「……」
名を呼んでも、かつての様に呼び返してはくれない。
「俺の事が分かるか?」
「……」
条件反射なのか。
エィミは、質問に口に笑みを優しく浮かべる。
だがその綺麗に輝く瞳は、ノアを真っ直ぐ見つめながらも、その心に彼を映してはいなかった。
「エィミ……」
「……」
周りまで笑顔にさせてしまう力を持ったエィミの笑顔は何処に消えてしまったのか。
可愛らしく会話を楽しむ彼女の声は何処に消えてしまったのか。
ノアは自分から触れた手に頬を擦りつけるエィミから体温を離し、拳を握る。
手の届く範囲にいるのに届かない。
ノアはされるがままの人形になってしまった彼女に触れて良いのか躊躇いながらも、ひとまず、座らせた手摺りから抱き上げて下ろす。
そうして、今度は手を引いて歩きだした。
かつての自分がエィミにそうしていた様に。
***
ノアが馬車から降りると、ハクとジュンが既に待っていた。
社交界なんて皆が寝静まった真夜中に行われるのだから、それを楽しむ貴族様たちは、皆、どうかしていると思う。
「こんな非常識な時間にすまない」
帰宅の挨拶を述べ、ノアが珍しく頭を下げた。
エィミはまだ馬車に座らせたまま。
「何をおっしゃいますか。坊ちゃんは、坊ちゃんの心に従って動いたまででしょ」
珍しく肩を落とした姿のノアに、そういって気さくに接することが出来るのは、長年勤めているジュンだからこそ成せる技。
「私はこのまま王宮へ向かいますので」
早くオークションで述べた額を納めて、この件を収束させてしまいたいという、彼の願いを叶える為に、ハクは走り回っていた。
今や屋敷の者皆が、ユウェール公爵家当主とは名ばかりのリベルテではなく、ノアの方が主人に相応しいと思っているので、その主人の希望を叶える為なら、例えば無理難題でも動き回る。
「ハク。ありがとう」
姿勢は正されたまま、今まで方々を駆けずり回っていた事をお首にも出さない家令は、歳を重ねた今でもとても格好いい。
「ノア様とエィミ様の為であれば、いくらでも」
ハクは再び礼を重ねると、既に準備してあった馬車にひらりと乗り込むと、行ってしまった。
彼が留守にしても屋敷の秩序が保たれるのは、侍女頭のジュンがいるからでもあるが、行動が早いのはとても助かる。
ノアは今まで乗っていた馬車を見遣り、ジュンに告げた。
「もし、彼女たちがまだ起きていてくれているのであれば、クレアとリリーにエィミの世話をお願いしたいのだが」
ノアが名前を挙げた二人は、彼女がまだユウェール家に居た頃、お世話をしてくれていた侍女たちだ。
「勿論でございますよ。お食事になさいますか?それとも……」
「もう遅い。湯浴みを」
「かしこまりました」
ジュンは「行ってよい」とノアから許可をもらい、先んじて屋敷の中に戻ると、既に起きて支度を整えていた彼女たちに指示を出し始めた。
「……」
あのまま連れて帰ってきてしまって良かったのか。
ノアは心の中で一人自問する。
揺れる馬車の中。
会話もなく、ただ、暗く揺れる密室の中、所在なさげなエィミが倒れてしまわぬよう、隣に座り、腰を支えた。
スマートに振る舞えているか、嫌がられていないか、そればかり考え、迎え入れた後、どうすればいいのかなんて考えていなかった。
「エィミ……」
だがひとまずは、かつて共に暮らしていた屋敷へ。
ノアは膝に置かれたままの彼女の手を取り、馬車から降りる為にエスコートした。
「クレア。リリー」
屋敷に帰ると、既に彼女たちが待っていてくれた。
エィミの状態を聞いていたのか、少し苦々しげな表情を互いに浮かべるも、ふと横に視線をずらすと、主人の方が隠せない程に悲しげな瞳をしているので、ハッと我に返り、普段の自分たちの通常運転に戻った。
「よろしく頼む」
「勿論ですよ」
言いながら二人とも腕まくりをする。
「エィミ様ー。お久しぶりでございます。覚えてらっしゃいますか?」
タタタタタと、小走りでエィミの側に寄ると、二人で両脇を取り囲み、ノアはあれよあれよという間に押しのけられてしまう。
「相変わらずお綺麗で羨ましくなっちゃいます」
忘れていたが、かつて、この二人がエィミの世話をしている時もこうして賑やかだった。
愛らしい彼女をどう楽しませようか、それをエィミも共に楽しんでいたことが記憶に蘇る。
「ひとまず湯浴みをしましょう」
「ノア様も、ちゃっちゃと済ませてしまってくださいませー」
夜中だというのに侍女たちのテンションは高めであるが、ノアはそれを咎めない。
そうだ。
思い出した。
あの、笑顔で溢れていた時間を。
ノアは彼女たちの背中を見送りながら、やっと少し笑みを浮かべた。
「エィミ様」
「何処か気になる所などございませんか?」
浴槽に湯を張り、吸い付く様な肌にリリーが触れていく。
肌や髪の毛のお手入れは王宮に居たからか、完璧な程に整えられていた。
「悔しい程に美しく磨かれております」
「オイルなどは何を使っていたのでしょう」
クレアが鼻息荒くエィミに詰め寄るが、いつもされるがままだった彼女が分かるはずもない。
艶やかな肌や髪に鼻を近付け、匂いを香る。
「……」
今日は、スパイクラベンダーから採れた精油を湯に数滴垂らされ、見た目も楽しめる様に、花も少し浮かべてある。
かつてのエィミであれば「ありがとう」「気持ちがいいわ」「今日はお花が一緒なのね」などと会話もあった。しかしながら、侍女たちの仲でも比較的仲の良かったと自負していた自分たちと再会してからも、エィミの表情は張り付いたまま、一言もない。
ジュンから予め聞いていたが、本当にお人形になってしまったようだ。
侍女たちは、言葉にはしないが、彼女の身体のそこかしこに残る、男の人が触れたことを感じさせる跡。
リリーとクレアは、互いにその事には触れぬまま、それらが早く消えてくれるよう、願いながらエィミの身体に触れていった。
「ノア様は……」
ふ、と、リリーは彼女を再びこの屋敷に迎え入れた彼の名を呼ぶ。
でしゃばっていい事ではないのは重々承知。
クレアが目で「やめなさい」と制するのが分かっても、言いたかった。
「ずっとエィミ様の事を想っておりましたよ」
お湯なのか汗なのか、それとも涙か。
リリーの頬を何かが伝う。
あんなに一緒にいたのに、自分たちを見ても何も反応がないのが寂しいのか。
身体に残る跡を想像して悔しくなったのか。
ノアの気持ちを想像して悲しくなってしまったのか。
そのどれもが当てはまる気がして、リリーはそっと涙を拭った。
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