第8話
あの日の事は忘れたくても忘れられない。
何故起きなかったのか。と、自身を責め、飛び起きる事がほぼ毎日、今でも続いている。
いくら追いかけてもエィミは擦り抜けて消えてしまう。
そうして、がむしゃらに生きてきたノアは、富と力と権力を手に入れていた。
金色に輝く髪が、歳を重ねるにつれて黒く染まる頃には、自分を取り囲む人間の醜さに嫌気をさすことが多くなった。
かつての弱い自分が、馬車で連れて行かれるエィミを引き止めたとしても、力ずくで連れて行かれてしまうことなど、容易に想像がつく。
彼女が屋敷から姿を消してからしばらく。
ブリアール国の使節団がユウェール家を訪れ、主人がいない中、ノアが伯爵から侯爵への身分を賜った。
もらったからといって、特に何が変わった訳でもなく、当時のノアには必要のない身分だった。
それから数年が経ち、再び
何していないのに公爵を拝命し、社交界へ顔を出し始めたばかりのノアは、その理由について、陰で自分を噂する人の話で知った。
ユウェール家が伯爵になれたのは、エィミを気に入った何処かの国との外交がうまくいったからだ、と。
生きた鉱石を献上したユウェール家の爵位を上げよう、という事らしい。
ノアも、この頃には既に家令のハクから領土の管理の全てを任されるようになっていた。この話を耳にした時、ノア自身が馬鹿にされているのか、と憤慨した。
好きだった少女を攫って、慰み者にしておきながら、地位と名誉が上がるのだから、全て水に流せ、ということなのか、と。
管理している土地も特別潤っている訳でもなく、陞爵するような功績は何も起こしてなどいない。
社交界へ出れば、羨んだ人間たちからは陰口を叩かれ、欲にくらんだ人間は見目麗しいノアに群がる。
表向きは笑顔でいながらも、内面は決して違う。
ユウェール家の内部を知ろうと擦り寄ってくる者を適度に交わし、身体に触れてくる蛇のようにまとわりついてくる腕や視線などを笑顔で制する。
社交場は苦手だった。
しかしその一方で、ノアは王族関係者の出席する社交界には必ず顔を出していた。
その理由はただ一つ。
人脈を広げる為と、ハクに言われるがままに参加した初めての社交界で、王の隣にその姿を見つけてしまったから。
一目見て彼女だと分かった。
足が彼女の方へ向かうのを止められなかった。
「エィ……み」
そうして、名前を呼ぼうとして気付いた。
彼女に群がる人間の多さに。
成長したとしても、放つ色香は変わらなかった。
否。
更に増していた。
皆が彼女を見つめ、魅了される。
誘われる様に近付き、そうして王から許可の出た者と共に、何処かへ消えていく。
ノアは遠くからただひたすらにその姿だけを目で追っていた。
辿り着いた部屋で何をしているかだなんて、想像もしたくない。
エィミが居なくなってから、ノアは一人で大きくなった。
彼女がどんな存在で、大人たちにどんな扱いを受ける為に連れてこられたのか知っても、何も動けない子どものまま。
行き着く先は憎しみでいい筈なのに、リベルテの事は恨みきれなかった。
唯一血の繋がった父親だからかもしれない。
一番は、彼が本当に鉱石にしか興味がなく、リベルテもエィミをノアの初恋の女の子、というよりも、ただの愛でられる宝石として扱ったというだけだからだ。
売られて行った先で彼女が何をされるのか。
想像しただけで虫唾がはしる。
大きくなるたびに、大人に近付くたびに、彼女に触れる欲望を纏った大きな手が、何を求めているのか、鮮明に理由を知ってしまう。
何故俺はあの時、大人じゃなかったのか。
力のない子どもだったのか。
本当なら、ずっとずっと僕が大切にしてあげたかったのに。
ノアはその一心で大人になった。
今はまだ王の隣に立つ彼女の姿を見つめながら。
***
「ノア様」
ユウェール家が所有する領地を歩いて回っていると、背後から声を掛けられた。
「なんだ?……エイダンか」
振り向き姿を確認すると、その名を呼んだ。
社交場に出た翌日は、一人の時間が欲しくなる。
どろどろに汚くなった心と身体を落ち着かせる為に。
皆が愛情を込めて世話をする麦が、風になびいて揺れている光景が好きだった。
「
「なんだよそれ」
極力丁寧に接しようと近づいたエイダンは、笑って領主の背中を叩く。
彼はジュンの息子で、ノアとは幼馴染の仲だった。
二人でいたり……エィミが居た時には三人でだったが……する時には、互いに気さくに交流していた。
「領地の管理をお前がするようになってから、みんな明るくなったよ」
暗に、父親は何もしていない、と示唆しているのだが、事実そうなので、聞こえないふりをする。とはいうものの、つい最近まで、所在のない親に代わり、屋敷のことや領地の管理をしてくれたハクには感謝しかないので、その恩は返しておきたい、と、早い段階から家令に仕事の仕方を教わり始めた。
認めたくはないが、金ならいくらでもあった。
父親であるリベルテは、本当に鉱石しか興味なく、それに対してお金を使うだけで、他の事には使わなかった。幼いノアの耳には入らないようにしてくれていたのだろう。領地の人間は、自分たちに手を掛けようとしない領主に対し、少なからず不満に思っていたらしい。だが、それを表立って口にしても、外に出ているばかりのリベルテには届かない。それらの全てをハクが受け止めていた。
よって、彼から仕事を受け継いだノアは考えた。領地の人たちが仕事を楽しく出来るにはどうすればいいか、と。ノア自身も勉強は好きではなかった。ただ、上手に教えてくれるアンシシがいれくれたので、薬学だけは好きだった。
少し遊び的な要素も含みつつ、辛いこともあるだろうが、成果も上がるような……。
初めは軌道に乗らなくても仕方ない。
何のための金だ。
不作を補填するだけの先立つ物ならいくらでもある。……と、ならば自分たちで試行錯誤しながら、新しい品種を作ってみるのはどうか、と提案した。
ただ、お金をかけて高い作物を植え付けろ、という訳ではない。
長い目を見て良い麦を。
災害が起きても負けることのない種を作る為に、色々な種類の麦を育て、交配を続け、この土地にしか作れないものを育てようと。
領土に顔を出し、人々の意見を聞く。
不満を言っていた者たちも、小童が必死に説得しにくるものだから、熱意に絆されてくれた。
こうして実った麦が、つい最近、ユウェール公爵家領地でしか採れない、というブランド力を持つ事になった。
「それにしても、お前の屋敷も人辞めないよなー」
しばらく歩きながら見回っていると、出し抜けにエイダンが一人ごちる。
「ならエイダンもうちで働けばいい」
「やだよ。親の監視もある場所で働くなんて。なにより、お前のその口車に乗せられて側にいたら、絶対嫌な立ち回りさせられそうで」
ハハハと、ノアは軽く笑う。
「お前、公爵になってから、政治とかそっち方向の仕事も忙しいだろ。やだよ。こっちは俺が何とか立ち回れるけど、笑顔貼りつけたまま腹の探り合いはしたくない」
エイダンは指で自分の目や口を釣り上げて変顔を作る。作り笑い、を表現したのだろう。
「まぁな。こっちはお前がいるから安心してるよ」
風に揺れる麦畑を見ながらノアは言った。
社交辞令ではなく本心からの言葉。
「社交場によく顔出してるんだろ」
「……まぁな」
ノアは「触れてくれるな」という意味を込めて返事した。
社交界になんてまるで興味のないエイダンが、何を聞きたいか察したからだ。
「エィミは?」
「……」
ノア程ではないが、幼い頃僅かではあるが時間を共にした仲である。
彼女の事を耳にして、心配していない筈がない。
何よりも、彼女が連れ去られた後の、あの壊れた人形の様な虚な目をした頃のノアをエイダンは知っていた。
今では普通に振る舞っていて、その容姿や手腕から、縁談話が引く手数多な目の前の男が、たった一人をひたすらに心に想い続けていることを知っている。
良くも悪くも彼には遠慮はないが、心に隠し持った闇もないエイダンとは、まるで正反対に育ってしまったノア。
「いたよ」
「そっか」
「……」
「……」
会話はいつもそこで途切れる。
その先に続く言葉を互いに持ち合わせていないから。
二人はしばらく無言のまま、平和な声がそこかしこから聞こえてくる麦畑で、ただ吹くだけの風に耳を傾けていた。
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