第7話
この食堂に顔触れは違うものの、三人が集まって食事を摂るのは、もしかしたら初めてかもしれない。
ノアが生まれた頃は、親子三人。
今は、リベルテとノアとエィミ。
横並びであるのは代わりないが、ノアの右隣にエィミ、そして、その離れた椅子に主人であるリベルテが着席した。
ノアが一人で食事をしていた頃は、レイやジュンと交わす言葉など僅かなものだったが、エィミが共に暮らす様になり、食事中は淡々と食べるそれではなく、楽しく賑やかに過ぎる時間になった。
毎日そばに居ても、不思議なことに互いの口から出る言葉は途切れない。
「パーロル国には伝説の人魚という種族がいるらしいの」
と、エィミが読んだ本について話せば、
「今日はアパルにこてんぱんにやられた」
と、屋敷を警護してくれている騎士に、武術を習っている事を聞かせる。防御を主体にしながらも、隙をついてノアを狙うアパルの攻撃は、スマートで隙がない。ノアの憧れの騎士だ。
今回はそこにリベルテも加わり、楽しそうに話を続ける子供たちを見ていた。
エィミは何処か遠い異国の地で伝わる言葉「立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花」が似合う女性へとの成長途中で、恐らくこのままノアと共に過ごせば、その身に一心の愛を受け、とても美しく花開くだろうと、誰もが思っていた。
「エィミは食べ方がとても綺麗だね」
二人の会話が途切れた一瞬。
リベルテが彼女を眺めながら言った。
「……」
口に甘酸っぱくソテーされた鶏肉を頬張ったところだったエィミは、目を丸めると、一生懸命咀嚼し、ゴクンと飲み込むと、ナプキンで口を拭い答えた。
「ノア……様が私に全て教えて下さいました」
隣に座る彼の方に優しい視線を向けて。
するとノアも彼女に微笑み返し、二人のナイフを持つ手が止まる。
「そう」
リベルテは自分から聞いたにも関わらず、既に興味がなさそうに、再び食事に手をつけ始める。
答えた言葉は宙を舞い、ひらりと誰の耳へ届くのか。
リベルテは一人黙々と、手と口を動かしながら出された夕食を片付けていくと、「美味しかった。ありがとう」と先に食堂を後にした。
***
真夜中。
街の灯りは消え去り、空は厚い雲に覆われ、星の瞬きどころか月明かりさえも届かぬ夜。
ノアは普段なら隣で寝息をたてている筈のエィミの姿がないこと。
そして、屋敷の入り口につけられた馬車の車輪がたてた音で、ハッと目が覚めた。
「エィミ?」
姿がないのだから呼んでも返事はなく、既に冷たくなったベッドが、その不在を実感させる。
ザワザワと胸の中に黒い虫が蠢く様な感覚がノアを突き動かした。
「エィミ?」
白い薄手のネグリジェ姿であることも厭わず駆け出す。
屋敷の玄関に。
嫌な予感がした。
走りながらも外から微かに聞こえる音に耳をそばだて、馬車が行ってしまわないか注意を払う。
エィミ。
エィミ、エィミ
ザワザワと胸が痛い。
今日は……。
いつもの様にこっそりエィミが寝床に侵入した事を確認し、ノアは再び瞼を閉じた。
父親の帰宅もあったが、だからといって久しぶりの再会に心弾ませ、そばをついて離れない、などということはしなかった。どちらかというと、休日なのでいつもよりアパルの訓練が厳しかったくらい。彼女の気配に「おやすみ」と言葉をかけ、身体の疲れに身を任せ、すぐに眠ってしまった。
だから、気付くのが遅れてしまったのだ。
もう一人の侵入者に。
暗闇に目が慣れていたノアは、一目散に走った。
エィミ、エィミ、エィミエィミエィミ
頭の中で彼女の名前だけを反芻する。
エィミエィミエィミエィミエィミエィミエィミエィミ……
何故自分は人の気配を感じずに惰眠を貪っていたのか。
早く早くと気ばかりが逸る。
馬車が動いてしまえば、きっともう遅い。
喉の奥が痛くなっても、足がもつれても、頭がこれ以上走れないと悲鳴をあげても、ノアは走るのをやめなかった。
エィミエィミエィミエィミエィミ
「エィミっっ」
馬車はまだ目の前に。
本当ならこの場で崩れ落ちてしまいそうな程、足を動かした。
息をするたび胸が突き刺さる様に痛い。
けれど、ノアはエィミを乗せたであろう馬車の扉をガンガンと強く叩き、自身の存在を主張する。
迎えに来た。と。
内側からカーテンが閉められ中は見えぬまま。
「エィミ。エィミ」
中にいることは分かっている。
そして、連れ去ったのが誰なのかも検討がついている。
「ノア」
外から中が見えぬ様遮断していた幕が内側から開かれ、その姿が見えた。
「父上……」
ノアの父は珍しい宝石を王家に献上している。
自らそれを探し回る為、家を留守にする事も多かった。
ノアは忘れていた事を思い出した。
温室に珍しい卵を隠したのは誰だったか。
こっそり父の後をつけ、彼が屋敷を出て行った後に再び訪れた。摘んで持ち上げ、かざしてみると、キラキラと光を纏い輝く卵。
そこから生まれたエィミは……宝石?
「せっかく眠っているのだから……。エィミが起きてしまうよ」
「連れてかないで」
「これは人間ではない」
「知ってる」
知ってる。
だって、人間は卵から生まれない。
父親と話しながら、外から扉を開けようとガチャガチャノブを回しても、内鍵を掛けられているからか、びくもとしない。
「お願い。連れてかないで」
「……これは元々、王に献上する為に持ってきたものだ」
「違う。僕のだ」
「ノア。これは『生きた宝石』と呼ばれ、なかなかお目にかかれない貴重な物なんだ」
「いきた……ほうせき?」
「本来は、その美しさ故に、見つけられてすぐに売り飛ばされ、慰み者になることが多い。まぁ、それだけでも一生遊んで暮らせる額は貰えるのだが……。私は少し考えた。教養を身に付けさせたら、下衆な人間だけでなく、王家にも献上することが出来るのではないか、と」
リベルテは、これで最後、とばかりに語り始める。
「ノア。お前はよくやってくれた。これはもう十分成長した。年もいい頃合いだし、これ以上余分な知識や感情を覚えてしまっては困る」
「父上。エィミを返して」
ノアは馬車に縋りついた。
エィミが何者だろうともう関係なかった。
「まぁ、これも美しいからな。人を惑わせる。幼いお前が夢中になってしまうのも仕方ないだろう」
「なら……」
「駄目だ。もう報告は上がっている。お前もこれのことは忘れろ」
「父上っっ」
カーテンが閉じられ、リベルテが中から合図を出したのか、御者が馬の手綱を引いた。
「まってっっ。待って。エィミィィィィ」
エィミとリベルテを乗せた馬車が、するりとノアの手を離れていく。
「ヤダッッ。待って。行かないで。お願い」
自室から玄関まで来るのに、体力を使い果たしてしまっていた。
ノアは足に力が入らず、走りたくても生まれたての子鹿の様に足がもつれて、追いつかない。
「エィミエィミエィミ」
呼んでも叫んでも馬車は止まるどころか、速度を上げるばかり。
「お願い。止まって」
叫び声は御者に届いているのだろうか。
きっと中の人物にまで届いている筈だ。
「エィミィィィィ」
いくら叫んでも馬車は戻ってきてくれない。
「エィミ」
走って走って走って走って
その姿が見えなくなってもノアはひたすらに追い続けた。
裸足のまま。
走って走って走って走って
「エィミ……」
愛しの名を呼ぶ声も掠れる。
「エィミ」
そうしてとうとう膝をつく。
「……」
なんで?
どうして いっしょにいちゃ いけないの?
なんで つれてっちゃうの?
「アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア」
痛い痛い痛い痛いいたいいたいいたいイタイイタイイタイ
言葉にならない叫びはただ音として空に響き、こだまする事もなく、空気になって消えていく。
「アアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア」
イタイイタイイタイイタイイタイ
どこが?
苦しくて…………苦しくて苦しくて苦しくて苦しくて
苦しくてたまらない。
初恋を失った。
小さくて力のないノアは、ただ叫ぶことしか出来なかった。
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