第5話
小さな煌めきがその命の誕生を祝福し、騒がしく瞬く夜。
言葉が少し理解出来ると知ったノアは、エィミに自身の事を知って欲しくてたくさん話して聞かせた。
彼女がどこから生まれてきたのかなんて、もうとっくのとうに頭から消えていた。
ヴァイオリンの音色を聴いている時には、心が安らぐ事。
騎士にも憧れているので、身体を鍛えていること。
庭師のアンシシさんは、薬草の事も色々詳しいから薬学の時にはいろいろ教えてもらって、トップの成績がとれていること。
自分のことをたくさん知って欲しくて、ひたすらに話し続ける。
明日も学校に行かなくてはいけないし、予習だって完璧ではないのが分かっていながら、寝る間が惜しくて仕方がない。
いくら時間があっても足りない。
まだ孵る前の卵に話しかけていたみたいに、いろんな事を取り止めなく話したくて仕方がなかった。
そうして気付いた時には二人ともベッドで寝ていたらしい。
朝の光が瞼を刺激し、夢の中に出かける人々に帰ってこいと知らせる。
そこから逃れる様に身を捩らせ、薄らと目を開けた。
白銀色の絹糸?
鼻筋を、手の甲をくすぐる細い糸。
先に目覚めたノアは隣で寝息をたてるエィミから飛びのいた。
「えっっ?なんで?」
喉まで出掛かっていた言葉を飲み込む。
息が手に掛かるほどそばで無防備に寝息をたてつづけるエィミ。
規則正しく上下する身体を見ていると何故だか安心し、その頭を優しく撫でたくなってしまう。
物音を聞きつけて室内をノックし入室してきたハクに音を出さぬ様聞いてみると、昨夜部屋の外で控えていた侍従が物音がしなくなった部屋の中へ入ると、互いに互いの服の裾を離さないものだから、そのまま二人で寝かせてしまったと言っていた。
「はなれたくなかったから」
目を擦りながらエィミに言われてしまえば、何も言えない。
「ッッ」
ノアはもう一度顔からベッドにダイブした。
ずっとドキドキさせられっぱなしで、ノアの心臓は壊れてしまいそうだった。
***
エィミと紹介された少女は、ノアが学校の帰りに見つけて連れてきてしまった身寄りのない令嬢、という形でありながらも、屋敷の皆に歓迎された。
今は仕える者がノア一人しか居ないユウェール伯爵家。
突然仕える者が増えて活気付いた。
しかも、ノアは普段学校へ行っているので、侍従たちは日中、屋敷の掃除だったり雑用だったりをしていることが多く、侍女たちは楽しみが少なかった。
そんな所へお人形みたいなエィミが来てしまったものだから、いろいろいじられてしまうのは必然といえば必然。
屋敷の中の落ち着いた内装が、女の子が好きそうな花や緑で溢れかえるのに、そうそう日にちは掛からなかった。
ノアもそれに対しては口を出すことなく、逆に屋敷内の少し沈んでいた空気が明るくなってきたので、嬉しく思っていた。
エィミの日中の過ごし方については、ノアがハクに相談し、侍女たちに指示を出す。
あまり無理をさせない程度に、作法や語学、テーブルマナーやダンスを学ばせてあげてほしい、と。
侍女頭のジュンが先頭になり、その為の家庭教師を探したり、屋敷内で出来る者に声を掛けたりした。
「ノア。おかえりなさい」
と、駆け寄り抱き着いてくるエィミは、誰の目から見ても天使だと思う。
地に降りてきた天使をそのまま愛でていたいものだが、「エィミ様」と後ろからジュンの叱責する声が現実へと引き戻す。
「だってすごく待ってたんだもん」
頬を膨らませる姿もとても魅力的だが、エィミは侍女頭の視線を背に、覚えたてのカーツィを披露する。
身体の軸もブレているし、姿勢もそこまで落とせていないけれど、頑張って練習しているのは分かる。
背中を真っ直ぐに伸ばし、体幹と筋力をもう少しつければ上手に出来る筈だ。
視線を下げたエィミが「がんばったでしょ?」と姿勢を戻し、にっこりと笑う。ノアはドレスの裾を持ち上げていた手を取り、その自分よりも小さな手に口付けると、更に笑顔は嬉しそうに広がった。
「頑張ってるね。それで今日は何したの?」
ノアも笑顔を返し、自室に足を進めるとエィミも当然の如く付き従った。
「今日は文字の読み書きを習ったの。何回も書かされたのよ。手が疲れちゃった。後でみてね」
「うん」
「昼食もお腹いっぱい出されちゃって」
言いながらお腹を押さえるその姿が愛くるしい。
悲しかったり、嬉しかったり、淋しかったり……そんな感情を素直に言葉にし、表情にも表してしまう。
少し前のノアも彼女と同じだった。
だが、ノアは爵位ある地位の下に生まれてしまった。故に、感情は人前で露にしてはならないと、ことあるごとにハクに言われ続け、今はその通り感情が表に出ないようになってしまった。
「そっか。じゃあ、明日から量減らしてもらおうか」
「ちがうの」
「え?」
「どれも美味しくて食べすぎちゃって」
頬を赤らめながら恥ずかしそうに話してくれる。
言葉を交わせる様になってからというもの、エィミはいつかのノアの様に、楽しそうに自身に起きたことを話して聞かせる。
「そっか」
エィミから紡がれるそんな他愛無い、どんな会話も楽しくて、ノアの心は彼女と一緒にいるだけで、ぽかぽかと温かくなる。
「料理人のリコさんに言えば、すごく喜んでくれると思うよ」
まるで自分が褒められたみたいに嬉しそうな顔をするノアは、エィミのその感情を共有して表情が豊かになってきた。
それは、ユウェール家に長く仕える人間だから気付ける些細な感情の機微ではあったが、周りで見守る大人はその二人に口を挟む事なく、そっと見守り続けた。
***
ノアが課題をこなす間は、エィミも静かに絵本などを読んで過ごした。
彼の言葉を聴いて過ごす時間が長かったからか、話す事は直ぐに習得し、あとは筆記を頑張っているという。
文字の読み書きを覚えるには、本を読んだり手紙を書くのが一番ですよ、とジュンに言われてからはエィミは毎日ノアに手紙をしたためるようになった。直接手渡しはしてくれず、机の上に置かれているので、いつだったか、「毎日顔を合わせるんだから、その時渡してくれてもいいのに」と言ったら「恥ずかしいからダメ」とハッキリ断られた。
一方エィミは書いた手紙をいつ読んでくれるのか、本を読んだりしながらチラチラとノアに視線を向けるが、彼はいつもそれを横に置き、先に課題に手をつけてしまう。
「いつ読んでくれるの?」
痺れを切らしてつい口を尖らせてしまったら、ノアは持っていたペンを置き、「これのこと?」と手紙をヒラヒラさせる。
「お楽しみにとっておくんだよ。大切なものだから、時間のある時にじっくり読みたい」
その目が、まだちょっぴり子どものノアが見せるにはまだ早い、愛おしいものを見るそれだとエィミは気付いているだろうか。
「そうなの?」
「うん。そうしたら、僕も返事書くからね」
「うん」
ノアはその言葉通り、もらった手紙は返事を書き、彼の方はエィミの手に直接渡した。
気付けば宝物はたくさん増え、彼女のしたためる文字も淑女のそれに近付いてきた。
ノアが理不尽な事で心が折れそうな事があった時には、その裏表のない言葉の並びに毒気を抜かれた事も少なくない。
そうしたやり取りをしながら、彼女も大人しくゆったり流れるノアとの時間を楽しんだ。
ノアが学校へ行っている時間以外は、二人はずっと共にいた。
食事をする時も、互いにそれぞれの課題を出された時も、時にはノアが先生となりエィミを指導する。
気づけばカーツィも王宮の姫たちと肩を並べても遜色ない程に見事になった。
毎日の食事も余計な音をたてることなく、美味しく味わえる。
時折ノアはヴァイオリンを奏で、エィミはそのそばで音色に耳を傾ける。
もう何処からどう見ても、伯爵家の立派な令嬢だった。
「ねぇ。エィミ?」
家の庭園の芝に座りながらノアはその頬に触れた。
「なぁに?」
そんな少し気障ったらしいセリフも所作も、嫌味に感じないのは、彼の持つ容姿故だろうか。
エィミを月と表現するならば、ノアは太陽。
一度視界に入れてしまえば頭から離れなくなってしまう程、眩い髪に、もしかしたらエィミよりも長いかもしれないまつ毛。
まだ鼻は低いが筋は通っており、瞳はまん丸というよりも、少し切れ長で大人っぽい。
二人が並べばそれこそ物語に出てくるお姫様と王子様そのものだ。
触れるたび、僕のことを好きになってくれたらいいのに。と少しの希望を込めながら、ノアはいつもエィミに触れる。
けれど、いつだってエィミはノアの鼓動を早めるばかりで、彼女自身は戸惑う素振りも見せず、無邪気に振る舞う。
ノアはそれが苦しかった。
エィミも僕のこと好きになってくれたらいいのに。
きっと、エィミは生まれた瞬間に僕のことを見たから、親みたいに思って付いてくるだけ。
本で読んだことがある。
エィミはきっと初めて見たのが僕でなかったら、違う人間に喜んでついていく。
それが、なんだか寂しい。
僕は君を見た瞬間、心を奪われてしまったというのに。
ちがう。
きっと、生まれる前よりずっと。
だから、最近思う。
考える。
君は誰?
君は何?
「エィミ」
「なぁに?」
頬に触れられ少しくすぐったそうに笑う顔はやっぱり魅力的で、自分だけが知っていたいと思う。
「好きだよ」
「?すき?」
「うん」
言葉の意味が分からないのか、いつもの様に頭を傾げる。
どんな彼女も愛らしい。
ノアはいつもしているみたいに言葉の意味を教えるつもりで口を開いた。
エィミが言葉を知らないのは当然。
ノアもその単語を初めて口にしたものだから、聞き返された時の責務だと、いつもしている様に説明する。
「何より大切で」
好きってどういう事?
どんな気持ち?
ノアは自分の心の思うまま言葉にする。
「エィミを思うと心がぽかぽか温かくなる」
「うん」
「ずっとそばで、こうやって笑っていてほしくて、離れていても、エィミは何してるかな、とか、困ってないかな、とか、早く会いたいなって思ってる」
「うん?」
「ずっと触れてたくて、触ってみたくて……」
こんな事、ノア自身も伝えたくて言っている訳ではなかった。
はた、と、われに返る。
ただ気持ちを知って欲しくて、一度言葉にしてしまったら、堰を切って溢れてしまった。
止めなくちゃと思いながらも、止められなくて、最後は恥ずかしさで声が小さくなる。
「こういう気持ちかな」
真っ直ぐノアに向けられる視線が彼の身体中をたぎらせ、自分からエィミを見つめていたというのに、結局いつも通り視線を外すのはノアの方。
「そっか」
「うん」
真剣に告白したつもりなのに、本人に伝わらないのはちょっとやるせない。
「わたしも好きだよ」
「え?」
「そういう気持ちが『すき』ていうなら好き」
「……」
予想はしていた。
多分エィミならそう言うんだろうなって。
違う。
そうじゃない。
それだけじゃない。
ドキドキして欲しい。
こうやって。
ノアはエィミの頬に唇を寄せる。
「え?」
触れるか触れないかの。
「僕はもっとエィミにドキドキして欲しい」
精一杯の告白。
「僕がエィミにドキドキしてるみたいに」
「……。うん」
唇はすぐに柔らかい頬から離れ、エィミはノアの触れてくれたそこを撫でる。
「……」
「……」
甘酸っぱい空気が二人の鼓動を早め、少年は自分の心が初めて抱く感情を抑えきれなかった自分の行動におでこをかく。
この時。
恥ずかしさに顔を下に向けてしまったノアは知らなかった。
涙を流した事のない彼女の瞳から、一粒の宝石が溢れたことを。
たった一粒溢れて、それがあまりにも小さい粒だったので足元に隠れてしまったことも。
七色に輝くそのピンクの粒が何を示しているのかも。
のちに彼は、彼女の正体を知ると共にその言葉の真の意味を理解する。
恋は幸せな感情だけで出来ていないと。
気持ち悪いまでにドロドロな感情も含めて恋であると。
狂おしいまでに狂ってしまうのが、自分の……自分たちの恋であると。
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