第4話


 ノアは少女の手を繋ぎながら、自室に向かった。

 繋ぐ手は少し冷たくてひんやりしているのに、一方の手だけ妙に熱を帯びている。

 静かな夜に、ドクドクと自分の心臓の音だけが妙に響くのを感じながら、少年は歩き続きた。


「ここだよ」

 ノアは扉を開け、少女を招き入れる。

 こんな夜中に屋敷の者以外をいれるのは初めてだ。

 彼女が扉の前で止まってしまうものだから、手を引いて一緒に部屋の中に入る。

 

「座ろうか」

 部屋の中には本を読んだり、寛ぐのにお気に入りのソファにエスコートし、隣同士で座った。


 今はふたりきり。

 聞きたいことは山のようにある。

 けれど、話せないのであれば……。

 ノアは聞きたい言葉を一度全て嚥下し、澱んだまま動かない空気を動かす。

「今日のご飯は美味しかったなぁ」

「……」

 苦手な物も出てきたけれど、それは一番初めに食べてしまったから、克服してしまえば、安心して食べられる。

 シェフの作ってくれる食事は毎日美味しい。

 嫌いな物でも食べやすいように調理法を工夫してくれたり、子どもが食べやすいように考えて並べてくれる。

 けれど、今日はいつも以上に美味しく感じた。

 いつもは一人きりだから。

 だからこそ、余計に。

「君が来てくれるまで一人で食べてたから」

 聞かせるというよりも、独り言が漏れた感じで。

 子どもが作るにはまだ早すぎる作り笑い。

 それは、彼女に対してというよりも、そういう環境で暮らしている自分に対して。

「……」

「……」

 ノアが話さないと部屋の中は沈黙に包まれる。

「えっと……。名前……何て呼ぼう」

 ほぼ独り言の会話に、答えてくれる人はおらず、ノアは頭の中で言葉を巡らせる。

 しかし頭の中に思い浮ぶ単語を並べても、それらには各々持ち主がいて、どれも顔までしっかり浮かぶ程に少年と近い距離。

 食事をしている間中、ずっと考えていた。

 彼女を何て呼ぼうかと。

 話し掛ける度に考えていた。

「エィミ……は?」

 頭に浮かぶものを口にしてみる。

 そうすると、その言葉がとても輝いて聞こえて、耳が喜ぶ。

「君の名前はエィミ」

 ノアは自分がエィミと名付けた少女を真っ直ぐ見つめる。

 そう呼んでしまったら、それ以外の名前は思い付かなくて、自分は何ていい名前を付けたんだ、と、誇らしくなる。

「えぃみ」

「……」

「……」

「え?」

「ノア」

 空耳かと思った。

 繰り返された言葉に。

「え?名前?僕の?」

「ノア」

 人を指差してはいけないけれど、エィミはノアの鼻先に指を近付けてはっきりと呼んだ。

「僕の名前。……ノアは僕の名前だよ」

 呼ばれた瞬間、嬉しさでか、恥ずかしさでか、よく分からない高鳴りが胸を大きく打つ。耳まで赤くなる。

「で。君は今日からエィミ」

「えぃみ」

 まだ上手く発音出来ないのか、少しだけ舌ったらずな言い方がとても可愛い。

「喋れたの?」

 素直な疑問。

 話せたなら何故今まで口を噤んでいたのか。

「あなたのこえ……ノア」

「うん」

 ひとつひとつ。

 何かを確認するかの様に紡がれる言葉に、ノアは丁寧に返事をする。

「ばいおりん……は」

「ヴァイオリン?」

「こわいせんせいにおこられて……」

「先生?」

「なんのたまご」

「ん?」

 法則生も何も関係なしに言葉を並べるエィミに、反応が追いついていかない。

「どらごんだったら……」

「……うん?」

「ろさ・がりか・おふぃきなーりす」

「……薔薇の名前?…………」

「はやくうまれないかな」

「あっっ……」

 こんがらがった言葉の並び。

 

『語学の勉強の成績がトップだった』

『庭園のロサ・ガリカ・オフィキナーリスが咲いたよ』

『ヴァイオリンで難しい指使いを克服できた』

『すぐ怒る先生がいるんだよね』


『うまれておいで』


 その正解を導き出せるのは、ノアだけ。

 何故なら。


『早くうまれておいで』

『僕が愛してあげる』


「もしかして、ずっと声聞こえてたの?」

「ノアのこえ」

「僕が話してるの、聞いててくれたの?」


 ノアは息を大きく吸い込んだ。


 嬉しくて。

 うれしくてうれしくて。


 聞こえてた。

 聞いててくれた。


 なんでもない毎日のことを。


「だから、話せるのかな」

「はなせる?」


 毎日。

 毎日毎日、一方的に聞こえてきた言葉の波が、目の前の少年から生み出されていたものだと、エィミはようやく知った。

 毎日欠かさず聞こえてきたから、何を言っているか分からないけれど、聞こえてこないと不安になった。


『早くうまれておいで』


 て、優しい音が聞こえてきたから、生まれてきたの。


 あなたにあうために。


 ***


 ねえ わたし うまれたよ

 のあが うまれておいでって いってくれたから

 あいしてくれるって いってくれたから


 わたしは しあわせに なれるかな


 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る