第3話


「坊ちゃんっっ」


 帰宅時間になっても、夕食の時間になっても姿の見えないノアを心配して、みなが屋敷中を探し回っていた。

 屋敷の外に探しに出た人間もいると聞いて、ノアは自分が敷地内に戻ってはきたが、そのまま温室へ直行してしまったことを後悔した。

 一言。

 たった一言屋敷の人間に伝えておけば、ここまで大事にならなかった。

 そんな先の見通しが甘くなってしまった程に、ノアは秘密の卵の誕生を心待ちにしていた、とも言える。

 幾ら自由度の高いユウェール伯爵家とはいえ、まだまだ子どもの彼にも守らなければならないルールはたくさんある。

 弾んでいた心は一瞬で急降下し、沈んでしまった。

 ノアは背におぶっていた少女をそっと地に降ろし、玄関の外で待っていた侍女頭へ向き直ると、姿勢を正した。

「坊ちゃんっっ」

 言葉と共にとてつもない勢いで突進してきて、そのまま後ろに倒れてしまいそうな程に、力強く抱き締められた。

「ジュン」

 圧迫されて出しにくい声を絞り出し、されるがままに身体を委ねる。

 くるしいよ。

 なんて、自分を心配して抱き締めてくれる彼女に言えるはずない。ずっと母親代わりを勤めてくれているジュンは、ノアの中ではもうずっと母親だった。

 厳しくて厳しくて。

 厳しい方が多いけれど、それでもちゃんと優しくて。

 ノアが人に触れる事が好きになれたのは、彼女のお陰だ。

「まったく」

 温もりが離れた瞬間、身体中に空気が行き渡る。それ程に力強く抱き締められていた。

「何処かに行くのであれば、行き先と時間と相手を伝えてから行きなさいと言っているでしょう」

 これはもう完全に母親。

「ごめんなさい」

 非は完全にノアにある。

「謝るのは私だけではなく、探し回っていたみんなに。しっかり一人一人に伝えること」

「はい」

 言いたい事を言い終えたジュンは、厳しかった顔を一瞬で優しいものに変え、「おかえりなさい」とノアを迎え入れる。

「で。そちらのお嬢様は?」

 表情は侍女頭に戻り、ノアの背中にちょこんと佇む少女に視線を向ける。

「たま……」

 少年は一瞬思案した。

 卵から産まれた。

 と、正直に話しても信じてもらえるだろうか。

 ノア自身も目撃しなければ、到底信じられる話ではない。

 何故なら少年も今日まで卵の中身を知らなかったのだから。

「……一緒に住んじゃだめ?」

 何と答えればいいのか分からず、目的だけを伝える。

「我が儘ですか?」

 ジュンが楽しそうに聞く。

「我が儘……。そう。我が儘……かな」

 卵を産み落とした母親は分からず、ノアは何年も卵の成長を一人で見守ってきた。

 この子の親はどこにいるのか。

 帰る家はどこに。

 いないのであれば、自分が家族になってあげよう。

 ノアは後ろに立つ少女の手に自分の手を伸ばし、結ぶ。

「たくさん怪我してるんだ。髪の毛も……」

 侍女たちにしてもらいたい事がたくさんありすぎて、言葉が渋滞する。

「分かりました」

 それを察した侍女頭は優しく微笑み応える。

「お嬢様のことは、私たちにお任せ下さい」

「ありがとう」

 その一言で力が抜ける。

「お坊ちゃまも怪我されているので、まずは湯浴みをしてもらって、それからお食事にしましょう」

「そしたら、眠くなっちゃうよ」

 暗に、全て終わってから学校から出された課題を片付けなさい。と言われ、思わずノアは反論する。

「それでは、そこのお嬢様はいつお食事を摂られるのですか」

「……」

「それともユウェール伯爵家のノア様は、初めてこの屋敷を訪れたご令嬢に一人で食事をしろとおっしゃっているのでしょうか」

 冷たく言い放たれた言葉に、ノアはハッとする。

 自分の事しか考えていなかった。

 気遣っているつもりでも、全然できていない。

 だから、自分はまだ子どもなのだと。

 こういう部分でまだ配慮に欠けていると実感してしまう。

「お嬢様の身支度には多少のお時間が必要かと思われます。その間、自分の時間をお過ごしになっていて下さって構いません。終わりましたらお呼びに伺いますので」

 目に見えて落胆するノアは、その一言に目を輝かせた。

 言葉の真意が分かったからだ。

「じゃあ、頑張ってその間に終わらせる」

「その前に、しっかり清めて下さいませ。怪我をしていらっしゃるのは、坊っちゃまも同じですから」

 子ども二人に柔らかく微笑んだジュンは、やる事が決まったからか、キビキビ歩く。

「あら」

 後ろを振り返りながら前を歩くジュンが何かに気付いた。

「お嬢様。靴を履かれていないのですね」

 長すぎる髪の毛に隠れていた足元は、泥まみれで剥き出しの足のまま。

「それでは、失礼いたします」

「っっ」

 ジュンは言葉と共に少女に近付き腰を屈めると、軽々と彼女を抱き上げた。

 再びの身体が浮き上がる感覚に、足をバタバタさせる少女は、「大丈夫ですから」というジュンの微笑みで大人しくなる。


 その抱き方は、僕がしたかったのに。


 ここまでおぶって来ただけでも、身体の脱力感が酷くて、自分がまだ身体が小さい子どもなのがとても悔しかった。


 早く大きくなりたい。


 置いてけぼりにされたノアは、すこしくちびるを尖らせ二人に着いて行った。


 ***


 ノアが湯浴みをし、侍女に傷の消毒をしてもらい、部屋で課題も解き終わり、明日の予習をしている時だった。


 出された課題を早々に片付けた頃から、ノアはそわそわし始めた。


 そろそろかな。

 早く呼びに来ないかな。


 語学の教科書を開きながらも、全く集中できず、ついつい扉に視線が向いてしまい、それに気付きまた教科書に目を通すも、扉へ……という一連の動作を繰り返す。

 

 ーーコンコン


「ノア様」


 待ちに待ったノックの音。

 だが、声は待ち人ではない。


 音と同時に椅子から立ち上がったノアは、扉を勢いよく開けてしまった。

「あ……」

 そこには姿勢良く少年を見下ろす家令のハクが立っていた。

 彼は、主人の留守を預かるこの屋敷の責任者。

 ノアは部屋に籠るまで、ジュンに言われたのもそうだが、会う侍従たち会う侍従たちに、迷惑を掛けた謝罪をしていたが、そういえば、彼にはまだしていない。

 一番にしなければならない人なのに。

「えっと」

 ノアは何を言うべきか考える。

「迷惑かけてごめんなさい」

「今度からはもう少し考えて行動してください」

「……」

「……」

「え?それだけ?」

「はい」

 いつものようにお説教が始まるかと思っていたので、肩透かしをくらったノアは、間抜けな声を出してしまう。

「ジュンからいろいろ言われたでしょう。それで十分なのでは?それともまだ何か言われたいですか?」

 細い目がさらに細くなり、ノアを見る。

「ないっ……ない」

 首を必死に振るその姿が愛らしくて、つい笑みが溢れそうになってしまうが、我慢する。

「食事の支度が整いました」

「行く」

「フッ」

 食い気味にこられ、我慢していた笑いが漏れてしまうが、幸いな事にノアには聞こえなかったようで、食堂に向かって歩みを進める。


 家令を勤めるハクは、ジュンからノアが連れてきた令嬢の話を聞いていた。

 何を聞いても口を開かぬ状態で、名前も家柄さえも分からない。

 ただ一つ分かることは、容姿がとても美しいということ。

 服は着ずに、ノアのジャケットのみを纏っていた状況を見た侍女たちは、何があったかと噂を始めたが、その玉のような肌に触れ、見たことのない月白色の緩やかに伸ばされた髪色を目の当たりにし、まるで子どもの頃に大事にしていたお人形のようだ、と、楽しそうにお世話を始めたと報告があった。

 どんな人間も夢中にさせてしまう令嬢とは、どんなだ、と、興味がそそられなくもない。

 生憎、ユウェール家に同じ年頃の同性がいないので、洋服の不自由さには目を瞑ってもらいたい。

 にしても、どこから拾ってきたのか。

 物心ついた時から両親の愛を知らずに育ってきたので、どこか冷めた目をする子どもだった。

 だが、侍女頭のジュンが、それではいけない、と、自分の息子に注ぐ愛情を彼にもかけはじめた。そこまでしたら彼女の子どもが捻くれるのでないかと思ったが、そうならなかったのは、ジュンの性格の為せる技なのか。

 家庭のあるジュンは毎日家に帰り、息子のエイダンは、気の向いた時に遊びにやってくる。そうして毎日を送り続ける内に、自然とノアとエイダンは悪ふざけをし合う悪友へと変貌していった。

 ハクは足速に目的地へ向かうノアの後ろで楽しそうに笑った。


 ***


「……あ……」

「……」


 食堂の扉を開けると、身を清めた彼女が既に座っていて、こちらを見た。

 部屋の明かりがいつもより眩しい。思わず手が伸びそうになるのは止めるが、眺めることまではやめない。

 その輝きに思わず目を細めてしまうノアは、動きを止めた。

「ノア様」

 彼女の姿を認めた途端。

 息の仕方を、身体の動かし方を忘れたみたいに、螺子の巻き忘れた人形のように。

「……」

 時間が止まる。

 丁寧にとかされた長い髪は頭の上で一つに大きく纏められ、今まで隠されていた頸を露にさせていた。くすんでいた髪は香油やローション、オイルで艶を与えられ、空の色を示す月白というより、暗い空で光り輝く月そのもの。

 よくここまで綺麗になったものだと感心する。

 この屋敷には仕える者が今はノアしかいないので、そういった類のもの置いてはいない筈。恐らく侍女たちの私物を持ち出してくれたのだろう。

 お礼を言わなければ、と胸に誓う。

 砂と泥と血で汚れた肌も綺麗に磨かれ、白磁の様な肌が輝いている。

「ノア様」

「え?ああ」

 何度か呼んでいるというのに、やっとハクの言葉に返事をする。

「お席はこちらに」

 と、引かれた椅子は彼女の隣。

「あ……。えっ……と」

 椅子に座るとノアは何を話そうか話題を探した。

「またせちゃってごめんね」

「……」

「たべようか」

「……」

 少女の顔を覗き見ながら話し掛けるが、当然の如く言葉はない。そして、彼女も自分を見つめている。

「よい食事を」

「……」

 挨拶をし、出された食事を見る。

 レタス、アーティチョーク、パセリ、アンチョビ、ラディッシュ、玉ねぎ、ニンジンなどの野菜に、塩や酢などで調味されたドレッシングがかけられたサラダ。

「……」

 ノアは止まった。

 アーティチョークは苦い感じがして嫌い。

 玉ねぎはピリピリするから嫌い。

 そんな眉間に皺を寄せて止まる様子を、少女は遠慮なく覗き込んでいる。

「……」

 ノアは視界の隅で見られている事を分かっているから、彼女にいい所を見せたかった。

 いつもなら嫌いなものをお皿の隅に避けておくと「一口でもいいから食べなさい」と言われるので、その通りにして後は残してしまっていた。

 ノアはフォークを持つと、野菜をまとめて刺して口へ運んだ。

 息を止めて咀嚼する。

 本当はドレッシングもちょっと酸っぱくて苦手だ。

 頑張って噛んで……噛んで噛んで飲み込む。

 喉に引っ掛からないように、十分すぎるほど噛み続けて。

 そうして、自慢げに彼女を見遣った。

「美味しいよ。食べてごらん?」

 にっこり笑いかけても、少女は無表情のまま。

「こうやって、フォークを持って……」

 ノアは微動だにしない少女に近付き、食事の仕方を教える。

 ぎこちない手つきだが、教えてあげると吸収するのが早く、ノアの真似をしながら、野菜を一口頬張った。

 口をもぐもぐと動かすところから、食べ物が喉を通るまで目を逸らさず見つめているものだから、ハクから視線で咎められる。

「……っっ」

 その表情は、美味しかったのか、そうでなかったのか。それとも、初めての食事に驚いたのか。首がグリンと少年にむき、まん丸に見開かれた虹色の目が何かをノアに訴える。

「ごめん。何を言いたいのか分からないや」

 肩をすくめるノアは正直に述べる。

「食べよ。野菜が終わらないと次が出てこないんだ」

 言いながら少年は一生懸命フォークを動かすと、彼女もそれにならった。

 スープが出てきては、スプーンの持ち方を教え、パンが出てきたらお皿に取り分けてあげる。

 しかし、慣れないとなかなかに硬っ苦しく、零してしまったりを繰り返してしまう少女に、ノアは言った。

「昔は手で食べてたこともあるんだって。今日は特別」

 と、自ら手で取って食事を続け、見守っているハクや侍従たちの肝を冷やした。

 

 そうして楽しんで食べた食事の後は、各々の時間を過ごす為にノアも自分の部屋に、少女はゲストルームに案内を……と、食堂を出た後だった。

「え?」

 服の裾を掴まれたノアはそちらの方を向いた。

 そこには俯き、自分に縋る少女の姿。

「……なぁに?」

 首を傾げ聞いてみても返事はない。

「うーん」

 どうしようかと考えを巡らせる。

「僕の部屋にくる?」

「ノア様っ」

 背後からの激しい叱責。

「大丈夫だよ」

 突然の大きな声に身体を弾ませた少女に、ノアは優しく声を掛け、握られていた服の手を取り繋ぐと、彼は家令に向かって言い放つ。

「僕は一人で寂しがってるこの子を一人にできない。だから、許してください」

 ユウェール伯爵家の一人息子が、使用人に対して頭を垂れる。

 そんなこと、本来ではあってはならないことだが、ノアはそんなことくらいで、一緒にいられるのなら、幾らでも頭を下げられると思った。

「ノア様。私もそんなつもりでは」

 子どもならではの素直な行動にハクだけでなく、見ていた者たちが息をのんだ。

 二人はまだまだ子どもだ。

 別に夜を二人で過ごすからといって過ちが起きることを想像している訳ではない。

 

 名も身分も不明な薄汚れた少女が、ノアに不義を働かないかが不安なのだ。

 ユウェール伯爵が不在の間に一人息子に何かあれば、ただでは済まされない。


「もし、心配なら部屋の外に誰かいてよ。で、何かあったら入ってきていいから」


 有無をも言わせぬ笑みでノアは言い放つと「行こう?」と少女の手を引いた。

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