第2話


「え?ドラゴンの卵じゃないの?」


 その宝石の誕生に居合わせた少年は落胆した。


 家を出る前に卵に「いってきます」の挨拶をしようと温室に足を運んだノアは、卵の異変に気付いた。


 生まれる!


 卵の脇の方に、細くて細かい線が走っている。

 昨夜はなかった模様。


 本当は行きたくなかったけれど、休んでしまえばそれが親に伝えられてしまう。

 今までも。きっとこれからも恐らく。

 両親からの愛情を十分に与えられず、寂しい生活を送ってきた分、少年は自由にさせてもらっていた。だが、そんな生い立ちのこの少年が笑顔を忘れなかったのは、侍従たちからたくさんの愛情を注がれ続けているからだ。時には親よりも怖く叱りつけられ、力強く抱き締められ、スキンシップが多かったからに他ならない。

 他の屋敷ならば、けっして許されることのない特殊な環境が、この少年を育てた。

 ユウェール伯爵家。

 父親の仕事柄。与えられたその称号故に、家長は滅多に家へ寄り付かない。

 だからこそ、ノアを始めとして、仕える執事も侍従もシェフも皆が大きな一つの家族として生活している事を、父親は許容していた。


 生まれる!


 ヒビの入ったただ一点だけを見つめ続けたが、なかなか姿を見せてくれない。

 そうこうしている内に、学校へ行く時間が過ぎてしまう。


「僕が帰ってくるまで生まれちゃダメだよ!!」


 ノアは逸る気持ちを抑えられずに、その欲を素直に言葉にする。

 一番に誕生をお祝いしてあげるのは、僕だ。


 少年は、大急ぎで帰宅してから、卵のヒビが大きくなっている事に、心を躍らせる。


 よかった。

 まだ生まれてない。

 ちゃんと僕のこと待っててくれたんだ。


 ノアは胸を撫で下ろした。

 彼の母親も自分を放っておく夫に愛想を尽かし、広い家にいるのはノアと給仕してくれる執事や侍従たちのみで、彼らは少年が秘密にしておきたいことを、秘密のまま許容してくれていた。


 だから今、この屋敷の中で卵の存在を知っているのはノアだけ。


 ドラゴンが産まれたら、一生懸命お世話して可愛がって、背中に乗せてもらって空を飛ぶんだ。

 そんな夢のような事を本気で考えていた。


 ピシッッ……


 殻が割れる時間がもどかしく、手を出したいと思った。けれど、こういう時は人が触れてはいけない事を何かの本で読んだ。


 うまれてこい。

 うまれてこい。


 ノアは祈る様に身体の前で両手を組み、卵から視線を逸らすことなく、見つめ続ける。


 バリ……パリパリッ……


 ヒビの入った部分が鼓動しているかの様に盛り上がったり凹んだりを繰り返したと思うと、しばらく動かない。

 ということが何度も続いた。

 温室の外の陽も気付けば沈み、世界は夜に導かれていく。


 今日はまだ学校から出された課題も、明日の講義の予習も、剣の鍛錬も何も出来ていない。


 ハクに怒られてしまう。


 だが、そんなこと、これから生まれてくる命を前にしてしまえば、取るに足らない。


 ……っ……パリン


「……手?」

 

 ガラスの弾ける様な音と共に飛び出してきたのは、ドラゴンの鉤爪でも、何でもなく、ノアのよく知る形状。


「にんげんの?」


 少年は立ち上がると、恐る恐る近付いていく。


「…………?」


 にょきにょきと当てもなく彷徨う手は、創られた彫刻の様で、そして、よく見ると何処から垂れているのか、赤い筋が手首を伝う。


 ケガしてるの?

 血?

 ただ生まれてくるだけなのに怪我しちゃうの?


 ノアは外へパラパラと散らばっていく卵のカケラの一つを拾いあげる。

 こんなに固くて……。

 ガラスのカケラみたいに鋭角で、でも、比べ物にならない程に月明かりに煌めいている。

 突き破って生まれてくるなら、怪我しちゃう。

「……っっ」

 視線を下へ落としていたノアは、視界から消えた手に心臓が高鳴る。


 カリッ……パリン……


 一度殻の外へ出てきた手は、再び中へ引っ込み、そこから穴を広げようとしているらしい。


 生まれておいで。

 僕が待ってる。


 深い海の色をした瞳が潤いを増す。


 パリン……カリッカリッ


 自然と身体に力が込もり、心の中で「がんばれ。がんばれ」と応援することしか出来ないのがもどかしい。


 どんどんどんどん。


 壁を叩く様な響く音が卵から聞こえる。


 一気に破ろうとしているのかな。

 それならこんなに近くにいたら僕も怪我してしまうかもしれない。

 ノアがそう思い、一歩後ずさった瞬間。


 ーーパリーン


 中から弾けるような、ガラスの砕ける音。


 割れてしまったら一瞬で。

 ノアは両腕で自らの顔を守る事しか出来なかった。


 顔を庇った腕や露出している足に、一瞬ナイフで軽く斬られたような痛みが走る。


「いっ……」


 そうして眉を顰め、閉じた瞼を開いた瞬間。


「……」

「……?」


 ノアは言葉を失った。


 そのあまりにも美しい姿をもった少女に。


「……」

 一体、何と表現したらいいのか。

 ありきたりではあるが、この世のものではない神や天使のようで、ノアは一瞬で心を奪われてしまった。

 地面に着いてもまだ長く伸ばされたその光り輝く月白色の髪は、色の名の通り夜の色に映え、その身体を、緩やかなうねりを持ちながら隠している。

 そこからほんのり覗く肌はまるで白磁で出来ているのか、少し扱いを誤ってしまえば割れてしまいそうで、触れるのが怖い。

「……」

 ずっと。

 ずっと喉の下の辺りがドクドクドクドク鳴っていて、とても苦しい。

 苦しいのに、目が逸らせなくて、早く彼女の俯く瞳が僕を捉えないかと、ひたすらに望んだ。

 ただ、今でこの状態なのに、目が合ってしまったら自分はどうなってしまうのか。

 人は人から産まれる。

 では、今まさに、卵から孵ったこの少女は何なのだろう。

「っっ」

 何の前触れもなく、少女が跨げていた首をノアの方へ向けた。


 きみはだれ?

 きみはなに?


 ルビー色をした小さな唇は軽く開かれ、頬は肌が白いが故に、染まったピンクがその愛らしさをより一層際立たせている。

 ノアを見つめる瞳は……一体、何色?

 玉虫色と表現してしまうには、あまりにも表現力がつまらなすぎて、ひとたび瞼を閉じる度に、覗く色が変わっていく。透明な水晶にクラックが入り、見る角度によって虹色に変わる様に、見ていて飽きる事がないみたいに、ずっと見つめていたくなる。


 まるで、時が止まってしまったかのように、互いに見つめ合ったまま。


 微動だにしないノアを動かしたのは、赤い一雫だった。

 

「血」


 ノアはようやく口を開いた。

「ち?」

 殻を破る時、手首を流れる血の筋を見つけていたというのに、それを忘れていた。

 少年の単語を少女が繰り返し、その音を聞いて更に鼓動が早くなる。

 このまま心臓が痛すぎて死んでしまわないかな。と、苦しさに一度胸のあたりを押さえたノアは、拾ったカケラをズボンのポケットに仕舞い、産まれたままの姿で立ち尽くす彼女に恐る恐る近付いていく。

「怪我してる」

「けが……してる」

 産まれたばかりの少女は、近付いてみるとノアより少し背が低いくらいで、同い年くらいだろうか。

 長い髪に隠れているが、彼女は裸の状態で、その隙間からは普段服で隠されていなくてはいけない部分が無防備にも露出している。

 恥ずかしくないのか。

 ノアは急いで自分の服に手を掛けた。

 そうして自分が着ていたジャケットを脱ぎ、彼女の背中にかけてあげる。

 しかし彼女は服の袖に手を通そうと動く事もせず、両手をだらりと下に垂らしたまま。

「……」

 早く着てくれないかな。

 目のやり場に困る思春期の男子が、ここまで紳士的になっているというのに、微動だにしない少女は、のあを見ながら首を横に傾げる。

 そうして、やっと合点がいった。

 服の着方が分からないのか。

「ここに手を通すんだよ」

 ノアは互いの息が掛かる程にまで近寄ると、肩にかけたジャケットを左手で持ち、彼女の左手をその狭いトンネルに通す様誘導すると、反対の手も同じように着せてあげた。

 触れた肌は火照った身体の熱を冷ましてくれる程に心地良くて、滑らかで。

 少年はそのボタンを前で留める為に、視線を下げた。

 見たくて見るわけじゃない。

 こうしないといけないから。

 自分自身に言い訳をし、ノアはボタンをはめていく。

 少し膨らんだ胸は、男である少年にはない柔らかさを持っていて、一連の行動を終えたノアは大きく息を吐いた。

「こっちへおいで」

 少年は産まれたばかりの彼女の手を取り、誘導しようと踏み出す。

 ーージャリッ……

 割れた卵の破片が、ガラスを踏んだ様な音を出す。

「待って」

 ノアは少女が自分に引っ張られて一歩踏み出そうとするのを止めた。

「足の裏怪我しちゃう」

 少年は彼女に背を向け屈むと、自分の背に乗るよう、身体を密着させ両腕を首に回す様に促すと、「よっ」と言いながら少女の太ももに両手を掛け、持ち上げた。

 もっと自分の身体が大きければ、こんな子どもをあやす様な抱き方じゃなくて、王子様がお姫様にするみたいな抱き方が出来たのに、と思う。

 少女は突然の浮遊感に驚いたのか、回していた腕に力を込めノアにその身を委ねている。

 毎日サボらずに鍛錬していて良かった。と、この時初めて成果が認められた気がした。

 長い髪を踏まぬ様に慎重に歩く。地面を擦れる髪がとても可哀想で、ノアは後で侍女たちにお手入れを念入りにしてもらわなければ、と決めていた。


「ドラゴンじゃなくてよかった」


 首筋に掛かる彼女の息がくすぐったくて。

 彼女を支える為に触れている肌があまりにも柔らかくて。


 ノアは背中に少し冷たい彼女の体温を感じたまま、屋敷の入り口まで向かった。

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