静かなる力
俺はあの電話の主が言うように、不忍池に向かった。あたりはしんと静まり返り、ベンチの上には横たわるホームレス達が訪問者に一瞥をくれる。
「…なんなんだよ、ここは」
池の上に聳え立つような蓮の茎や、鬱蒼と繁る蓮の葉。
それより、あれは誰なんだろうか…
不審に思っていると、一人のホームレスが俺に近づいてきた。知的に少し遅れがあるようだ。見たところ俺たちと変わらない年なんだけど…
「カズシって…君だよね」
少し舌足らずに喋る彼。見るとそんなに悪い顔ではない。寧ろ、イケメンだ。
「こっちにおいで」
ホームレスが連れてきた先は、池から少し離れたところにある古いビル。さびかけたドアを、ホームレスは持っていた鍵で開けた。
カチャリという金属音がする。
「こっちだけど…ひとつ約束できるかな」
彼は俺を真剣な眼差しで見た。どうやらさっきのは演技だったようだ。
「なんだ?」
「この場所、君と僕らの内緒の場所だから、誰かに話したりしないでね?」
俺は頷いた。彼はまた笑顔に戻り、中に入っていった。
†
建物の内部は、真っ暗で時折生ぬるい風が吹いてくる。
――人の気配がする。
ホームレスは持っていたオイルライターに火を点けると、明かりがわりにつかつかと中に進んでいく。
「ここ、普段は心霊スポットとして有名な幽霊ビルになってる。でも実際はここの存在を隠すためのカムフラージュなんだ」
突き当たりのコンクリの壁を彼が触る。秘密のスイッチがあるようだ。彼がそれを押すと、壁ががらがらと横にずれはじめた。足下に、可動式のキャスターがついているらしい。
その中には…
「ようこそ。僕らのアジトに」
「やぁ、ようこそ。君がカズシ君かい?話しはタカヤから聞いてる。俺たちは君を歓迎する」
少しワイルドな印象を受ける精悍な顔立ちの青年。といっても30半ばだろう。クセのある髪の毛に、ワイルドな髭が印象的。
その隣に座っている男は、どこかとっつきにくそうな鋭い目付きをした色の白い男。年齢は同じく30半ばだろう。
「タカヤは僕のクライアントなんだ。解離性同一障害に悩む彼を、僕は治療してきた。あっ、言い忘れた。僕は精神科医の坂崎っていうんだ」
柔和な顔つきの細いフレームの眼鏡をかけた、ちょっと前に流行った韓流スターに似た男が言った。
「ちょっと…そう言われたって…なんなんです?ここ。」
ワイルドな男が言った。
「ここは反政府組織本部、いわばレジスタンスみたいなもんだ。とは言っても仲間は俺、TVディレクター、冴神を含めて、ここにいる刑事、志波。さっきの精神科医、坂崎。あとはそこの役者の…」
「セイジですよ」
ホームレスの格好をした男はにっこりと笑って言った。
俺はセイジが出してくれた椅子に腰かけた。
豆電球が数個、ぶらんとぶら下がった、灰色のコンクリ仕立ての空間。目の前の椅子に座った冴神が、机に両方の肘をついて言った。
「俺はタカヤに君を紹介された。君は…昔MBSだったんだよね?」
俺は頷いた。
「タカヤと一緒にあの島を脱出したと訊いた。俺たちは今の政府…特に今のセブンスヘブン法の廃止を目的としている」
仏頂面の志波が口を開いた。
「今の政府のやり方は、やはり修正する必要性がある。一刻も早くな」
「で、俺に何をしろと…」
冴神は力のある眼差しで俺を見ると言った。
「特に何をするっていうわけでもない。でも、何かあったら、協力してもらいたい。あれば連絡しよう。いいか?」
「例えば?」
セイジは笑顔を浮かべたまま言った。
「異端審問官を見つけたとかさ」
異端審問官…
「僕らの仕事のひとつに、マインドコントロールされてる異端審問官の矯正がある。今までにも3人ほどの異端審問官を矯正した」
坂崎が言うと、にこっと笑ってセイジが言う。
「僕が異端審問官を演技で誘き出して、ブービートラップに嵌める。まぁ志波さんと坂崎さんが捕まえて連れてくるだけなんだけどね?そして…坂崎さんが矯正する」
坂崎はにこりと笑った。
「ただな、3人の矯正に成功しはしたんだが…肝心なことについては、決して口を割ろうとしなかった…」
俺は訊いた。
「なんなんですか?」
冴神は真顔で言った。
「逮捕した人間が、どこに連れていかれるかってことだよ」
言われてみれば…どこに…
「でも最近、都内の異端審問官が次々とやられてるんだよね」
俺はびくりと震えた。
「…稲垣だ」
「…誰だ。知ってるのか?」
「あの島から抜け出した男…でも、最も危険な奴です」
坂崎はあごに手をあてて言った
「でも、ということは…政府に屈しない剣にもなりえるってことだよな…」
「やめたほうがいい!」
俺は言った。稲垣は、誰の力にもならない。誰にも縛られない。
「あいつの恐ろしさを…知らないんだ…」
…!俺は嫌な胸騒ぎを覚えた。
「どうしたんだ?」
冴神が俺に訊いてきた。
「なんだか嫌な予感がする…わかりました。できる限り協力します。あなた方の連絡先は、タカヤが知ってますよね?」
冴神は頷いた。
「わかりました、これからは宜しく。それじゃ」
俺は一目散に背後を振り返り、だっと駆け出した。
†
一方、最後の客が足取りもおぼつかない様子で帰っていったあと、大将は、店ののれんを片付けるために表に出ていった。
辺りはもうすっかり人気もまばらになっている。もう店じまいで構わないか…
のれんを片側はずした大将の目に、一人の男がこっちをじっと見ているのが見えた。鋭い目付き、灰色のパーカーを来ている。靴は真っ黒に履きつぶされている。大将は男に手招きをした。
「アンタ、よく見るけど、うちの店のとんかつが食べたいのかい?」
男は何も言わずに、すたすたと大将のもとに近づいた。
「金がなくたって構わないよ。今夜は特別だ。とびっきりのを揚げてやるよ」
男の眼差しは、何も言わずに大将を突き刺したままだ。
大将は豚肉に衣をさっとつけると、熱々の油の中に入れた。男の目の前に、王冠を外した瓶ビールを置いた。
グラスは二人ぶん。
「付き合ってくれよ。夜はまだ長い」
瓶ビールの中身を、めいめいのグラスに注ぐ大将。ひったくるようにグラスを手にすると、男は一気に飲み干した。
「さぁて、どんな話をしようかな」
大将は自分のグラスにビールを注ぐ。そして出来上がったとんかつ定食を男の目の前に出した。
「うまいぞ。さぁ食えよ」
男は割り箸をぱちんと割り、獣のようにがつがつと食べ始めた。
「いい食いっぷりだな」
大将は包丁をゆっくりと手にすると、後ろ手にそれを隠した。ソースをかけた千切りキャベツをかきこみながら、男はついに口を開いた。
「確かに、うまいな。なぁおっさん…」
「なんだ?」
「アンタがこないだまで一緒に働いてた男のこと…知りたいか?」
大将はにやっと笑うと言った。
「別に…」
「…教えてやるよ」
男は皿の上を片付けると、片方の口角を上げた。
「別に…いい」
大将の握った包丁の柄に汗が滲む。
「遠慮すんなよ…」
男は椅子から腰をあげた。
「…一応聞いてやる。なんだ?」
男は大将の眉間に視線を向けて、ざらついた声で言う。
「あいつはな…」
大将は右手に力をこめて動かした。
†
「…はぁっ…はぁっ」
外は星ひとつ見えない曇天だ。ぽつりぽつりと降りだした雨が、並木道の黄色く色づいた葉を揺らす。いつも見慣れた街並みには、人気がない。
ただ…
さっき俺の横を通りすぎた赤いサイレン……
忙しなく走り抜けたそれは、俺の嫌な予感を増幅させた。
「…ちっ」
俺はしびれだした足に力をこめた。
露地のところに、黒山の人だかりができている。まさか…
俺は人だかりをかき分けようと、手刀を切ろうとした。
「おや、あんたこの店のたしか…」
常連のおじさんが俺に声をかけてきた。
「どうか…したんですか?」
「いやね、よくわかんないんだけど、大将がさ…」
俺の嫌な予感が的中したようだ。目の前の人だかりを割くように、ブルーシートをかけた担架がこっちに向かってくる。
「あっ…」
ブルーシートの間から見えたのは
大将の変わり果てた姿だった。
「大将…大将!」
俺はレスキューに阻まれ、大将に手を触れることもできなかった。雨が少し強くなってきたようだ……足元のアスファルトが濡れて灰色の水玉模様に変わっていく。
「あぁら、可哀想」
俺の耳元でざらつく声が…
「…稲垣…」
俺の右腕を掴むと、ぐっと俺の背中に押し付けた。
「無駄な抵抗をすれば、手前ぇの腕をへし折る」
「お前が…大将を…」
稲垣は笑った。
「勘弁してくれよ。やってきたのはあの大将だ。包丁を持って襲いかかってきた。だから俺は防御した。ただそれだけ」
「嘘だっ!」
稲垣は俺の腕をねじる。激痛が俺の関節にはしった。
「あら、大将が死んだってことは…お前には職業がなくなっちまったわけだな」
俺は背後を睨むように右を向いた。
「お前みたいなMBSを…雇ってくれるところなんてあるもんか。いいか、俺もお前も…同じ穴のムジナってやつだよ」
「ふざけるな…!」
「まぁ、お互い仲良く…地獄の果てまで逃避行としゃれこみましょうや。相棒」
「くそっ!お前だけは…刺し違えても…」
「殺すのかい?こんなとこでそんなことを言って…ただで済むと思うのかい?」
稲垣は俺の首に腕を巻き付けた。
「面白くなってきたぜ…まぁ、お互い楽しもうや」
俺からさっと腕を離すと、稲垣はさっさといなくなってしまった。
くそっ…
畜生…
俺の心に、明確な殺意が生まれた。
稲垣…
†
一方、異端審問官たちの定例会の会場。
辺りはしんと静まり返っている。聞こえる音といえば、空調設備のファンが廻る音。それだけだ。
まるでターミネーターのような異端審問官たちは、ぴしっと整列をし、真っ暗な部屋の中で微動だにせず立っている。
がちゃ…
部屋のドアが開くと、最高責任者である男が部屋に入ってきた。
男の名は…いや、コードネームは、ベルゼブブ
――蠅の王であり、嫉妬の象徴とされる悪魔の名前である。胸に黒いドクロのバッヂをつけている。
ベルゼブブは、冷たい目線を全員に向ける。
「定例会の予定を早めて、お前らを集めたのは、ほかでもない」
ベルゼブブはポケットに入れていた手を抜く。真っ黒い革手袋をつけている
「誰だ、私刑を加えた奴は」
一人一人の目を見ながら、ベルゼブブはゆっくりと歩く。
「…」
ベルゼブブの眼差しは、まるで異端審問官の目の奥を見るような眼差し。
やがてベルゼブブは歩みを止めた。
「…貴様か」
タイチの前に立ったベルゼブブはぼそりと呟いた。
「なんのことで…」
ベルゼブブは右の拳をタイチの鳩尾に突き刺した。
「ごぷ!」
「惚けるな。俺の目は誤魔化せないぞ。貴様私刑がどういうことかわかっているんだろうな…」
タイチは膝をがくりと突いて息を荒くしている。
「あの異端者はもう使いものにならなかった。台無しだ。こちらのほうで処分したからな」
ベルゼブブは吐き捨てるように言った。
「まぁ…お前は異端審問官として十分な働きをしてくれている。だから今回のことは目を瞑ってやる。次はないぞ、わかったな」
タイチは力なく頷いた。
「貴様らもそうだ、余計な感情は仕事に挟むんじゃないぞ」
異端審問官たちは顔色ひとつ変えずに頷いた。
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