新たな戦い


 俺は信じられないでいた。世の中を悲観していたタイチ。弱気で、ずっと恐怖で震えていたタイチ。そのタイチが…異端審問官…一体、どんな更正プログラムが繰り広げられたのだろうか…

俺はアスファルトにがくりと膝を突いた。


「なんだよ…あれは…」


タカヤがあんぐりと口を開いたまま言った。


「あれが…タイチ…」


今言えることは、タイチは、今までのタイチとはまるっきり違う。



 肩を落としたまま、俺は家に帰ってきた。

気のせいだろうか…玄関の扉が少しだけ開いているような気がする。俺は少しぞくっとする悪寒を感じながら、扉を開いた。

中には少しだけひやっとした空気が流れた。

靴を脱ぎ、中に入った。

心臓の鼓動を圧し殺すようにして……

そしていつもマサさんがいる居間に入った。


ちゃぶ台の上には、日本酒の瓶が転がり、一枚の紙が置いてある。俺はそれをひょいと拾い上げた。



連絡書

本日××月××日より

家主、戸越正秀は異端審問処分となります


同居者は速やかに退去される事をお願い致します


些か急では御座いますが

宜しくお願い致します


尚、家財一式は

我々異端審問委員会により

処分若しくは保管致します事を

ご了承ください



「…マサ…さん」


わかってる。

異端審問にかけるということは、処分されると同じだろう。俺はマサさんの子供の写真と、奥さんの写真を手にした。

必死に涙をこらえる。こらえきれずに目尻から一筋涙が零れた。


 俺はスマートフォンを開くと、ある番号にかけた。タカヤだ。通話を押すと、意外にタカヤはすぐに出た。


「どうした?」


俺は震える声を圧し殺しながら喋った。


「何が…あったんだろ…もう何がなんだかわけがわかんねぇよ…」


事態を察したのか、タカヤは少し低い声でなだめるように言った。


「誰か…やられたんだな」


俺は声も出ず、タカヤからは見えないのに頷いた。


「…うちに、来いよ」


俺はタカヤに場所を聞くと、それをメモに書いた。



 俺は家を出て、ふらふらと駅に向かった。もうちらほらとしか家の灯りがついていない。終電も近くなってきているようだ。俺は些か歩みを早めた。

――駅に差し掛かった。

頭上でちらちら輝く蛍光灯には、うっすらと埃がついている。コインロッカーの脇でごろんと寝転がる、古びたコートのホームレスを横目に

、俺は切符売り場に急いだ。


「うわっ!」


切符を買い、ホームに向かおうとした俺は、何者かにがっと襟を捕まれた。ものすごい強さで引き戻され、気付けば蛇のような腕が首に巻き付いてきた。

 ガチガチの鋼のような筋肉でできてる腕。ちらりと見えた頭にダガーが突き刺さったドクロのタトゥー。俺の動脈がその筋肉だらけの腕で締め上げられた。


「…振り向くんじゃねぇぞ」


声に聞き覚えがあった。


「…お前…」

「いいか…よく聞け。俺はもう死んでる。失うものなんてねぇ。異端審問官の奴等も、手前ぇらも…皆ぶっ殺してやるよ…」


俺の視界は段々と暗転する。どこかふわりとした、心地のよい気分。こいつは…


「地獄の底まで…追い詰めるからよ…覚悟しておけ…」


俺の視界は完全に暗くなり、がくりと意識を失った。



……?


俺が目を覚ましたとき、見慣れない部屋にいた。どうやら、女の部屋のベッドの上のようだ。

綺麗に片付いており、部屋の端っこにドスンと頓挫している大きな熊の縫いぐるみがこっちを見ている。ほんのりフレグランスの匂いがする。

 俺は体を起こした。極められたからか、頭がまだジクジク痛む。


「…つぅ」


部屋のドアが開くと、見慣れた顔が嬉しそうな表情をたたえた。


「カズシ!よかった…大丈夫なの?」


マイサだ。

部屋用のTシャツには、大きなプリントがされている。ピンク色のロッツォのしかめっ面。

化粧をしてないようだ、でも元々派手な顔立ち。たいして変わらないのが意外。


「どうして…俺は…」


マイサは温かいミルクを持ってきてくれた。ガラスのテーブルの上にそれを置く。


「駅のコインロッカーに凭れて…もう死んでるかと思ったわ…」


うっすら涙を浮かべるマイサ。


「タカヤのとこに行くつもりだったんだ…でも…」

「大丈夫。カズシの携帯にタカヤからの着信あって…アタシから伝えておいたわ。気にしないで休んでね」


俺はホットミルクに手を伸ばした。


「有り難う…助かったよ」

「何があったの?」


俺は全てをマイサに話した。


「…ウソでしょ?どうして…」


俺は頷いた。


「俺だって信じられない…でも間違いなく、あれは…」


思い出すたびに、俺の背筋にぞくりと悪寒が走る。


「誰でもない。稲垣だったよ」


暴君だった稲垣。今やもうそれだけではない。

彼は…本当の血と殺しに飢えた、ただの獣……その言葉がぴったりだった。


「どうなってんだ…もう意味がわからねぇよ…どうなってんだよ」


俺はマイサの肩に手をかけた。しかし、すぐに両手を離し、だらりと両手を垂れた。


「すまない…」


マイサはかぶりを振った。


「とにかく…どうにかしなきゃいけないけど…何ができるかな…アタシ達に」


すると、インターホンが鳴った。


「カズシっ!」


タカヤとジンがマイサの部屋に入ってきた。間違いなくタカヤだと俺は感じていたけど…

俺は今精一杯の笑顔を二人に投げ掛けた。若干まだ、頭が痛い。


「どうしたんだよ…駅で倒れてたっていうから…」


俺は佇まいを正して言った。


「稲垣が…生きてたんだ」


ジンが真顔で訊く。


「バカ言うなよ、あいつは、サメの海域に投げ出されて…」

「俺だって信じられねぇ…でもあれは間違いなく稲垣だ。しかも、あのときよりも更に危険な…」


奴のねばつくような声がまだ耳に残ってる…

思い出す度に、ぞくっとする悪寒が背筋に走る。


「落ち着け。俺らにできる事は、今はまだない。稲垣から逃げることしかできないけど…」


――異端審問官と稲垣…

稲垣は、恐らく死んだものとしてノーマークに違いない。どうするか…俺の頭は鈍く回転をはじめた。


「やめとこうぜカズシ。俺たちは今はまだ仕事もある。だから異端審問官たちからはノーマークだ。余計なことはするな…」

「うるさい!」


ジンについ声を荒げた。


「…すまない。ちょっと、一人にしてもらってもいいか」


声をかけようとしたジンを、タカヤは片手で制した。


「ゆっくり休め。もう…今日は余計なこと、考えるなよ」


俺は背中ごしに三人に手を振った。



 真っ暗な部屋で、俺はぺこりと座り込んだ。膝に顔をうずめ、泣くのを必死にこらえた。本当はマサさんを失った悲しみで泣きたくてたまらない。

――怖くてたまらない、でも…やらなきゃいけない…

カタキを討つ…いや、違う

――このままじゃいけないと思ったから…



 真夜中、森に隠れるようにして、稲垣はハンバーガーに噛みついた。島から奇跡的に生きて戻ったあの日から、ろくな物を食ってない。だいたいがマックから出るハンバーガーやらのゴミを奪って食う。こんな飽食の時代だからこそ、なんとか生きていける。

――死ぬわけにはいかない。まだ…死ぬわけには……!

稲垣は物陰にさっと隠れた。

遊歩道に酔っぱらったサラリーマンが、ネクタイをだらしなく緩めて千鳥足で歩いてきた。

…決めた

稲垣はパーカーのフードを被ると、バンダナで顔を隠してサラリーマンにゆっくりと近づく。

拳をボキボキ鳴らしながら。

 千鳥足でふらふらしているサラリーマンの背後にぴったりと張り付くと、稲垣は腕を首にかけた。


「うわっ…あんらぁ?」

「振り向くんじゃねぇ、わかってんだろ?さっさと出すもの出せ」


サラリーマンはしゃっくりをひとつすると、ポケットに手を突っ込んで言った。


「…待ってたよ」

「なに?」


稲垣の周りには、真っ黒のスーツに身を包んだ男たちがやってきた。


「稲垣…まさか生きてるかもしれないって、予感はしていたがな。探してたよ」


するりと腕をすり抜けたサラリーマンは稲垣のほうを向いた。


「稲垣よ。おとなしくしろ」


稲垣はにやりと笑うと、拳を鳴らしながら前進する。サラリーマンはあごを前にしゃくった。

――すべては動き出したのだ。

運命の歯車を軋ませながら。

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