第2章

革命


 あれから五年の月日が流れた。独裁的ともいえる黒坂政権がたおれ、それと同時に生徒仕分け法もなくなった。黒坂猪四郎にかわって新たに政権を握ったのは、支持率と期待度の高かった真中柳之介(まなかりゅうのすけ)

――この政権交代が、新たな混乱を招くとは、誰も思ってはいなかったのだ。



 その真っ黒な左ハンドルのメルセデスは、郊外の真っ暗な闇夜に煌々とヘッドライトを焚き付けて走る。


「早くしてくれないか?」


真中はいらついて運転手に言った。運転手は何も言わずにただ前を向いて運転する。


「なんだってこんなところに…」


山の中の、薄暗い森を切り開いたような空間に、それはあった。昔ながらの料亭だ。すでに先方はきているようだ。

 運転手が入り口の扉を開く。ぷんと畳の香りがする。機械的な従業員が頭を下げた。真中はぴかぴかに磨いた革靴を脱いで中に入った。


「どうぞ、こちらへ」


従業員が招くようにして奥の座敷に真中を導く。ふすまを開けた先にいたのは、黒坂猪四郎その人だ。総理の職を辞したとはいえ、その覇気はいまだ抜けていないようだ。

 手招きした黒坂は、真っ黒に塗られたテーブルに乗せられた冷や酒を二人分、猪口に注ぐ。


「待ちくたびれたぞ真中」


恐縮した真中は一礼すると、黒坂の前に座った。黒坂は真中の前に冷や酒をなみなみと注いだ猪口を置いた。


「まぁ飲め」


ぺこりと頭を下げた真中は、きゅっと猪口の中味を飲み干した。喉がかっと熱くなる。


「真中よ、今後も頑張れよ」


黒坂は、新人議員の頃から真中を育ててきた。

ゆえに、黒坂退任後の内閣総理大臣は、ほぼ真中に間違いはなかった。出来レースだったのだ。

黒坂は、一枚の分厚い封筒を真中に手渡した。


「これは…一体…」


黒坂はにやりと笑った。


「私が以前やった法案。生徒仕分けか…これはもう終わった。お前に任せる新たな案件だ。読め」


手にとった封筒を、ぺこっと頭を下げて開けた。


「…これは」


黒坂は二度猪口に冷や酒を注いだ。


「まぁ、宜しく頼むぞ。今晩は飲め」



「お疲れ様!もう今日は上がって構わないぞ」


大きくのびをした大将が、とんかつを切ったまな板を洗いながら言った。


「ありがとうございます。それじゃお疲れ様でした!」


俺は頭に巻いたタオルを脱いで、大将に一礼した。長年から続くとんかつ店、俺はそこで働いてる――五年前、あの忌々しい島から脱出した日、MBSとして、ダメ人間のレッテルを貼られた俺には、もう何もなかった。

 俺はあの後、自分の足で家まで辿り着いた。靴はすり減り、照りつける太陽の光で頭はくらくらになっていた。

――自宅の玄関に着いた俺は、愕然とした。家がもぬけの空になっていたのだ。父や母は勿論のこと、家財用具の一切すらもう家には残っていなかったのだ。俺はその場で膝を突いて座り込んだ。

そういう事か…

俺はもう…必要ないんだな。

無理もない、俺は全てを失った気がした。


 俺はそれからふらふらとどこへ行くでもなくうろついていた。道を行き交う人が、全て自分を笑っているように感じた。何もかもに疲れ、座り込んだ公園のベンチ。隣で面倒くさそうにむくっと起き上がるホームレスが、俺をじろっと睨みつける。俺も、そう見えたのかもしれない。

 無理もない。あれから数日、風呂にも入っていないのだから。べたべたする皮膚が、不快感を増大させる。疲れた俺はそのままベンチをベッドにして横になった。


……

………おい。


誰かが俺を呼んでいるようだ。

俺はゆっくり瞼を開けた。

あたりは夜になっている。街灯はベンチをぼうっと照らしている。そこにいたのは、角刈りの中年のおっさんだった。


「…お前、高校生か?」


寝ぼけていた俺はゆっくり頷いた。


「…家出したのか?」

「家は…ないんです」


俺の答えに、おっさんは少し半信半疑だったようだ、半歩後ろに下がった。


「…兎に角、うちにこい。風呂も入ってねぇだろ。わけは聞かねぇ、黙ってこい」



 おっさんの家は、少しボロっちい一軒家だった。油の足りない引き戸は開けるたんびにきいきいと鳴る。ここで、一人で暮らしているのだろうか。


「ほらよ、着ろ」


おっさんは大きめのTシャツを俺に投げつけた。仏壇には、綺麗な女の人と、どことなくおっさんに似た高校生くらいの少年の写真が飾られている。


「どうして…俺を…」


おっさんは台所に立つと、背中ごしにこう言った。


「いいから、ここにいろ」


俺が宿無しなことは、もうわかっているようだ。経緯は、わかるはずはないな…

 俺は、触れてはいけないと思いながらも、仏壇の写真について訊いてみることにした。


「これは…」

「女房と、ガキだよ。お前くらいの時に事故でな」


ふんと鼻を鳴らすと、おっさんはあごで浴室の場所を示した。


「さっさとしな」


シャワーを済ませた俺は、さっぱりとした清々しい気持ちでいっぱいになった。バスタオルで髪の毛を拭いて、浴室から出る。


「よぉ、今からとんかつでも食いにいくか。俺のダチの店だ」


久しぶりの、肉だ。

俺は頷いた。


「でも…俺は…」

「心配すんじゃねぇよ、男だったらよ、四の五の言わねぇでついてこいよ」


俺はおっさんについていった。

 そしておっさんは、俺を近所のとんかつ屋に連れてってくれた。夜の風が、洗ったばかりの肌をひやりと撫でた。

少し油で汚れた看板。開けると人のよさそうな大将が一人でとんかつを揚げている。


「ようマサよ。そいつがその例のガキかい?」


俺はぺこりと頭を下げた。


「どうも…」

「こいつ、宿がねぇって言うんだ。俺ん家で寝床貸してやるんだけどよ。悪ぃけど、こいつにとびきりの、揚げてやってくんねぇか」


大将は笑って頷いた。


「兄ちゃんよ、うちの店はこんなだけど、とんかつは日本一だぜ!食っていきなよ」



「あいよ、俺様特製のロースカツ定食だ」


白米からふわっと立ち上る湯気。具だくさんの豚汁。どっさりのキャベツにからっと揚がったとんかつ。旨くないわけがない。俺は思わず唾を飲み込んだ。


「こいつは俺の馴染みでよ、こいつの揚げるとんかつは日本一だ。食ってみろよ」


俺はからっと揚がったとんかつを一口かじった。

――涙が出てきた。


「うめぇ…」

「だろ!さ、遠慮すんなよ。まだまだあるからな!」


俺は食った。なんだかとても暖かい味がする。


「よぉ、お前学校はどうすんだい?」


大将の問いに俺は口をつぐんでしまった。


「大将、聞かなくていいことは聞くなってよぉ」


おっさん改めマサさんは言う。


「こいつさ、ここでちょっと面倒見てもらっていいかな?」

「え?」


俺はマサさんに訊いた。


「学校行かない奴は働く!そんなもんだよ!いいだろ?」


大将はがははと笑った。


「いいのかい?」


俺は力強く頷いた。

 帰り道で、マサさんは小さな声で俺に言った。


「これから…うちで暮らしていいんだからな」


俺はそんな気がしていた。あの島の事件依頼、人の有り難みを感じることはできなかった。

それが今、唯一の心の拠り所を見つけた気がする。

 そして、このマサさんと共に暮らして5年になろうとしていた。


 俺は帰り道、スマートフォンを開いた。メールが数件、入っているようだ。見ると、見慣れた名前が…

タカヤ

マイサ

ジン

リナ


それは他愛もないメールばかりだった。しかも写メ。タカヤのメールには、でっかく映し出された泡の立ったビール。『仕事後の一杯はたまんねぇな』だと。俺はくすりと笑いながら家路を辿った。



 あの日、俺たちが別れる直前、突然タカヤが提案した。


「俺たち、メアドの交換しないか?」


マイサは首をかしげた。


「あたし達、携帯なんてもってないじゃない?」

「持ってなくたっていいじゃん。今から決めておくんだよ。但し、絶対そのメアドにするんだぞ」


リナが頷いた。


「うん、絶対そうする。そうすれば…いつでも皆と…」


俺は頷いた。


「また、会える日までな」



俺はスマートフォンを新しく買ったその日、皆で決めたメアドに早速した。そして、それぞれのメアドに向けて番号と名前を名乗ったメールを送信した。届いたのは、マイサとジンだった。二人からはすぐに返事がきた。

――俺は安心した。あの日の約束を皆、覚えてくれていたことに…



 帰り道、ぬるい風がぴゅうと建物の間をぬって吹いてきた。

大きな公園の横を通りかかったとき、俺は一人の若いホームレスと目が合った。げっそりと痩せてはいたが、俺は彼が誰かすぐにわかった。


「…橋口…」


あの島で、稲垣と同じく恐れられていた男…今は見るかげもない。眼光の失われた哀れな姿。生きていたとは…

 橋口はよろよろと近寄ってくると、俺に向かって言った。


「お前…あの島の…生きてたのか…?」


懐かしい友達にでも会ったかのような安心したような目になった橋口。危険な感じは、とうに失せていた。


「生きてたのか…橋口…」


橋口はがたがたと震えだした。


「…大変なことになるぞ…」

「え?」


橋口はくまができている両目をこっちに向けると、震える声で言った。


「あいつらには…気を付けろ。もう、動き始めてる…異端審問官達が…」


俺には、さっぱり解らなかった。


「なんなんだよ…それは…」


――異端審問官。多分、あのとき聞いた例の計画に深く関係しているのかもしれない。あくまでも推測でしかないが…

 橋口はそのままふらりとどこかへ行こうとしている。


「あっ…ちょ…」


こちらをちらりと横目で見た橋口の視線に、明らかな恐怖を感じ取れた。

――あの橋口が、ここまで怖れるものとは?

このときの俺には、何もわからなかった。

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