僅かな綻び


 湿った空気がコンクリの壁に不快感たっぷりの水分をまとわりつかせる。俺たちは部屋の中でただひたすら考えていた。どうするべきなのか…この孤島から、逃げる術はまずなさそうだ。どうすればいいのだろう…


「…?」


どこかで誰かの罵声が聞こえた。俺たちはただ事ではなさそうな雰囲気を察し、声のするほうに向かった。コンクリが崩れ落ちた埃っぽい廊下を走る。声の主は、案の定という感じ。――

稲垣だ。誰かに暴行を加えているらしい。隣に、迫田はいない。何か憂さ晴らしのようにも見える。


「ちょっと…まずくないか?」


ジンが戸惑いながら指をさした。稲垣がリンチしているのは、教官だ。


「おいやめろ!誰をボコってんのかわかってるのか?」


稲垣は機嫌が悪そうに振り向く。


「なんだてめ…」


稲垣はタカヤを見るや、すぐさま踵をかえした。


「ちっ…」


廊下の端でうずくまっている教官。俺は彼に近寄る。


「大丈夫…ですか?」


その教官は、自殺者を溜め息をつきながら片付けていた若い教官だった。他の教官と違い、情けなさそうな顔をしている。


「情けねぇなぁ…アンタ教官だろ?ほら」


タカヤはしゃがむと、背中に乗るように手まねきした。


「…す…すまない」


タカヤは教官を背負う。意外に重いのは、ずっしりとした軍靴のせいだろう。


「待ってくれ…今から言う場所に連れていってくれないか?」

「は?」


不機嫌そうに聞き返すタカヤに、少しびびりながら教官は言った。


「いいから…頼むよ」

「教官の言う通りにしようよ。この人、悪い人じゃなさそうだし…」


マイサが言った。タカヤはふぅと溜め息をつく。


「どこに行けばいいんだ?」


教官は、痛てて…と言いながら、道を俺たちに教えた。連れられた場所は、なんてことのない、ただの部屋だ。


「なんで…ここなんだ?」


ユウジが訊いた。


「ここには環視カメラがついていないんだ。壊れてるんだ」


小さな声で教官は言う。


「俺は鵜沼(うぬま)っていうんだ。こんな所、出門さんに見つかったらひどいからさ…」


気が弱そうな教官。悪人ではなさそう。しかし油断はできない。


「それにしても、どうして俺なんかを助けてくれたんだ?俺は、教官だぞ?」


タカヤは小さく溜め息をついた。


「こんな情けない教官…ほっとけなかったんだよ。それに、稲垣は気に入らないから」


 鵜沼は拳銃も持っていない。ブラックジャックも持っていない。かえってあやしい。しかし、鵜沼は稲垣にリンチを受けていた。怪我をしている鵜沼に手当てをしなければ…罠だとしても…とはいっても、ここには手当てをするような品物はどこにもない。

 せいぜいできることは、鵜沼をかくまうことくらいだ。


「すまない。なんだかMBSの君たちに助けられるなんて…」


MBSというのが引っ掛かるが…なんだか照れる。どこまでが本当か疑わしいが…タカヤはポケットに手を突っ込んだまま言った。


「かくまってやるかわりに、ひとつふたつ、教えてほしいことがあるんだけど…」


鵜沼はうなずいた。


「ああ。ちょうどここにはカメラもないし、会話も聞こえない。なんだ」


ジンは訊いた。


「あの…ここってなんなんですか?」


鵜沼は頷く。


「ここは、東京の南のはずれに作られた、いわば忘れられた島。この建物は、旧日本軍の施設として造られた要塞だったところだ」


マイサが口を開く。


「どうして、こんなことになったんですか?国は一体…何がしたいんですか?」


鵜沼は周りを気にしている。


「…誰にも言わないと、約束できるか?」


俺たちは頷いた。


「ここで行われているプログラムというのは…実は俺もよくその主旨はよくわからないんだ。でも、わかってるのは、このプログラムの先には、国家の重大なプロジェクトが待っているそうだ」


国家の重大なプロジェクト…それがこのプログラムに組み込まれていると?益々わけがわからない。リナはおそるおそる言った。


「なんだか…教官はアタシ達の人権を全否定して、洗脳するつもりのような気がする…」


鵜沼はゆっくり頷いた。


「プログラムは、確かにおまえたちの人格を否定し、何かの洗脳を行うためのものだが…すまない。その主旨もよくわからない。この先に待っているという国家の計画の…名前しか」


そんなことを聞いても意味がないが、一応訊いてみた。


「このプロジェクトの名前は…セブンスヘブン計画。セブンスヘブンってのは、ユダヤ教での第七の天国。つまり大天使達が暮らす天国のこと。黒坂総理は、名前意外に何も明かさなかった」


――ちんぷんかんぷんだ。わけがわからない。ただ俺にもわかったことといえば、俺たちはこのプログラムの果てに、そのプロジェクトの礎にされてしまうということ。

簡単に俺たちを殺してしまうことができる奴等が、俺たちの存在を重要視するわけがない。


「ここから脱出するには、定期的に来る生徒を詰め込んだ船くらいか…」


俺は思い切って鵜沼に訊いてみた。


「この海域は、サメの巣だからな。ゴムボートなんかじゃ無理だし、しかし…緊急脱出用のモーターボートが、どこかにあるんだ」


モーターボートか…俺は軽く、頭の片隅に残しておく程度に覚えておいた。

――部屋の入口で、息を殺しながら部屋をじっと眺める男が一人。迫田だ。


「いい事、聞いたな」


口の端を上げ、悪賢そうな顔をした迫田は、くるりと踵をかえした。


「作戦開始だな…」

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