才能論〜具体的に必要な才能は何か?(その三)

 前項で、「関係のない二つを組み合わせることができること」を、小説を書くために必要な才能の一つとして挙げた。ただし、最後に少し触れたように、これには、「面白がる」才能が欠かせない。自分が「面白い」と感じなければ、面白い小説は決して書けない。

 この場合の「面白がる」とは、その場で笑っておしまい、というような底の浅いものではない。まして、誰かの欠点や失敗を見て嘲笑することでもない。誰かの欠点や失敗を嘲笑う輩に向かって、正論を吐いていさめるのでもなく、たとえば、その二人を観察して、どうして一方は他者を笑い者にし、また、なぜ、他方は正面からその非を唱えることができるのだろうか、と興味を示すことである。

 換言するなら、「興味を示す」「関心を持つ」ということである。

 その才能を持った最たる例として挙げるなら、芥川龍之介が著した「地獄変」の下敷きとなった今昔物語の説話の一つに登場する、絵仏師良秀の他にはあるまい。燃え盛る我が家に妻子が残っているのに、それを救おうともせず、念願だった紅蓮の炎を観察し続けた良秀こそ、己の関心をとことん追究した、その最たる人物である(もちろん、職業的必要性もそこにありはしたが)。

 ただし、こうした才能は、周囲から受け容れてもらえないものと覚悟しておかなければならない。良秀は、当時でさえ傍らにいた人に呆れられていたほどだが、すぐに動画がネット上に流れる現代社会では、人々を呆気にするだけでは済まない。

 良秀ほどに徹底しなければならない才能とまでは言わぬが、世間体を第一に考えて動く日本人には、この能力がもっとも欠けているのではないかとも思う。

 小説が西洋から入ってきた明治時代に、面白そうだから小説家になりたい、などと言ったら、父親から「くたばってしまえ!」と怒られた二葉亭四迷の筆名にまつわる逸話は、個人的な面白さが世間的に認められない例として見ることもできる。

 さらに経済優先で功利主義が蔓延っている現代日本では、たとえば、何の役に立つのかわからない長期的な研究よりも、すぐに役立つ短期的な研究が評価される。研究者個人がどれほど面白いと感じる研究でも、それが世のため人のためになる成果を見せられる研究でなければ、高い評価を得ることはない。

 どれだけ興味がわいても、どうせ周りからそれが何の役に立つんだと言われる、否定される。それを恐れて、己の心の底深くに面白がる才能を押し込んでしまう。

 そうした壁が立ちはだかったときに、興味を持ち続けられるか、諦めずに書き続けられるか、ということこそが、意識されない才能の一つである。

 

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