才能論〜誰が見いだしてくれるのか?

 小説を書く才能があるか否かを、ただ己の中に求めるだけなら、世人に認められなくても問題はないかもしれない。

 しかし、世に出ることも才能論の範疇はんちゅうに入れるなら、誰が見いだしてくれるか、という点を見過ごすわけにいかない。

 中島敦なかじまあつしの「山月記」の主人公、李徴りちょうには卓越した作詩の才能がある、ということは、自他ともに認めるところであったが、長安ちょうあん風流人士ふうりゅうじんしに知られることはなかった。

 幸いに、この「山月記」自体は、作者の中島敦が原稿を預けていた知人の計らいで、日の目をみることができた。

 金子みすゞの詩が学校の教科書にも掲載けいさいされるほど人に知られるようになったのは、彼女の詩を愛してやまない仲間の尽力じんりょくがあったからである。

 宮沢賢治みやざわけんじが残した詩や小説が世に出たのは、彼の弟のおかげである。

 しかし、一方で、才能がありながら、誰にも見いだされることなく、誰にも読まれない原稿を残して死んでいった書き手も多く存在したことが想像できる。

 絵画かいがの世界では、亡くなってからその画家の絵が評価される例は、まれではない。

 ゴッホの絵は、生前、大衆に受け入れられなかったばかりか、同時代の天才的な画家、セザンヌにさえ酷評こくひょうされていた。

 浮世絵うきよえの美術的価値を認めて高めてくれたのは、欧米人おうべいじんである。

 日本では評価されず、海外で高い評価を得て、初めて日本国内で評価が高まる例は、学問の世界では珍しくない。

 世に出られるか否か、作品が売れるかどうか、という点は、才能ではなく、運の問題だと考える人は少なくないだろう。確かに、運の善し悪しで片付けることもできるが、その運を引き寄せられるか否か、という点を作者に、あるいは作品に求めるなら、誰が見いだしてくれるかという問題は、やはり才能の範疇に入れるべきかもしれない。

 「山月記」の李徴の詩が長安の風流人詩の机上きじょうに置かれなかったのは、「何か欠けるところがある」と感じた、彼の友人の語るところではあるが、果たして何が欠けているのか、中島敦は作中で明らかにしていない。しかし、世に埋もれさせるのは惜しい、という誰かの尽力があれば、李徴の詩は長安に届けられていたかもしれない。

 日本一の斬られ役、と称された俳優の福本清三は、「誰かが見てくれている」という信念を持って斬られ役に徹し、斬られ方の工夫を重ねた。ただし、そこには福本清三の存在を必要とした他の役者、大物俳優が存在したことを忘れてはならない。

 そうしたことも才能の一つである、と我々は肝に銘じておかねばなるまい。

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