第6話 エロイカ

 

 津田は、小学校に入った頃から、ラジオで音楽番組を聴くようになった。家にある小さなラジオである。家のみんながプロ野球の中継放送を聴くときは、津田もそれを聴く。家には、このラジオしかないのだ。津田が好きな音楽番組は、たとえば日曜日の朝にある。シューベルトの曲で番組が始まる。すごい気に入ってクラシック音楽のファンになった。家にレコードはない。もちろんレコードプレーヤーもない。ラジオで聴くのである。

 風呂屋でエロイカのメロディーを口笛で吹いていたら、よく見かけるお兄さんが、「ベートーベンが好きですか」と小学生の津田に話しかけてきた。見かけるが、話をするのは初めてである。

 湯ぶねにつかりながら話をした。お兄さんは、富永さんで、P大学学生だそうだ。経済学を勉強しているという。

 「うちに音楽を聴きにこないか」と誘ってくれたので、ついていくことにした。風呂屋を出て、津田の家は左方向だが、富永さんの家は右方向、つまり鼻川神社の方向だ。 

 数分歩いて富永さんの家に到着した。富永家の前に津田の同級生の浜田由紀さんの家があるので、前から知っている場所だったが、富永家には気付いていなかったのだ。

 富永家に入った。中年の女性が座敷に坐って編み物をしている。津田を見て、ニッコリして、「こんにちは」と言ってくれた。

 奥の部屋に入って、津田はビックリした。レコードプレーヤーと思われる非常に大きな装置が置かれているのである。津田には予想できないものだった。さらに驚くべきことは、大量のレコードが並べられていることだ。小さなラジオだけで音楽を聴いている津田とは全く違う世界である。

  最初に聴かせてくれたのは、ハイドンのトランペット協奏曲である。モーリス・アンドレだ。

 二曲目は、バッハの組曲第2番だ。


 「もっと聴いてほしいけど、だいぶ時間がたったから、今日はここまでにしとこな」と富永さんは言って、「この二枚を持って帰って家で聴いてな」とレコードを津田に差し出した。

 津田は、迷った。借りて帰って、数日してから「ありがとうございました」と返す方法もある。だけど、「僕は、レコードプレーヤーを持ってないんです」と返事した。

 「ほんだら、音楽はどうやって聴いてるんや」とビックリの表情で富永さんは言った。

 「ラジオで聴いてます」と返事した。

 「そうやったんか・・・。それやったら、また、ここに聴きにくれたらいいんや」


 富永さんが音楽喫茶に行こうと言った。

 お初天神の近くにあるらしい。津田は、お初天神の名前は、京治に話を聞いていたので知っていた。

 塚本駅から一駅で大阪駅に到着する。大阪駅を出て、喫茶店に向かった。曾根崎小学校は知っている。富永さんと一緒に、小学校の横の道ではなく、大きな道の横の歩道を南に向かった。交差点に出た。道路を越えて、左方向に行き、狭い道に入った。石鹼の匂いがする。石鹸を作る会社があるんやと富永さんが言った。

 そのそばにSYMPHONIAがあった。富永さんがドアを開けた。ブラームスの交響曲第1番だ。店の中に入った。客席に坐ったフルトヴェングラーが3人いる。

 富永さんは、左に行って階段をのぼった。津田ものぼった。2階には、フルヴェンはいない。「一階では話をしたらいかんのや。みんな真剣に聴いてるんや。さっき見て、分かったやろ。面白いくらい真剣やもんな」と富永さんが分析した。


 「僕もそろそろ就職のことを考えないかんのや。ここの社長さんみたいにお金持ちやったらええな。海老江の印刷会社にしよかなと思てるんや。受かるかどうかわからんけど」と富永さんが言ったので津田はびっくりした。津田がびっくりしているので、富永さんは「どうしたんや」と聞いた。

 「祖父の京治らが、以前、海老江に住んでたんです。あの大きい印刷会社でしょ」

 「君も海老江に住んでたことがあるんか」と聞かれたので、「いいえ、ぼくは住んでたことはないんですけど、祖父がよく海老江の話をするんで知ってるんです」と返事して、京治の会社の倒産の話をした。

 京治も満寿男さんも風呂屋に行くので、富永さんと顔見知りではある。






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