初夜
夜風にさざめいて、松林の防砂林がシャーシャーと葉揺すりの音を、容赦なく俺に殴りつけてくる。
潮を含んだ風に揺られて、どこに進んでも鳴りやまない頭上の音は、目に見えない誰かに俺の居場所を伝えているようだった。
俺は疎ましげに頭上を一瞥した。いまだ空は見えない。林に入る直前まで人工灯の少ない空には、一面にはっきりと星空が見えていた。
夏の星座の代表格、大三角の、ベガ、アルタイル、デネブの星たちもハッキリと見えた。
限られた時間の中で、再開を喜びあうように宙に浮かぶ星たちは、一年間つもりに積もった身の上話をしているのか、キラキラと輝いていた。ただ、今は松の枝葉だけが奇妙に唸り、光のない、闇の中でうごめく黒宙を作り出していた。
いったいどれくらい歩いたのか、時間の感覚が鈍り、今じゃ足元の平行感覚もおかしくなりつつあった。真っ直ぐ歩いているつもりが、船酔いのまま陸地を歩くような感覚で、左右にふらつき手当たり次第に松の木にぶつかり歩いていた。ふらつきながらも、確かに俺の耳には、波の音が届いていた。そっと目を瞑り、音を頼りに想像した。
波は砂浜を駆けあがり、力尽きたように海に引き返す、そして順を待たずして次の波が覆いかぶさり、泡沫を作りながら、また砂浜を駆けあがった。
止まることのない、もしかすると止めたくても止めれない、波に悩みと言うものがあったなら、そんなことじゃないかと俺は考えた。
この場所が、立ち入り禁止場所だと分っていたが、いざ入ってみると表向きの理由とは違い、一般の人には公言できないような理由で立ち入り禁止になったのでは、と思い始めた。
ここに立ち入った人たちは、生きて帰れず死ぬ運命……。
身体の隅々まで水をかぶったように汗が肌を濡らしていた。蒸し暑い夜にもかかわらず唐突に、身震いが俺を襲った。まるで冷水の滴を背筋に垂らされたようだった。
肝試しにここに来る若い連中は後を絶たず、最近は県外からも毎晩のようにやって来ると、俺は聞いていた。
たぶん、今年きた連中の中にも、来なければよかったと思った奴はいたはずだ。
この松林の先に、今日の俺の、そして、後の絶たない若者たちの肝試しスポットの海水浴場が、ある。いや厳密にいうと、『あった』と言うべきなのかも知れない。
『護岸整備計画年次表』
俺はまじまじと建設計画の工程内容を読んだ。
数か月ごとのタイムスケジュールで、かなり大がかりな作業だということは良く伝わった。
だがその作業を観察できる術はない、現に立ち入り禁止となっているため、その作業を見ようにも中に入ることが許されなかった。
「ここに入れるのは、年内まで、か...」
この公園内にある海水浴場は護岸整理によって砂浜をさらい、防波堤にする予定だった。
その工事計画で、砂浜の砂を運び出す作業が、秋には始まるらしい。
80年代の初め、何ひとつ取り柄のなかったこの小さな町に、海水浴場ができた。
浜長200mの白く輝く砂浜と、透明度の高い綺麗な海水が評判で、同県はもとより他県からも毎年のように海水浴客がやって来て、賑わっていた。
松林の防砂林を潜り抜けるとキレイな砂浜が見え、プライベートビーチのようなたたずまいからか海水浴場は盛況し、小さな町の知名度は、一躍全国区となった。
その影響からか、人口も増えさびれていた町に、活気と希望が湧きあがりはじめていた、と親父は話していた。
しかし、その活気も90年代の半ばに差しかかり、衰退の一途を辿りはじめた。日本経済に陰りが見え始めた頃、それまでの好景気の影の裏に隠れていた重大な問題に、町の人々はやっと気付き始めていた。
その美しい海岸線とは対照的に、この海水浴場では毎年のように、水難事故が発生していた。
ある時は幼い子供、ある時は働き盛りの男性と、次々と後の絶たない水難事故に、町としては対策を強化しありとあらゆる手段を講じてはみたが、不慮の事故は止む気配を見せず、次第に客足は引いた潮ように遠のいていった。
2000年代に突入した頃には、既にこの海水浴場に地元住民以外の人が寄りつくことは無くなり、俺が小学生の頃には閑散としたものだった。
しかし、その後も死者や行方不明者を出し、この海水浴場はいつしか、『呪われた海』と呼ばれるようになった。
「今年も既に一人が死亡、一人が行方不明、か。その名に恥じない呪われっぷりだな」
俺は松林をなおも慎重に進んでいた。もう少しで浜辺につきそうな気配があった。その先にある海で、この夏も事故に見舞われた犠牲者がいた。
もしかすると、次なる犠牲者は自分で、林の外で手招きをして待っているのかもしれない。そう考えると恐怖心から足が竦みおぼつかない、それでもなんとか震える足を叩いて俺は、前へ前へとすすんだ。
先の犠牲者には共通して言えるのは、毎夜にその者達がこの海岸に訪れていることだ。
無論、立ち入り禁止とされている場所なのだから、関係者でもなければ来る必要がない。要は、面白半分で来たはた迷惑な奴らということだ。
『呪われた海』などと末期には揶揄やゆされて、町としても回遊禁止の措置を講じるほかなく、それが人命のためだったのか、町の名誉のためだったのか俺には分らない。
結論からいえば今も犠牲者は増えているので、当時の町としての決断は、結局意味のないことだったのかもしれない。
その犠牲者がこの町とは関係のないよそ者なのだから始末が悪いと、町民の誰もが思っていた。
ようやく林の群生地帯から抜け、砂浜にたどり着いた。1mほどの生垣の下には芝生を所々に蓄えた浜辺が月夜に照らされて白く輝いていた。
林に入る前までは雲が薄く広がり、月をぼんやりと覆っていたのに、今では海に溶けだしてしまったかのように、どこにも見当たらない。
背後には薄暗い闇と不気味な葉を揺する音と、正面には視界いっぱいに広がる星空と、その下に静かに揺らめく海面とさざ波の音が聞こえていた。
月明かりでも浜辺は白く、まるで夜空の星が降りそそぎ、一粒一粒の砂に変わり砂浜となったんじゃないかと思えるほど、白く輝いていた。
穏やかな浜辺とは逆に、全てを飲み込んでしまいそうな黒い海から、泡沫を含み浜を駆けのぼる微弱な波が押し寄せては引くを繰り返し、俺に、「おいで」と手招きして呼んでいるようにも見えた。
『美しい』
息を呑んで、かろうじて頭の中に浮かんだ感想が、それだった。
俺の人生で美の象徴を女性にのみ求めていたことから、目の前に広がる風景はラッセンが描く原画のように、幻想的で神秘的な雰囲気が感じられた。
まさに絵画の世界に自分が入り込んでしまったかのような錯覚に陥り、味わったことのない興奮で全身に鳥肌がたった。
もっと間近で見ようと俺は靴と靴下を脱ぎ、白く光る砂浜に足を踏み出した。
砂浜が封鎖されてから数年が経ち、人の出入りがなかったからか、砂浜にはゴミ一つ落ちてなかった。他の海水浴場では見慣れた光景も、ここはラッセンの描く原画の世界だ、ゴミなんか落ちてやしない。
足の裏にヒンヤリとした砂の感触が伝わってくる。連日の熱帯夜で俺の身体は熱にうなされていたが、足の裏から熱が伝動したのか俺の体温は徐々に下がっていった。
パラパラと細かい粒が足の裏にくっ付く、湿気を含まない砂は次に足を踏み出す頃には、後腐れもないほど簡単に地面に戻った。
ここに来た俺を気持ちよく向かい入れてくれた砂浜とこの海は、本当に『呪われた海』なんだろうか。それとも油断させた隙に、俺を引きずり込むつもりなんだろうか……。
砂浜の幅は約20m、思っていたよりも波打ち際までの距離が遠くに感じられた。
最初は心地の良い感触だった砂浜が、十歩も進めば、いつのまにか深く沈み込み足の抜けない底なし沼にハマったような感覚になっていた。
ここで亡くなった人たちが、俺を死の淵に引きずり込んでるのか、信心深くない俺でも薄気味の悪い場所に立っていると思うと、意識してしまう。
この海で毎年、人が死んでる。あいつも、ここで死んだのだ。
15mほど進んだところで足の裏に硬い物が当たった。足を退けてみると、ちょうど人の足のような形をした貝殻があった。表面に樹木の年輪を思わせるような段々模様があり、それが貝の成長をあらわした物だった。
「なんでこんなところに牡蠣の殻があるんだ」地面からすくい上げて、目を凝らした。確かに牡蠣の貝殻だ。
自然と流れ着いたのか、それともここで誰かが食べたのか、それとも……。
判然としないまま立ち尽くし、またボンヤリと海を眺めた。
この漆黒の海は月明かりすら飲み込んでしまいそうだった。海面に写る月がグニャリと変形するのを、飽きずに見ていた。
「お前、ここで何してんだ」
「ひっ」
突然、背後から声を掛けられ、しゃっくりが起きたような情けない声が出てしまった。
恐る恐る振り返ると薄暗がりながら、白髪の混じったような短髪で、中年と思わしき顔だったが、余分な脂肪がなく引き締まった身体つきはその認識を覆すほどだった。
身長は俺と対して変わらないがガッシリとした身体つきで、俺よりもかなり大きく見える。
麻織物のハーフパンツと紺系のTシャツという出で立ちで年齢はたぶん50歳くらいだ。
「お前。ここ立ち入り禁止だって、知ってて入ったんだよな」
「あ、いや。あの、そのですね」しどろもどろになりつつも、適当な理由を付けて答えた。
「昔ここの砂浜にタイムカプセルを埋めたんです。小学生の頃に。それを掘り起こそうと思って、来ました」
男は俺の言ったことを聞くつもりもないのか、それとも理由を聞いたのは建てまえだったのか、返答もせずに俺が立っている周辺に目を配らせ、砂浜に注意を向けていた。
「当たり前のこと聞くけどよ、ゴミとか散らかしてねーだろうな」さっきの質問の時とは違い、はいと答える以外の選択肢が用意されてなかった。
ここに居ることよりも、ゴミを散らかすことの方が、この男にとっては腹立たしいのだろうか。
「もちろん、ゴミなんて散らかしてません」ただそう答えたあとで、手に持っていた牡蠣の殻の存在を思い出した。持っているのは片方だけ。対となる貝殻が下に落ちていたら何と答えれば良いんだ。
「酒も飲んでねーな?」
「はい」
「じゃあ、さっさと帰れ」男は俺に半歩にじり寄り、顔を睨んだ。
壮年の男の顔には幾重の皺と、無精ひげが見えた。太陽の下で見ればきっと浅黒く日焼けでもしてるに違いない。
にやっと笑い白い歯を零せば間違いなく海の男に見れるはずだが、この至近距離で一切の笑みも零さず凄みのある眼力で睨みつけられ、俺はたじろいだ。
「はい、すみませんでした」
「工事の途中で、誰かがタイムカプセルを見つけてくれるといいな」そう言い残して、男は背を向けて歩き出していた。
その後ろ姿は背筋の伸びたしっかりとした足取りで、月明かりがあるとはいえ昼間と変わらないような、迷いのない歩行だった。
「なんだよ、ちゃんと聞いてたのかよ」俺は、男が闇に消えていったのを確認してから呟いた。そして気付いた。
「てか工事関係者じゃないのかよ!」
急に夜風が冷えてきた。砂浜の冷たさも相まって身体が足先から冷えだす。そろそろ帰るか。
「また、来るな」と呪われた海に向かい、一言を残し、俺は海に背を向けた。
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