花束 おまけ 5
「千秋とは、結婚してるでしょ。それを、付き合ってるとは言わない」
「…………」
咲良ちゃんの口から飛び出た言葉を、私は一瞬見逃しかけた。千秋さんは目を伏せる。私から初めて、疑念の目線を外した。
「結婚、してるの。え、できるの」
声を出したら震えていて、情けない気持ちになった。やっぱり咲良ちゃんの冗談? でも、彼女はそんなに冗談を言う子じゃない、でも、でも――と、何度も考え直して、やっぱり分からなくなった。
「……結城先輩、ここ、あれでしょ。あれがあるの、パートナーシップ」
千秋さんが言う。それは、たしかにぼんやりと聞いたことがある。結婚ではないけど、同性同士のカップルに、結婚みたいな権利を与えようとする、そういう制度だった。私はそういうのをついこの間まで知らなかった。
二人がそう言うなら、二人の関係はそこに落ち着いたのか。と思うと、何度も繰り返した諦めがまた顔を伏せて、私の内部をじんわりと逆の気持ちが撫でる。私に束縛する権利はない。権利がないどころか、そんなことすれば、国が国なら死刑かもしれない。なのに、私には、咲良ちゃんに私以外の人ができたことが、苦しかった
「二人は、それなの?」
二人とも、頷いた。そうか、そうだったんだ。咲良ちゃんは、千秋さんを選んだんだ。紅茶の柔らかい香りが、不意に重くなる。
「……そっか」
紅茶に反射した私の表情。今日のために立派にめかして来た。前方からため息が聞こえて、そこを見た。千秋さんの目線が私を射る。たくさん言いたげな、窺う表情が。その背景には二人の作り上げてきた綺麗なリビングがある。黒いテレビのモニターに、私たち三人が映し出されていた。
「咲良」
「うん?」
「分かってはいるんだけどさ、確認ね。結城先輩を呼んだのって、なんの意味もないんだよね?」
「意味はあるよ」
「会いたかったんだよね? 私に会わせたかったとか、結城先輩の鼻を明かそうとか、そういうんじゃないよね?」
「あ、うん。久しぶりに会いたかっただけ、引越しも落ち着いたから」
千秋さんは頷いて、咲良ちゃんの顔をじっと見つめた。咲良ちゃんも咲良ちゃんで、その視線から目を逸らさない。心の中で会話するかのように黙っている。
「でもさ咲良」
「うん」
「ここにこの三人を集めたなら、避けては通れない話があるよ」
咲良ちゃんは難しい顔をした。幼い顔立ちの口が尖る。
「なに?」
「あんたが、私と結城先輩の、どっちが好きなのか」
千秋さんがそう言うと、咲良ちゃんはしっかりと黙りこくった。しっかりと、というのは、ここにおいては重みを帯びた事実だった。それは、彼女がその問いについて即答できないということの証明であったし、証明できないのであれば、私と千秋さんはどうなってしまうのか、という憂慮を呼び起こすものだったからだ。
私は、なにも答えを持たないでいた。咲良ちゃんにどう答えて欲しいのかについての答えを。もし咲良ちゃんがここで、「千秋が好き」と千秋さんのことを認めてくれれば、事は丸く収まるんだろう。千秋さんは喜んで、安心するし、実際、大抵の人ならそうする。でも咲良ちゃんは「大抵の人」と呼ぶにふさわしい、格式ばった人間ではなかった。だからなにを言っても不思議じゃない。自分の気持ちに正直な女の子だった。そして、千秋さんの方が好きだと目の前で告げられた時の私が、どんなに気分に陥るか、私には判然としない。
それで、仮に咲良ちゃんが――「比奈が好き」なんてことを言えば、それは硝子瓶を力任せに割ってしまうような、そういう行為になってしまう。それは光景として美しいけれど、粉々になった硝子の破片は足の裏を突き刺してしまう。ああ、もう内面がぐちゃぐちゃだった。
それだから千秋さんの問いには強い意味が伴っていたし、実際、それはここではっきりさせなければならないことなのかもしれなかった。咲良ちゃんが即答できず、黙ってしまったことは、この空間に色んな意味を落としている。
しばらく黙っている間、私たちはその間を繋ぐこともしなかった。咲良ちゃんの次に発する言葉がなんなのか、じっと待っていた。痺れを切らすこともなく、ただ二人で咲良ちゃんを見つめながら、彼女の動作に目を見張っていた。
咲良ちゃんは、意を決したように口を開く。けれどそれは単純な答えとは違っていた。
「……私は、比奈が自分のことが変なんだって言った時、そうなんだって思った。女の子を好きになるなんて変だと思ったって打ち明けられた時、素直に受け止めた気がする。私は、好きな人が女の子だろうと男の人だろうと、なんでもいいと思っていたし、好きな人は比奈しかいなかったから」
千秋さんは頷く。丸い瞳の中にある人懐っこいすすき色が、咲良ちゃんの言葉を噛み締めるように何度もまたたく。
「でもやっぱり、私には変だって思えなかった。比奈は、変だって思ったから、私から離れていって、男の人と結婚した。私にできることは、それが変なんかじゃないってことを、証明するくらいのことだった。好きになる人なんて、人それぞれだと思う。男だか女だか知らないけど、そこにあるのはひとつの人でしょ。私はとにかく、比奈のその感覚に、逆らいたかった」
咲良ちゃんの声はほとんど声変わりせずに、淡々と落ち着いた、春のような声だった。ひんやりとひび割れた空間にそれが響くと、春一番みたいに駆け抜けて、花の匂いが喉の奥に届く。私は俯いた。
「比奈は、比奈の気持ちに逆らおうとして、本当に逆のことをした。私のことが好きだったんだよって、あの結婚式場で言ったとき、苦しそうだった。ばかだな、って思った。私たちにはほかの道があったのに」
彼女の言葉が思い出される。冗談めかして泣き顔で言った、「男の人と結婚しちゃったから、もう私と結婚できないね」という言葉。それは冗談なんかではなかった。それは、言葉そのままではなく、本当に咲良ちゃんが言いたかったのは、彼女の気持ちを考えれば、「私以外の誰かと結婚したから、私とは結婚できない」ということだっただろう。男の人とか女の人とか、咲良ちゃんには関係なかったなら、そういう意味だ。
「咲良、あんまり答えになってない。誤魔化してる?」
千秋さんが聞く。鋭い問い方だったけれど、声音は優しかった。
「誤魔化してない。――比奈」
咲良ちゃんが私を見る。春色の瞳で見る。私は「うん」と返事をした。
「私が言ったら、いまの旦那と別れる?」
問題は風に吹かれるみたいに転がっていく。問いが問いを生み出して、枝分かれしていく。その際限のなさがいまの私たちには必要だった。
「……別れないよ」
「千秋、私もそう思う」
「どういう意味?」
「比奈のことが好きだろうと、千秋と終わることはない」
千秋さんは言われて、表情から完全に優しさを消した。
「それが咲良の答え? なに、お互いもう身を固めたから諦めようって言ってるの?」
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