花束 おまけ 2

 エレベーターに乗り込み、とりあえず10を押した。1025というからには、10階だろうと思ったからだったけれど、なんら自信はない。1025階かもしれない。狭いが豪奢なエレベーターの小さな箱の中で、私はため息を吐いた。


「こんなとこに住めたら、」


 ひとりで言いかけて、何を言おうか迷ううちに、何も言わなかった。心細さは自分では埋められない。


 咲良ちゃん。桜のようだった人。桜色の血が頬に差して、憂いを帯びた視線がいつもみずみずしかった人。よく夢を見る。夜に眠る時の夢ではなくて、昼にうたた寝をする時の夢。眩しいレースのカーテンが風で揺られて、リビングのソファの上で、ただ微睡む時の、ほんの小さな物音で寝返りを打つ、繊細な夢。墨汁のようにどろりとした真夜中の、重苦しい幻とは違う。


 私はささやかな晴れの日の正午に、あの眩しく、梢の隙間から漏れる光芒を集めたみたいな、かけがえのない女の子のことを思い出す。彼女は湖の鏡面の上に立っていて、「どうやってそこへ行くの」と問いかけると何の気なしな顔で言う。「最初からいた」と。あなたは何故岸にいるの、と問われて、何も知りはしなかったから、と、打ちひしがれて泣く。湖の傘は増す。少女が成長するみたいに。


 こーんと小気味のいい音が響く。十階だった。私は意を決してその歩を進める。25......25......、部屋が沢山あって難しい。10が最初につくから、階はやっぱり間違ってないんだろうけど。やがてやっとのことで番号の法則性を見つけて、それで1025に辿り着いた。ほんのり汗をかいていた。扉の前にもインターホンが取り付けられている。私はゆっくりとそれを押した。


 小さな音が鳴る。あんまりカメラに映りたくなかったから、少し端に避けた。


『開けるから待ってて、比奈』


 ああ、声は少しも変わらないな。旦那もいるのにまだこの子が好きなんだ私。いけない女だ。女の子を好きになるのが変だなんて、その考え自体が変だってことを、私は比奈に教えてもらうまで気付かなかった。だからと言って別に結婚相手に不満があるわけでもない。誠実で優しくて、咲良ちゃんに似て冷静で大人しくて、芯のある人だった。咲良ちゃんには、そんなこと、言えないけど。


 咲良ちゃんの選んだ人は――どんな人なんだろう。きっと頭が良くて、頼りがいがあって、それで――そこまで考えて、もうそれ以上は考えたくなかった。咲良ちゃんに恋人ができるなんてことを、私は受け入れられないような気がした。勝手な人間だった。私からの手紙にもよく書いていた。大事な人はいますか? それは咲良ちゃんの近況を知るためという仮面を被って、私以外に好きな人がいないで欲しいという束縛に似た感情でしかなかった。咲良ちゃんに友達が増えていくのも、私には苦しいことだったのだ。最低の人間。どこを切り取っても最悪。自分勝手でわがまま。それでいて誰よりも侘しい。


 ぱたりと物音がして、鍵が二回外れる音がする。鍵は二つ付いてるんだな、なんていうどうでもいいことを考えているうちに扉が開いて、そこから部屋着の咲良ちゃんが顔を出した。


 私の心臓は花束に包まれて止まる。


 可愛らしさと、そこにある後ろめたそうな表情は、いまでも同じままだった。私は数千キロ先からでもこの子のことが分かるほど、この子の顔を知っている。


「あ、あの」

「入って?」

「あ、うん」


 玄関に足を踏み入れると、後ろでぱたんと扉が閉じた。鍵の二つ閉まる音がした。


「……鍵、ふたつ付いてるんだね」

「あ、そうだね。比奈の家はこう、縦にがしゃんってするやつだったよね」

「あはは……おばあちゃんの家は、そうだったね」


 玄関で寝かせられている靴を見る。男の人のものはなかった。出掛けているのかな。それとも、いちいち仕舞う人なのかな。お洒落なブーツがあって、それも女性ものだった。咲良ちゃんもいまどきな格好をするようになったのかな。


 ――私たちに不意に訪れた空白の期間。いや、それは私が望んで得た「満ち溢れた空白」だった。私は咲良ちゃんから離れることで、咲良ちゃんのことしか考えられなくなった。咲良ちゃんとの思い出の中にある全ての物事を見つめる度に彼女のことを思い出した。アイスクリームの当たりの棒、風呂上がりの扇風機、床に敷かれた布団――彼女の読んでいた本、聴いていた音楽、彼女と一緒に買った小物、雨の日、冬の日、全ての中に水橋咲良はいた。


 不満それ自体に満足するかのように、私はあらゆるところから恋の影を探した。彼女は私の太ももに付いた一生キズみたいに、私の恋路と人生に、付きまとい続けている。笑顔で、あるいは哀しい表情で。


『男の人と結婚しちゃったから、もう私と結婚できないね』


 水橋咲良は言った。その通りだった。


『人は初恋でしか本当の恋をしていない』


 彼は言った。これもその通りだった。初恋以外の恋はすべて初恋の後追いだった。


 私は私を好いてくれる男の人に、打ち明け話をした。彼はそれを聞いて、そう、だから僕は君が好きなのかもしれないと言った。人に嫌われるはずのことが、むしろ人に好かれることがある。そう、だから私は咲良ちゃんが好きなのかもしれない。そしてお互いの求めるものが変わったことに気が付いて、すれ違った。私は咲良ちゃんに、友達なんかできて欲しくなかったんだ。


 整然とした廊下を歩く。扉がいくつもある。リビングまで一直線、私は咲良ちゃんの後ろ姿を、おずおずと見ていた。いまからなんの、話をするの。私がなにかを、話したらいいの。

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