エピローグ
「改めて、久しぶりだね」
化粧品のにおいや、木の香りが混じり合った控室。比奈に連れられてきたここは予想よりも散らかっていて、結婚式という行事の盛大さや慌ただしさが見えた。
「落ち着かない?」
「……ううん、珍しかったから」
「そっか」比奈が視線を床に落とす。「珍しいよね。私も結婚式なんて初めてだから。人のも見たことないし。いつか咲良ちゃんも挙げるかもしれないんだから、今のうちに慣れちゃいなよ」
そう言う彼女の声は、心なしか苦しそうに聞こえた。なにを考えているのかはまったく分からない。昔はもう少し分かっていた気がする。
沈黙。気まずいというのとは、たぶん違う。なにを話したらいいのか分からないのだ。小学生の時も、中学生の時も、彼女が先に卒業して私が後から追いかけたけれど、会ってない期間は長くても半年とかそのくらいだった。そんな短いあいだでは、人もそう簡単に変わったりしないだろう。けれど、もう五年……いや、六年になるのだろうか。六年もあれば、人は変わってしまう。変わろうとしなくてさえ、良くも悪くも。ちょうど私が、小学五年生だった私が高校二年生になった頃には見違えるように変わっていたのと同じで。話すこともなくなってしまう。
「……咲良ちゃん、手紙見てなかったでしょ」
「…………」
「あたし、一ヶ月に二回は咲良ちゃんちに送ってたのに、返ってくるお手紙にお母さんやお父さんの言葉はあっても、咲良ちゃんからの返事は一回もなかった」
「忙しかったから――」
「返事、待ってたのに」
割れてしまいそうなほど小さな声が、しんとした部屋に吸い込まれていく。胸が切り裂かれるように痛んだ。
おめかしをした結城比奈は、結城、比奈は、今にも涙をこぼしてしまいそうな表情でいる。
理由があるのかと言われれば、特にない。ただ返事をする気になれなかった、それだけなのだ。けれど、そんな自分に対してなにも思わなかったわけでもなかった。手紙を開けば彼女の言葉がそこにあり、ペンを握れば私の思いが届いたのに、そうしなかった後悔とか、罪悪感はあるのだ。
「……ごめんなさい」
「違う、違うよ咲良ちゃん。私、あなたを責めてるんじゃないし、謝ってほしいんでも、ないよ」
また訪れる沈黙。今度は気まずかった。私が悪いのは明白で、きっと彼女はそれを責め立てる権利を持っている。それなのに、そうではないと。責めるつもりはないのだと言う。
私は息を呑んだ。アーモンドみたいな香りがする化粧品の空気を吸った。気が付かず歯を食いしばった。――嘘だ。怒りたいはずだ。泣きたいはずだ。怒りたいなら怒ればいいのに。泣きたいなら泣けばいいのに。
彼女は――私は?
いま、ここにいて。
怒りたいのに。
泣きたいのに。
そうしないのは私じゃないか。
彼女に言いたいことは、この数年間で募りに募らせた。
手紙なんかでは伝わらない。せき止められないものが。
「――手紙なんかで比奈のなにが分かるの?」
「え……?」
「身長も、体型も、顔も、声も、気にしてた胸の大きさも、手紙なんかじゃ、そんなのじゃ分かんないじゃん、 会いに来てくれたらよかったのに……! 手紙ばっかり送ってこられても虚しいだけなのに!」
「それは……」
「分かってるよ! 忙しかっただろうし、つらかっただろうし、そんな場合じゃなかったのはわかってた。でも、距離を置こうともしたでしょ、私と!」
距離を空けられていた。そう気付いていた。初めてそんな気がしたのは、校舎内で珍しく会えて、けれど千秋に連れて行かれてしまって以降のことだった。私が家を出る時間も覚えてくれたはずなのに一度も登校中に会えなくて、帰りもまたそうで、校舎で話しかけようとしてくれることもなくなった。理由が少しも分からなくて苦しかった。嫌いになったの? もう飽きちゃったかな。
だから、家に来てくれたとき、それがどんな理由であっても、嬉しかった。でも、そしたら、今度は本当に私から去っていくと言われた。
私たちはもう、電車で隣町に出かけることさえ怖かった小学生ではないのだ。いくら彼女が精神的に追い詰められていたとしても、運命に詰られていたとしても、いや、それであってこそ、私に会いに来るくらいのことはできたはずなのだ。私のところにいさえすればよかったのだ。手紙に目を通していた両親が何も言わなかったことを思い出せば、手紙に会いたいなんて書かれたこともなかっただろう。
こう思うのは、こんなことを思うのは自分でも意地が悪いと思うけれど――男と交際して結婚するくらいの暇があれば、私に会いに来ることなどなんてことなかったはずなのに!
そう、だから、私から会おうということも、会いに行こうとすることもなかった。それで、やっと忘れかけた頃に、この“晴れ舞台”! 結城比奈は私に一体なにを伝えたかったのだろう。最後でいいから、一回だけでいいからなんて言って、何を見せつけたかったのだろう。胸の奥で血が暴れる。
「あの時も、うちで暮らそうと思えば暮らせたのに、頼ろうと思えば頼れたのに! よく知っている私よりも、よく知らない親戚の家を選んで、お父さんにはやめろって言われたけど、私、ずっと同じこと思ってたよ。なんでだろう、馬鹿じゃないのって! 引っ越したあとも、会おうと思えば会えたのに会いにこなかった、会わなかった。手紙なんかで、誤魔化そうとして、私を、なんだと思ってるの……?」
「咲良ちゃん、私、そんなつもりじゃ――」
「そんなつもりじゃなかったとしてもそうだった!」
私の叫ぶような声に目を丸くして、結城比奈は押し黙った。けれど、しばらくのあと、彼女はまるで夢を語る時のような強い瞳で私を見て、言い放つ。
「ごめん、そのとおりだよ。私は咲良ちゃんと、距離を置こうとしてたの」
それを聞いて、『怒りで震える』という陳腐な表現が、嘘でないということを初めて知った。咄嗟に言い返す言葉も思いつくことができないほど、胃液のようにこみ上げてきた怒りが、身体を強張らせる。なにを、なにをそんな、自信満々に。
感情が昂ぶったかと思えば、今度はなんだか笑えてきた。そう、ああそうですかと、投げやりにでも言いたくなるほど。もう何もかもがどうでもよくなる。いままでの悩みも、彼女に対する感情も、きっと何かの間違いだったのだ。最後にやってくるのは、虚無感にも似た冷静さだった。
「……帰る」
「だって私、変なんだよ」
「…………」
「ずーっと変なの。ずっと、本当にずっとだよ。咲良ちゃんと初めて会って、咲良ちゃんの顔を見た時から、私――咲良ちゃんのこと、好きだったんだよ」
比奈はそう言って、私がなにも返さないのを見て、くちびるをきつく噛んだ。
「最初はなんだか分からなかったの。でも、顔を上げたら可愛いとか、大きな家に住んでて、お父さんとお母さんがいて羨ましいとか、いじめられても挫けないなんて強い子だな.とか、いろんな好きなところがあって、それが、なんていうか、周りの子の言う好きな人っていうのに似てるって気がついて、その時だけだったなら、大人になって思い返した時に、幼さゆえのって言い訳できるかもしれないけど、中学生になっても、高校生になっても、あたし、咲良ちゃんのこと好きだったの。変わらなかったの。ずっと憧れだったの。咲良ちゃんみたいになりたくて、ずっと! でももう離れなきゃって、迷惑かけちゃうし――女の子を好きになるなんて、おかしい事だって気が付いてたし、離れられなくなっちゃうし、もっと好きになっちゃうし、だから……」
「比奈、なに言ってるの?」
「……っ、ごめん、気持ち悪いよね、ごめんね」
彼女が子供のように泣きじゃくる。そんな姿を見て、私の世界もすぐに歪んだ。歪んで、零れて、またそうして、拭いても拭いても何回拭いたってあふれて止まんなくて許せなくてどうしたらいいのか分からなかった。
「違う、違う……! そうじゃないよ、だって、私が――」
女の子を好きになる、なんておかしなことなんだろう。比奈はずっと前に気づいていたみたいだけど、私には気付かなかったな。きっと私はずっと変な子だったんだ。比奈が変だったように。比奈がそう言うなら、そうなんだろう。
「咲良ちゃん……?」
「……ううん、なんでもない」
私が、私が彼女に憧れていたのだ。好きだった。好きだったのだ。全部捧げてしまいたくなるほど、ほかの誰もどうでもよくなるほど。私をからかうクラスメイトを追い払ってくれたかっこいい彼女に、滑り台の上で私を見下ろした彼女に、両親がいなくてもくじけずに強く生きて、人気者で、とても優しくて、剣道が強くって、誰からも信頼されて――挙げれば、終わらないくらいに。
「……でも、残念だね、比奈」
来てよかった。この時初めてそう思った。私と比奈は、くっ付いているようで、すれ違っていたのだ。出逢うべくして出逢って、結ばれないものとして結ばれなかった。そんな感じがする。お互いがお互いに憧れていて、愛していて、引っ張り合うようにして変わっていって、そしたらいつの間にか、お互いが必要無くなっていたんだ。それが分かってよかった。たぶんこの答えが、ずっと出せなかったんだ。彼女と私のあいだにある違和感が、ようやくなんだったのか理解した。
「……なにが?」
「私のこと好きだったくせに、男の人と結婚しちゃったから、もう私と結婚できないよ」
比奈は涙で瞳を濡らしたまま、呆けて私を見て、やがて小さく笑った。
「……ほんとだね、もったいないこと、しちゃったかな。ねえ、咲良ちゃん――」
新郎新婦と出席者が、全員外に出る。柔らかい風が人と人の間を通り抜けていく。その香りと一緒に、視線を比奈にやった。彼女は純白のドレスを輝かせて、少し潤ませた瞳で、私にウインクをする。
次の瞬間、彼女が抱えていた色とりどりの花束が、空中に投げられた。
『――ねえ、咲良ちゃん、ブーケ、受け取ってね。私が咲良ちゃんから貰った幸せ、全部あげから』
花束が空に浮いている。
それは弧を描きながらまっすぐに私の方に飛んできている。手を伸ばせば、確実に私が手に取ることができる。近くには誰もいないから、私のものにすることができる。私のためだけに放たれた花束。次に幸せを掴むための儀式。私がこれを受け取ったら、彼女とのすべてが終わってしまう気がする。それでも彼女は私に向かって、花束を放ったのだ。
清々しいほどに晴れた、優雅な青空が見える。花びらをほんの少しだけ散らしながら、段々と視界の多くを埋めていく花束が見える。
まるで、滑り台の上から私を見下ろした、いつかの綺麗な女の子のように。
あの時の私にはできなかったけれど、いまの私にはできる。滑り台を駆け上がっていって、彼女を抱きしめるのだ。
花束を――!
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