第16話

「咲良ちゃん、約束。抱きしめて」


 夜、虫の羽音が窓の隙間から届く。二人で布団に入ると、比奈が私の懐に潜り込んできた。


「約束なんてしたっけ」

「うん、したよ。気づいてなかったの?」


 笑って、彼女の細い肩を抱く。比奈は私の胸に顔をうずめて、何も言わずにしばらくそうしていた。


「……あったかい。ずっとここにいたい」


 部屋の闇に飲まれて消えていきそうなほど小さな声で、結城比奈がぽつりと言った。


「そうしたらいいよ」

「そうしたいなあ……。咲良ちゃん、優しくて、なんか、私だめになっちゃいそう。ううん、もうだめな子なんだよ、私」

「どうして?」


「……なんでだろうね」衣擦れの音がして、そう言ったきり、しばらく比奈は何も言わなかった。時計の針の動く音が規則的に響いて、私の鼓動も似たような速さで鳴っている。静かなのが五月蝿かった。「おかしいなって思うことはよくあるんだけど、何がおかしいのってその後に思って、いや、やっぱりおかしいなって、その繰り返しで、自分で自分の気持ちが分からなくなるの」


「なに、なんの話? 無理してるんじゃないの? ゆっくり休まなきゃだめだよ。手伝えること、ないの。お金とか困ってるの?」

「……ううん。いま、全部……これで全部……、悩みも、疲れも、ふっとばすから」


 私にこうして甘えている時でさえ、なにに悩んでいて、なにに疲れているのかを、結城比奈は、具体的には話さない。彼女の明るさは、自分の暗さを無理やり押し込めて出てくるもので、そうやって吐き出すべきものを吐き出さないで生きてきて、責任感とかそういう重いものを背中に背負って、やっとのことで笑っている。


 ずっとそうして生きてきて、もうそれしかできなくなってしまっていて、それが当然だと思って自分を追い詰めていることに、なんにも気付いていない。私の前では少し楽にするけれど、それでも全ては吐き出さない。結城比奈は、草原のたった一輪なのだ。


 広い草原で強く根を張って風に揺らされる、きっととても明るい色をした花。その、儚きこと。

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