第15話

「今日、ひさしぶりに泊まりにくる? 手料理、振る舞うよ」


 朝、登校中にその誘いを受けて、私は放課後まっすぐ家に帰ると支度を済ませて、結城比奈の家へと向った。


「おじゃまします……」


 風で乱れた前髪を整えながら言う。私の声は閑散とした木の家屋に響いて、すぐ吸われていった。久しぶりにこの家に入るのが少し緊張したけれど、その光景はあまり変わっていなかった。前に来た時と変わらない木と植物の風のにおいがして、その空気は暖かいままだった。


「まあまあ、いつもどおり、家だと思ってゆっくりしてってよ」


 けれど、少し違うこともあった。まだ十八時になる前だというのに、廊下は薄暗く、やけに静かだ。比奈とおばあちゃんの二人暮らしではあるけれど、それでもこの家は明るくて賑やかなはずだった。私がこればいつも、おばあちゃんはどんな作業をしても迎え入れに玄関までやってきてくれたが、それもなかった。


「……おばあちゃんは? お買い物?」


 比奈はゆっくりと首を横に振る。微笑んでいたけれど、それは比奈の本当の表情ではなかった。


「部屋にいると思うよ。もうおばあちゃんも歳だから、あまり動くのはしんどいってさ。だから私の手料理って言ったの。会いたい?」


 頷く。比奈に連れられて廊下を進んで、彼女がおばあちゃんの部屋の襖を叩く。その後ろで、私は少し身を固くしていた。おばあちゃんに会うのも、少し時間が空いてしまったな。


「はいー?」


 声が返ってきて、比奈がその襖を開く。


「おばあちゃん、咲良ちゃん来たよ」

「お、お久しぶりです」


 おばあちゃんはベッドに寝たまま本を読んでいたが、ゆっくりと手を下ろして、身体を少しだけ起こした。私の顔を、目を細めてじっと眺める。


「おーおー、よく来たねー。ゆっくりしていってね。今日は泊まっていくの?」

「はい」


 うんうんとおばあちゃんは頷いて、以前と同じような微笑みを浮かべた。


「こんな格好でごめんなさいね。プリン、作ってあげたいんだけどね」

「……いえ、いずれまたお願いします」


 おばあちゃんはもう一度微笑んで、枕に頭を預けた。


「夜ご飯できたら呼ぶからね」


 比奈が言って、おばあちゃんの部屋を後にする。廊下から台所に戻りながら、比奈が訥々と話し始める。


「寝たきり、ってわけじゃないんだけどね。トイレもお風呂も食事も自分でできるし、咲良ちゃんも見たとおり、元気は元気なんだよ。でもやっぱ身体とかはどんなに気をつけてても厳しくなってくるって」台所に着くと、比奈は夕食作りの支度を始める。「……私も日中は学校だしずっと見てあげられないから、本当は、お金があったらお年寄りとかが入るホームに入れてあげたいんだけど、おばあちゃんは、お金の面でも介護の面でも迷惑をかけたくないから、本当に手に負えなくなったらそうしてって」


 キッチンのくすんだ銀色の上に、まな板や包丁が並べられる。丸い野菜とごつごつした野菜。西日が遠くから東の窓をほんのり赤く染めて、薄暗い灯りを頼りに、比奈は淡々と手を動かしていた。私は何も言えず、比奈の話をただ聞いている。


「南高は基本的にバイト禁止だけど、事情を話したら、許可出してくれたんだ。でもそれ見せたらすごい怒られちゃって。年金も貯金もあるから、比奈が苦労する必要はないって」


 比奈は自由な人じゃないし、要領のいい人でもない。いつも気丈な表情を、誰の前でも浮かべている彼女が、教師と向かい合って事情を話すその光景が浮かんで、私はゆっくりと胸が痛くなった。


「……私、おばあちゃんと比奈のためになんかできないかな」


 私が言うと、比奈はエプロンの紐を縛る手を止めて、こっちを振り向く。


「――私の隣にいてくれるだけで」

「…………」

「……ううん、私の心にいてくれるだけでいいの」


 比奈が首を振る。まとめ上げられたポニーテールの裾が揺れる。


「……ごめんね、こんな話したら、心配になっちゃうよね。咲良ちゃん、優しいから。今のとこやっていけてるから、全然大丈夫なんだよ。咲良ちゃんがこうして私の横で、話聞いてくれるだけで、嬉しいの。学校には、他愛もない話をする人はたくさんいるけれど、こういう話をできるのは、咲良ちゃんだけだから」

「聞くだけでいいなら、いつでも聞く。もし他に手伝えることがあるなら、私なんでもするよ」

「……咲良ちゃんは優しいね。久しぶりに会えて、ほんとによかった」


 そう小さく言ったあと、包丁が人参を切る音が台所に響いた。それからカレーができるまで、私も比奈もほとんど話をしなかった。私は彼女が器用に、料理なんか下手くそだった彼女が手際よく作業をする音を聞きながら、その背中をじっと見つめていた。


 変わっていくのだ。時に、変えられていくのだ。風の色が、夢の色が。私は比奈のところへ行って、結局結ぶのを忘れてしまったエプロンの紐を結んであげた。


 結城比奈は、人に相談するということを知らない。明るくて気さくな子だけれど、その分、恐ろしいほど不器用だった。


「咲良ちゃん、そのまま抱きしめて」


 だから、人一倍抱え込んで、ふとした時に、びっくりするくらい甘えてくる。


「……やだ」

「あは、どうして?」

「離れられなくなっちゃうから。ご飯、いつまでもできなくなっちゃうから」

「そうだね。じゃ、座ってお利口さんにしててください。……夜は、そうしてね」


 結城比奈のカレーは、おばあちゃんの作るカレーと同じ味がした。おばあちゃんも交えて夕ご飯を食べ終えると、いつものように二人でお風呂に入る。高校生になってまでこの習慣が続くとは思っていなかったけれど、中学生の、最も多感な時期でさえ私たちはこうしていたから、今更気になることもなかった。

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