第11話

「ねえねえ、消しゴム持ってない?」

「えっ」


 入学式を終えて教室に案内されたあと、担任の先生が来るのを待っている時。後ろの席の女の子が、不意に私の肩を叩いて、声を掛けてきた。


 動揺して声が上ずった。慌てて振り返るけど、その動きはぎこちなくて、うまく喋れない。教室で誰かに声を掛けられるなんてこと、いままでは一度もなかったし、これから三年間も同じだと思っていた――。


「うわ、顔かわいいね」


 教室なんてものは私にとって、重苦しい空気を纏った、居心地の悪い牢獄のような場所で、確実に決められた一年の刑期と、ほとんど毎日、一日の半分ほどの時間を過ごして、同じ監獄に入れられている人によってはそれ以上ない苦痛な時間を過ごさなければならない、そんな所のはずだった。


「そう、消しゴムある? 消しゴム。忘れちゃってさー、入学初日に筆記用具忘れるなんて尖ってるくない? あ、もしかしてあなたも忘れちゃった? てか名前なんていうの? どこの中学?」

「うっ」


一度にたくさんのことを言われて、混乱した。清楚な顔立ち、ショートボブの髪型と校則をしっかり守った制服の着こなし。その割に、喋り方は今時の女子高生然としている。悪い人ではなさそうだけれど――。


「あ、ううん、消しゴム、あるよ」


 首を傾げる彼女に、私は新品の消しゴムを手渡した。春先なのに冷えた指先が触れる。私とは違うタイプの人だ。仲良くできるだろうか。彼女が紙に消しゴムを擦っているうちに、質問に応えていく。


「……水橋咲良っていうの。中学はあっち」

「へー、あ、消しゴムさんきゅ。んーなんて呼ぼうかな。みず、とか。さくらんとか?」


 あ、あだ名だ……。変に思われないように冷静を装っているけれど、目の前で私の別の呼び方を考えられているのだと思うと、鼓動が高鳴るのが抑えられなかった。多分この子にとってはなにも珍しいことではないのだろうけれど、私にとっては初めてのことなのだ。


「な、なんでもいいよ。あなたの名前は?」

「葵千秋。どっちも名前みたいでしょ」


 そう言って、千秋と名乗った女の子はけらけらと笑った。私も面食らったみたいに、つられて笑った。どっちも名前みたいかもしれないけれど、どったも可愛かった。


 エレベーターじゃないと、こういうことが起こるんだと少し感心する。クラス内には小学校の頃から知っている人も当然いるけれど、そんなに数は多くないし、私になにか言ってきたり、意地悪をしてきたような人は一人もいない。


 もしかしたら、私はここで、うまくやっていけるんじゃないだろうか。そう思いながら、私は千秋と名乗った彼女のことを、じっと見つめていた。


「……なに、顔になんかついてる?」

「ううん、ごめんね、名前、素敵だなと思って」

「えっ! そんなん言われたの初めてだわ」

「どっちも名前なんてずるいね」

「ずるかあ~! ねえ、みずみず今日暇だったら、どっか寄って帰らない?」


 明るくて、おもしろい子。学校なんかずっと嫌な場所だったから、これからもそうなんだろうと思っていた。でも、高校からは違うかもしれない。私のそういう、被害妄想みたいなものを破ってくれるとしたら、この子なのかもしれない。


「うん、行きたい。どこ連れてってくれるの?」


 そう言って、彼女に近づき、机の上に放り出されていた手を握った。途端に千秋は目を丸くして、私の瞳をじっと交互に見つめた。それがしばらく続いたかと思うと、すっと下の方を見る。視線のやり取りが何度かあった。


「……と、隣町、カフェいっぱいあるからそこ行こ! 今日から宿題出るっぽいし、一緒にやろうよ」


 私は頷いて、放課後の約束をした。こうして、私にもクラスのお友達ができたのだ。千秋は最初の印象通り、おもしろくて溌剌で、でもどこか真面目で、可愛らしい女の子だった。千秋以外にも友達はできたけれど、やはりいちばん一緒にいるのは千秋だった。メールアドレスなるものも交換した。携帯電話を持ち歩く習慣がなかったから、みんなのアドレスをメモにまとめて、大事に鞄の奥へ仕舞い込む。


 高校生活は、小学校や、中学校のときよりも楽しく過ごせそう。そう考えると、ここに進学してきてよかったと思えた。

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