第6話


 私たちは食卓で向かい合い、おばあちゃんの用意してくれた夕ご飯を食べる。白いご飯に、コロッケに、きゃべつに、お味噌汁。それと冷えた緑茶。その一つ一つが、舌に優しく触れる度、私は表情を緩ませた。うちとは違って、ご飯中の会話も止まない。比奈が何かと喋り続けては、おばあちゃんも私も笑い、ときおり相槌を打つ。


 食後にはプリンが用意されていた。お店で頼むのと同じくらい……いや、それ以上に、ずっとおいしいプリンだった。


 そんな幸せな食事の時間が終わると、今度は「お風呂入ろう」と比奈に手を引っ張られる。少し狭い脱衣所で服を脱いで、先に風呂場へ入った彼女を追う。


 幸せな夕食と同様、これも初めての経験だった。学校の宿泊訓練で大多数でお風呂に入ることはあったけれど、一対一というのでは話が違う。相手は一人で、肌色が見えたら彼女か私であり、大人数で興味のない人と入るときとは違う、直接的な感情が湧き起こってくる。前に、赤信号は皆で渡れば怖くないというような言葉を聞いたことがあるけれど、それと似ているのかもしれない。お風呂、みんなで入れば怖くない。でも、少ない人数、まして二人、ましてそれが結城比奈であるとなると、むずむずとした気持ちが足元から駆け上がってきて強くなる。自分のコンプレックスを探してしまう。あえて見ようとはしていなかったけれど、彼女の身体はすぐ目に入り込んできた。


 綺麗。よこしまかもと思ったし、頭を振って見なかったことにしようとしても、そうはいかなかった。華奢すぎない、剣道を習っていると言っていたし、きっと引き締まっているのだろう。それでも女の子らしいきめ細かな肌と、細腕が目を惹いた。自分の身体が平均的に見てどうなのかは分からないけれど、彼女と違うということだけは分かる。私のからだなんか貧相だ。見ていると、目が合う。


「なんだか恥ずかしいね」


 その言葉に私はなんと返したらいいか分からなかったけれど、同じことを思っていることが分かっただけでも良かった。恥ずかしいのはなにも私だけではないのだ。


「ねえ、背中、あらいっこしようよ」


 比奈にタオルを渡されて、少し戸惑いながらもそれに泡を付ける。繊細な肌を傷つけないようにそっとタオルを当て、こする。まるで夢の中にいるように暑い。無言で、きゅっと唇を結んで、彼女の背中に泡を滑らせた。


「きもちー」


 彼女は足をぱたぱたとさせて喜んでいるけれど、私はそんなにはしゃげなかった。


 背中をシャワーで流してあげると、今度は私が背中を流してもらう番だ。彼女は同じタオルを使って私の背中をこすり始めたけれど、私はいつもタオルを使わないので、少しそれが痛かった。そう彼女に伝えて自分で洗おうとすると、結城比奈は右手に持ったタオルと何も持っていない左手を見比べて、その左手をぴたりと私の背中にくっつけた。


「これなら大丈夫?」


 彼女が手を動かし始める。痛みはなくなった。ぬるぬるとした感覚が、自分でやる時と違って心地いい。


「大丈夫、だけど」


 背中越しに結城比奈を見やると、彼女は口をきゅっと結んで、私の背中を両手でこすっていた。その手は背中から腕へと、脇の下へと、肩へと、首へと。強く、優しく、一日の汗と汚れを落とすために、伝わせていく。その手はやがて胸に差し掛かって、私の身体は思わずびくついた。彼女はなかば覆いかぶさるようにして、私の身体に泡を立てていく。その手はどんどん下へ行って、下腹部に差し掛かった時点で、私の手がいつの間にか彼女の腕を掴んでいた。


「そこは、自分でできるから……」

「えっ、あ、ごめん、あはは」


 彼女はおどけるようにして、手をひらひらとさせる。湯気のせいでその表情は伺えなかった。


 身体を洗い流し、二人で湯船に浸かる。いつもは三十分くらい浸かっているけれど、今日に至っては十分程度で頭がくらくらとしてきてしまった。彼女も同じだったようで、同時にお風呂を上がった。


 ごわごわとした、知らないにおいのするバスタオルで身体を拭いて、それから寝間着に着替えようとすると、突然比奈は人差し指を「ちっちっち」と言いながら演じるように振る。バスタオルを一枚身体に巻くと、私にもそうさせた。ぽかぽかとした暑さを感じながらそうして脱衣所を抜けると、彼女は台所の冷蔵庫の方へと歩いていき、ポッキンアイスを取り出す。真っ二つに折ったそれを私のほうに差し出すと、扇風機には首を振らせた。


 この時の贅沢なまでの涼しさを、私は人生で一度も味わったことがなかった。夏本番のじめったい夜に駆け抜けるにしては、あまりに清涼だった。言葉を失う。家でやったらきっと父か母に怪訝な目で見つめられるだろう。でも、お風呂上がりに、こんな贅沢があるなんて。二つに分けたアイスが無くなる頃には、火照ったからだは冷めつつあった。


 テレビを見て、見ながら話をして、おやつを食べて、トランプをして、とにかく、もう何をしたかも思い出せないくらいの時間を過ごした。誰かとこんな夜に遊ぶなんて、記憶も薄れるくらいの昔が最後だった。夜も更けて、布団に入りながら明日の計画を立てようということになり、私たちは同じ布団の中に潜り込んだ。


 布団はけしてふかふかではなかったけれど、虫の鳴き声や木の匂い、網戸から控えめに流れ込んでくる風が心地よくて、薄いタオルケットを肩までかぶって、私たちは見つめ合っていた。


「明日どうしよっか?」

「んーなんでもいいよ」

「そう言うと思ってた」


 結城比奈は声を偲ばせて笑うと、布団の中で手を握ってくる。近くにある彼女の顔に、私はなんと言ったらいいか、口の中に酸っぱいものを感じた。手から伝わる体温があまりに高くて、比奈は寝る前に体温が上がる人なのだと知る。


 比奈は、扇風機の音より静かな声で、私に語り掛ける。


「咲良ちゃんのお母さん、優しそうな人だね」


 それを言われて、私は黙り込んだ。急に話が変わったからではない。彼女の言ったことに対する「そんなことはない」という小さな反発心もあったけれど、今日見た母の顔に対して「こんなに優しい顔をするのか」と驚いていてもいたからだった。家ではいつも無表情で、あまり喋らない母の姿と、まるで似てはいなかった。


「お母さんと、あんまり仲はよくないの?」


 私は口を開いて、何かを言おうとしたけれど、やはり頭の中で散っている考えをまとめきれずにいた。


「よくないんでしょ」


 彼女は言う。その口調は別に責めるようなものでなく、彼女の中での確認の意味を持っているようだった。


「わかんない」


 私の言葉の続きを彼女が待っている気がして、言葉を繋ぐ。


「親子ってどういうものなのかわかんないし」


 布のこすれる音がした。


「私もわかんない」


 彼女は声色を変えずにそう言った。


 そうだった。彼女の両親を、私は写真でしか見ていない。今日だって、夜になれば挨拶しなければと考えていたけれど、ついにおばあちゃんと比奈以外と顔を合わせることはなかった。


 全員が幸せそうな表情で写る一枚の写真、その写真に写っている彼女の両親を、私は今日、見ていないのだ。どこか遠いところで働いているのかもしれないし、すでにもう、二度と抱きしめてもらえる場所にはいないのかもしれない。どちらかは分からない。けれど成長した彼女が写っている写真の横には、おばあちゃんしかいなかったのは覚えている。


「でも想像はできる。きっと優しいものだよ、それって」


 彼女が考えた、彼女なりの答えなのだろう。けれど彼女の答えを聞いても、それは私の答えにはなり得なかった。


 好きでも嫌いでもない。優しくも優しくなくもない。私にはなんの感慨もないのだ。ご両親に感謝しましょうと、当然のように学校では教わるけれど、なにをどう感謝すべきか私は知らなかった。たしかに、お母さんやお父さんがいなかったら生きてはいけないだろう。私が今着ている服も買ってもらったものだし、料理だって作ってもらっているから、感謝しなければならないのはわかっている。わかっているし、きっとどこかでありがたく思っている。ただ、けれど、他の子のようには振る舞えなかった。とは言ったって、クラスメイトのことなら別に「興味がない」で方付けられてしまうけど、親のこととなるとそうもいかないから難儀する。これから、私が一人で生きていけるようになるまで、あるいは誰かと生きていくことになるまで、お世話になるのは確かで、そんな、人生にとって欠かせない人たちが、「私のことをどう思っているのか」とか「私は生まれてきて良かったのか」とか、とにかく数え切れないほどの、というよりも、何が不安なのかももう考えきれないくらいの感覚に沈んでいると、息苦しくて仕方がなくなる。


「ねえ、比奈ちゃん?」

「うん?」

「私、お母さんたちと仲良くしなきゃいけない? 私、お姉ちゃんが遠くに行ってしまってから、家が好きじゃなくなったの」


 十歳も歳が離れている姉が家を出て行ったのは、二年前くらいだと思う。姉は活発な性格で――そう、比奈に少し似ている。だから姉がいた時の食卓は、今の気が狂いそうな静寂などなかった。内気な私にさえ遠慮せずに話しかけてきて、遊んでくれて いた。忙しい両親に代わって、お姉ちゃんが身の回りの世話をしてくれた。けれど大学に進学するといって、遠くへ行ってしまった。行かないで行かないでと何度も泣きわめいたけれど、そんなわがままが通じるはずもなかった。


 忙しいのか、姉はあまり帰ってこない。連絡もあまり寄越さない。以前はなんでも姉がやってくれた。私の身の回りの世話は、ほとんど姉の役割だった。私は姉に育てられたと言ったって過言じゃない。だから姉が出て行く前に両親がしてくれたことを思い出そうとしても、なかなか出てこない。姉のいない食卓で話すこともない。両親という存在は私にとって、関係があるだけの他人としか思えなかった。


「咲良ちゃんは、私と仲良くしなきゃいけないと思って、私と遊んでくれてる?」

「ちがう」

「無理をする必要って、何事にもないと思うんだ私。でも私は咲良ちゃんに、幸せになって欲しいから、お母さんたちと仲良くするのがいいと思ったならそうして欲しい。まだ難しいならそうしなくていいし、一生無理だっていうなら一生しなくていいと思う。家が辛くなったらまた泊まりにおいでよ」

「そうじゃなくても来ていい?」

「来て」

「うん」


 話しながら、ほっとして、いつの間にか目を閉じていた。今の会話はきっと、両親のことに対する解決にはならない。不安も拭えていない。でも楽になった。お姉ちゃんに代わる、心の拠り所を見つけたからだと思う。

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