第5話



 玄関の脇に黒電話は置かれていて、その前に、私は立っていた。横には比奈が立っている。私は緊張で強く跳ねる心臓を落ち着けることと、乾いてしまう口の中を湿らせることに忙しかった。その様子を横で彼女が見ているのが分かっていた。


 使い方が分からなかった黒電話で、家の電話へと掛ける。コール音が二回だけ、耳元で低く鳴ると、お母さんの声がすぐに聞こえてきた。


「はい、水橋です」落ち着いた声、緊張しているのは私だけ。絶句する。ただ母親に電話するだけで、私はこんなになってしまうのか。いや、そういう人間なのだ。クラスメイトとも仲良くなれないし、先生にだって相手にされない。お父さんにもお母さんにも好かれなくて、私は比奈に助けて貰わなければ、きっとずっと一人だった。私が持っているのって――「……もしもし?」

「あっ、えと」


 びっくりして思わず受話器を握りしめてしまう。


「咲良?」

「…………」

「どこから掛けているの?」


 普段あまり聞かないからか、受話器越しだからか、お母さんの声はまるで知らない声に聞こえる。唇を噛む。泊まるってただ言うだけ。なのに、肺が握り潰したみたいに痛い。


「えっと、友達の」

「友達?」


 しどろもどろになっている私の顔を、彼女が下から覗き込んでくる。心配そうで、不思議そうな顔、彼女にとってはきっと、両親とまともに喋ることができないということがよく分からないに違いない。


 おかしなことなのはよくわかってる。私がよく知っている。他の家庭のことはよく知らない、でも、普通はこうじゃない。馬鹿らしい。馬鹿らしいと思ったら、なにか躍起になった。家に帰るよりはここにいたほうがいい、それを言うのだ。


「今日、友達の家に泊まりたい」


 小さなノイズ音が右耳の横で流れている。数秒の沈黙のあと、「何処の家?」と聞いてくる。


「家の、近く」

「住所は? ……分からないのならそちらの家の方に変わって」


 私は隣にいる彼女をちらと見る。彼女は首を傾げ、母に言われた旨をそのまま伝えると、とたとたと駆けておばあちゃんを呼んできた。おばあちゃんに受話器を渡し、私と比奈でその様子を後ろからじっと見つめる。授業で当てられた時みたい。変に鼓動が鳴って、隣にいる彼女の手を握りたくなる。もしかしたら何か理由をつけて、母は私に駄目と言うかもしれない。相槌を打つようなおばあちゃんの声が遠くに聞こえる。せっかくプリンを作ってもらえるのに、せっかくお泊りできるのに……。視界がじわりと歪む。ふと、比奈がこっちを向いたのが分かった。彼女は私が求めるように、何も言わずにいてくれた。やがて受話器を置く音が聞こえて、はっと顔を上げる。おばあちゃんは変わらず優しい表情だった。


「咲良ちゃん、あとでお母さんが来るみたいだから、荷物をまとめておいてね」


 けれど、それだけ言い残し、外へと出かけていってしまう。日が傾く。ずっと夜が来なければ、ずっとここにいられるのに。


 * * * * *


 なんでわざわざ来るのだろう。荷物をまとめながら、そう考えた。別に、だめなら歩いて帰るのに。それとも、私が勝手に泊まってしまうと思って、逃がさないように迎えに来るのだろうか。信用もないんだ、うちには。ため息が出た。あるいは、何かお婆ちゃんや、比奈に文句を言うのだろうか。理由が分からないから、お腹の奥のあたりが、ぎゅっと締め付けられるような感じがする。比奈は、私を気遣ってか笑顔を浮かべてくれてはいるけれど、どことなく落ち込んでいるのが伺えた。泊まっちゃダメなんて、普通言われないのかもしれない。




 ――しかし、暗くなっても母は姿を現さなかった。電話したのは大体十七時頃で、今はもう十九時を回っている。お婆ちゃんはとっくに帰ってきて食卓で夕飯を作っていて、私と比奈はいつでも止められるからといって続けていたトランプに飽き始めて、お互い夏休みに出された宿題をやり始めていた。宿題にも一休憩入れようとした時になって、呼び鈴が鳴らされた。


 私は彼女と目を見合わせ、宿題やら筆箱を片付けながら、ごめんねと視線だけで言った。彼女はまた何も言わず、私のランドセルを持つと、玄関まで付いてきてくれる。玄関では既に母とおばあちゃんが何かを話していて、そこに嫌悪な雰囲気はなかったけれど、私は居心地が悪くなる。よく見ると母は会社に行く時のような格好で、おばあちゃんに対して何度も頭を下げている。どうやら、文句を言いに来たのではなくて、私が迷惑をかけたことを謝りに来たのだ。私は黙りこくって玄関に向かい、何かおばあちゃんと話す母の横で、靴を履き始める。


「……咲良、帰るの?」


 見上げると、母が怪訝そうな顔で私がそれを見ていた。反射的に、というよりは反発的に「迎えに来たんでしょ」とぶっきらぼうに答える。もうどうにでもなれ、と思っていた。しかし、辺りが静まり返ったあとに、おばあちゃんの大きな笑い声が聞こえて、しわくちゃの手で私の頭を撫でた。


「ごめんね、言葉足らずだったね。お母さん、荷物持ってきてくれたんだよ」


 言われて、ようやく飲み込めた。母は何も私を連れ戻しに来たわけではなくて、学校の荷物を連れ戻しに来たのだ。そして、私が一泊する用の荷物を連れてきてくれた。勘違いしていた私はすっかり恥ずかしくなって、同じように勘違いしていた彼女は、けれど、嬉しそうに笑っていた。


「咲良、ご迷惑をおかけしないように」


 私の荷物を受け取ったお母さんが、強い口調で言う。私が頷くと表情を緩めて、おばあちゃんと比奈の方へ向き直る。


「どうかよろしくお願いします」

「お母さんもまたいらしてください」


 おばあちゃんがそう言うと、お母さんは、見たこともないような優しい顔をして、深々とお辞儀をして帰っていった。その、私にも向けたことのない表情に戸惑いながら、母の背中を見送る。その後で彼女が「優しそうなお母さんだね」と言ったのには、どう返したらいいのか分からなかった。


「さ、夕飯にしましょう」


 その合図で、空腹感が大きくなった。

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