第3話

 とある日の帰り道、学校を終えて共に帰路についた私と結城比奈は、赤いランドセルを背負い、汗と疲れを滲ませながら二人で、17時近くになるのに、まだ明るい空の下を歩いていた。西陽が比奈の白い頬を照る。しばらく無言で歩いて、私の家の近くに差し掛かったところで、彼女は唐突に声を弾ませて言った。


「明後日から夏休みかあ。終業式って、私好きだなあ」

「どうして?」

「うーん。分かんないけど。あっ! ねえ、明日学校にさ、百円持っていこう」

「……百円?」

「うんっ」


 彼女は髪を揺らして頷いて、私は首を傾げた。普段、学校にお金を持っていくことはない。禁止されているし、何より持っていっても使うことがないからだ。


「お金、持ってなかったりする? ないなら私が咲良ちゃんの分も持っていくけど」


 私は素早く首を振って「あるから大丈夫」と彼女を諌めた。


 私はいつの間にか、彼女に対して敬語を使わなくなっていた。彼女が「敬語でなくてもいい」と初めて言ったときには遠慮したけれど、話し方も、態度も、いつからか自然に振る舞えるようになっている。彼女といることに慣れ始めてはいるのかもしれなかった。


「じゃあ決まり! 明日百円持ってきてね、ばいばい!」


 そう言うと彼女は手を振りながら走り去っていく、私は少し呆然としてその場に立ち尽くし、いつのまにやら自宅の前にいることに気がついた。




 その日、私はいつも通りの食卓で食事をし、宿題をして、お風呂に入って、百円硬貨をお財布から取り出してランドセルの奥の方に仕舞い、夜寝るときもランドセルの中に百円硬貨が入っているかを確認して、ベッドの上で豆電球を見つめながら彼女のことと百円硬貨のことを考えていたし、朝起き、学校に行くとき、彼女に「百円持ってきた?」と問われ、頷いて、じゃあ放課後に、と自分の教室へ向かう彼女の背中を見つめて、またなんのための百円なんだろうと考えて、ホームルームでも、終業式中も、帰りの挨拶のときも、頭の中でぐるぐると百円玉が転がり続けていた。たかが百円玉に、どれだけ自分はかき乱されてるの! 少しおかしくなって、先生が解散の合図をしたら、私はほとんど飛び出すようにして教室を出た。


 いつも一緒になるのは校門前で、今日の私は先に到着した。明日から夏休みという今日は、いつもより少し早い下校で、陽はまだ傾いていない。じりじりと太陽が肌に直射する。上を見上げると、汗ばんだ額に前髪が張り付いた。


 彼女を待つ。結城比奈を待つ。ランドセルに入っている百円玉のことを気にしながら、学校から出ていく生徒の顔ひとりひとりを見て、彼女じゃない、彼女じゃない、と何人も見送って、そうして待つ。彼女は、少し遅れてやってきた。


「おまたせ!」


 私が返事をする間もなく、彼女は私の手を取って歩き出す。その足取りは少しだけ浮ついていて、何も私だけが放課後を楽しみにしていたわけじゃないんだとわかった。いつもと同じ方向、二人の家がある方向に歩いて行く。じりじりと照りつける太陽が、背中に汗を滲ませた。大きく降り注ぐ蝉しぐれを聞き流しながら、私達は髪の毛を揺らしている。


 しばらく行くと、彼女は道を逸れて細い路地に入った。もともと、私達の家がある方角に帰る子は少ないけれど、この路地に入ってからは全く他の生徒の姿が見えなくなる。民家の石垣の隙間。石垣からはみ出る木々の下。夏の喧騒から少し離れて湿った木陰。その中を、少しだけ早足で歩いて行く。出た先は広い道だったけれど、車が走っているわけでもなかった。人通りはなお少ないままで、その道路を小走りで横断すると、彼女はおもむろに木組みの家の扉を開いた。


「ちょ、ちょっと」と私は慌てて彼女の手を引くが、彼女は意味深な微笑みを浮かべて私を中に引き入れる。外からは一見ただの民家に見えたそこは、中に入ってみればそうではないことがすぐに分かった。駄菓子屋だったのだ。百円の意味が分かって、私はほっとした。


「おばあちゃーん」


 彼女が呼びかけると、奥の暖簾からゆっくりとお年寄りの女性は姿を現せた。髪は白く染まり、顔には皺がいっぱいできていて、目尻に寄る皺が可愛らしく印象的だった。結城比奈の姿を見るなりお婆ちゃんはにっこりと笑い「よく来たね」と彼女の頭を撫でた。私もぺこりと合図すると、お婆ちゃんはまだにこにこと笑いながら「いらっしゃいね」と言う。


 彼女がアイスを買ったので、私もそうすることにした。駄菓子屋さんの外にあったベンチに二人で腰掛けて、冷たいアイスを小さく齧る。ひんやりとした感覚が口の中で広がって、そのまま溶けて消えてしまう。夏の暑さと自分の境界が、段々と曖昧になっていく。彼女は足を揺らしてにこにこしながらアイスを頬張っていた。その様子を見て、私の表情も少し綻ぶ。


「ここはね」アイスを半分まで食べた彼女が口を開く。「あんまりうちの学校の子が来ないし、お婆ちゃん優しいし、いいところなんだ」


 私は頷く。


「うん、ほんとうに」


 車も通らない、人もあまり通らない。静かな昼下がりだった。屋根の影で涼みながら、甘くて冷たいアイスを食べる。横には結城比奈がいて、肩が少しだけ触れ合いながら、時間がゆっくりと流れていく。


「明日から夏休みだね」


 ついにアイスを食べ終わる。明日から夏休み。明日も遠く思えるような時間だった。彼女はすでに食べ終わって、木の棒を口に咥えていた。その棒に「あたり」の文字が付いているのに気がつくのはいつだろうか。


「咲良ちゃんに会えないの寂しくなっちゃうなあ」


 そう言われて少しうつむく。寂しいのはそう、私もだけれど。


「ほんとにそう思う? でも、比奈ちゃんには他にも友達いるんだから、寂しいことはないんじゃないの?」


 うーん、と彼女は口に咥えた木の棒をつまんで、それを見た。


「あ、あたり! えーとね、なんていうのかな。うまくいえないや。咲良ちゃんは咲良ちゃん。そういうこと」

「あー」


 ……なんとなく、分からないでもない?

 でもそうなんだ。夏休みという長い期間、私は彼女と通学路で会うことも、一緒に帰路につくこともなくなってしまうんだ。彼女が寂しいと言ってくれたことはとても嬉しかったけれど、じゃあきっと遊ぼうとなってくれないのが、私の表情をしかめさせた。きっと遊びの予定がたくさんあるのだろう。彼女は人気者で、友達も多いから。


 私の心がずんと沈み、少しだけ陽射しが強くなった気がした。永遠に続くと思われた一学期最後の日も、きっと終わってしまう。しかし、結論から言えば、それは思いすごしだった。彼女は突然目を見開いて私に振り向くと、「明日も遊べる?」と顔を輝かせて聞いてきたのだから。


「うん」私は素っ気なく答えたけれど、心はこれ以上なく弾んでいた。あまり興奮しているのを知られたくなかったから、アイスでも齧ってなんでもないふりをしようと思ったけれど、アイスはとっくに食べ終わっていたから、ただ顔を俯かせることしかできなかった。夕陽も出ていないのに、顔が赤らむのを感じる。


 彼女は横で笑うと、「今からはどうする?」と話を変えた。悩ましい問題。何をして遊ぶのか、何処へ行くのか。こういうとき、大人なら車で適当にドライブをしたり、電車に乗ってもっと色々遊ぶものがある都会へ行ったりするのだろうけれど、まだ子供の私たちには、そういった足の運びの軽さはない。何週間も前から計画を立ててようやく、というものだというのは、クラスの子達の話を聞いて知っている。


 心の中で頭を抱えていると、彼女が隣で控えめに言う。


「ねえ、あのさ」

「うん?」

「咲良ちゃんの家、行ってもいい?」

「え?」


 突然の提案に私はたじろぐ。私の家? ……時刻的に、両親はまだ帰ってきていないだろうけど、だったら、彼女を家に呼んだって問題ないのかな。ううん、そもそも両親がいたって、彼女を家に呼ぶことに問題はないのだ。けど、今まで家に友人を連れて行ったことがないので、何を言われるかまったく分からなかった。


「私の家、なにもないから……」


 適当な理由をつけて、彼女の提案をそっと断る。比奈は少し残念そうにしたが、次の瞬間にはいつもどおりに戻っていた。それから、うーんと首をひねった彼女は、今度は「じゃあうちにくる?」と少し提案するのだった。


 行きたい。行ってみたい。


 でも食い気味に言うのは憚られたので、「迷惑じゃなければ……」と他人行儀に賛成した。

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