第2話
「ただいま」
家に帰った途端、なんてくすんだ場所なのだろうと思った。父も母も一足先に夕食を食べていて、帰ってきた私を一瞥すると、お父さんは「遅かったな」と声をかけてはくれたけれど、それきり、テレビでニュース番組を眺めて何も言わなくなる。お母さんは黙って私の分のご飯をよそって、おかずとともに食卓に出してくれるけど、かけてくれる言葉は何一つなかった。
「ランドセル、先に置いてくる」
私はそう言って、自室に逃げ込む。小奇麗で私には少し持て余すほどの広さがある部屋。隣の空き部屋の静けさが、前髪の鬱陶しさを思い出させる。
両親は共働きで、どんな仕事をしているのか詳しくは知らないけれど、平均的な家庭の収入の何倍は稼いでいる。おかげで、食事も部屋にも困ってはいない。
でも。私は思う。私が欲しい物は、と。思うのだ。小奇麗で広い部屋より、たくさんの色鮮やかな食事よりも、流行りの玩具や、流行りの小説よりも、もっと欲しいものがたくさんある。その中でも、自分でもおかしいと思うけれど、今日、私の帰りが遅かったことで、叱ってくれる母の姿が私は欲しかった。どんな理由でもよかった。夕飯に遅れたことでも、何か事件に巻き込まれたらどうするのかという言われ方でも、なんでもいい。もっと私の何かに気をかけてくれたらそれで、それだけでいいのに。欲しいと思うのはおかしいかもしれない。それを嫌がる子のほうが多いはずなのだから。父は、昔から口数が少なかったけれど、少なくとも母は、そういう小言の多い人だった。いつから、私たちは、煤けてしまったのだろう。
ランドセルを床に置き、ご飯が冷めてしまってはいけないと足早に食卓へ戻る。お父さんは
「冷めないうちに食べろよ」と声をかけてくれたが、母はやはりそうではなかった。無表情で、無言でいる。私はお父さんに頷いて、黙って席に着いた。
そこからの会話は一切なかった。重苦しく、叫びでもしたら部屋にある何もかもが割れて壊れてしまいそうな静寂。口に入れるものに味はなく、なんの感慨もなかった。
* * * * *
喧しい目覚ましで起きた翌朝、両親はすでに仕事に出ているので、私一人で朝食を適当に済ませる。昨晩のうちに準備してあったランドセルを背負い、家を出て鍵をかけた。
よく晴れている日で、文句のつけようもない空模様だったけれど、いささか私には眩しい。でも今日は、そんな太陽だけが眩しいのではなかった。歩き出そうとした時、突然後ろから肩を叩かれて、私はびくりと体を跳ねさせる。こわごわと振り向くと、後ろには彼女――結城比奈が立っていた。
ご飯を貰った仔猫みたいな表情、うきうきと体を跳ねさせるような身のこなし、その彼女の姿が、なにより輝かしかった。無感情で灰色な私の心に、なにか――そう、きらきらとした、形容しがたい物を置いていくような。
「おはよ!」
無鉄砲で無遠慮な花だった。鮮やかな彼女の様相は、朝から鬱陶しいほど私の心に染み渡ってくる。
「お、おはようございます」
「なんだ、かたいなあ。通学路、一緒だったんだね」
肩を並べて歩き出す彼女、少しだけ離れて歩こうとしても、彼女はその分間合いを詰めてきた。コミュニケーションの不文律。私が苦手なことだった。いつの間に一緒に登校することになったの? どう振舞ったらいいの? 時折私の方をちらっと見てきて、思わず目が合うと、にこっと笑う。
「あそこ、君の家なんだね」
「……はい」
「ずっと大きい家だなって思って見てたから、君が出てきてびっくりしちゃった」
「……あんな家、別に、良いことない」
彼女は私の方をじっと見て、視線をすっと前にやった。きっと私と歩いていてもつまらないだろう。面白い話ができないし、面白い話もつまらない話にしてしまう。会話をなんとか繋げるために、あなたの家はどんな家なのですかと聞こうと思ったけれど。『あなた』なのか『結城さん』なのか『比奈さん』なのか。なんて呼べばいいのかが分からなくて、結局私は何も言わなかった。
「そういえばあたし、君の名前を知らない」
「……咲良。水橋咲良」
「咲良ちゃん! かわいい名前。水橋咲良かあ……」
彼女は何度も私の名前を、噛み砕くように反芻して、時折ふむふむと頷いていた。なに? と思って見ていると、手のひらを大きな音立てて叩いて、私の顔を指さした。
「水橋咲良、なんだか小さな川をお花が流れていきそうな名前! 音とか、名前とか!」
目、大きい。楽しそうにそう言った彼女の顔を、まじまじと見つめてしまう。心臓が跳ねて、少し息をするのが難しくなった。でも、窒息するような心地じゃなかった。うつ伏せの羽毛枕。
小さな川を、お花が流れていくような。
結城比奈は? どんな名前だろう。私の花が水流に揺らされて流れていくような非力なものならば、彼女は広い草原で強く根を張って風に揺らされる、きっととても明るい色をしたお花だ。名前とか、彼女そのものとか。
* * * * *
公園で、なんの因縁で出会ったのか分からない結城比奈という彼女とは、その通学路をきっかけにして、少しずつ話すようになった。でもとりわけ関係が進展したとかそういうようなことはない。通学路でほとんど毎日一緒になって、学校で目が合えば微笑みかけてくれて、時には、話しかけてくれて、私は少しずつ彼女と話すことができるようになっただけ。周りにいつも友達がいて、きっと人気者である彼女の、笑顔で話す横顔を目にすると、私はふと目を細めてしまうようになっていた。誰にとっても美しい。誰にとっても可愛くて、心地良い。
私は少しずつ、前を向いて生きてみようと思うようになった。そうするといろんなものが見えるようになった。それはけしていいものばかりではなかったし、躓いてしまうことも増えた気がするけど、否定したい生き方では、まったくなかった。
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