第1話

 からすが電線に集まる時間。闇を穏やかに覆う橙色の空、雲はそれに調和して宙を泳いでいる。


 私は公園のブランコに座っていた。家に帰りたくなかったから。ランドセルを横の地面に置いて、漕ぐわけでもなく、ブランコに座っている。もう帰らなければ怒られてしまう時間。でも、やっぱり帰りたくなかった。きいっと、ブランコの鎖が悲しげに鳴く。


 家に帰っても、私のやることはお勉強だけ。父も母も、それだけを私に押し付ける。それだけしていればいい、それ以外のことはしなくていい。遊びに行く暇があれば勉強をしなさい、どうせ、それしかしないのだから――。おかげで、私のテストでの点数はよかった。授業中に発表をしたりしないし、『協調性、B』だから、成績はあまり良くないけれど、両親は点数さえ良ければ満足のようだった。今日だって、家に帰れば勉強が待っている。いや、嫌いなことではない。点数が上がるのは嬉しい。でも私は勉強をするしかできないの、本当に? 当たり前のことに反発する気持ちが、この頃はよく顕著になってきていた。


 黄土色の地面、目を凝らさなければ見えないような、小さな砂利が転がっている。足でそれを轢いた。


「あーっ! ブランコ取られてる!」


 唐突に後ろから声がした。数人が「えー」と不満の声を出すのが聞こえて、振り向かなくてもそれが誰なのか分かったので、私は身を縮こまらせた。クラスの男子だ。帰りたくはないけど、仕方ない。そう思って立ち上がろうとしたけれど、そうした途端に周りを囲まれてしまって、どくにどけなくなってしまった。三人のクラスメイトが私を囲んでいる。私は俯いて彼らの顔を見ようとしないから、どんないじわるな顔をしているのかが分からなかった。


「水橋じゃん。そこどけよ」


 彼らが私にどけよというので立ち上がろうとしたら、座っているブランコの板を後ろから思い切り蹴られて、ぐらんと世界が揺れる。唇をぐっと噛んで、堪える。こういう人間はどうしようもない。どうすることもできない。鎖がじゃらじゃらと音を立てて、それが静まるまで彼らは意地の悪い笑い声で、私を嘲笑する。


「おい、無視してんじゃねえぞ」


 ブランコの鎖が掴まれて、ぐらぐらと揺らされる。何の反応も示さない私に苛立ちが募ったのか、段々と彼らの声が荒々しくなる。耳が聞こえることが恨めしい。彼らの罵声雑言が、そのまま耳に入ってくるのが気持ち悪い。何言われたってそれで死ぬことはない。そう思って耐えようとしても、けれど、何か荒んでいく感覚が身を襲っていた。


 舌を打つ音が聞こえて、足音が離れていく。ようやく飽きてくれたのだと思って、心のなかで胸をなでおろす。そのままどこかに行ってくれたら、さっさと帰ってしまおう。


「あっ、おい! 水橋、前!」


 不意に緊張が走った。緊迫した声で彼らの内の一人が叫んだからだ。私は思わず顔を上げた。車でも突っ込んできたのかと思った。彼らはそれを教えてくれたのだと、そう思った。けれど違った。顔を上げた私の目に、飛び込んできたのは車ではなく砂だった。


 視界が瞬く間に歪んで、目薬を差した時なんかよりもずっと強く目が滲みた。ものすごく痛くて、何度も目を擦った。男子の笑い声が響く。黒板を爪で掻くような痛みだ。胸に感じるのはそういう痛み。痛覚さえ無ければと思った。なぜ言葉は痛いのだろう。高い笑い声はからすの鳴き声をもかき消して、私の耳朶を刺激する。目の端から涙が溢れる。この涙で砂が流れてくれれば、それでいい。


「ちょっと、なにしてんの?」


 声が聞こえたのは、その時だった。


「なんだお前!」

「今あんた、何した」


 目を開こうとしてもうまくいかなくて、誰が彼らを怒っているのかが分からない。もどかしくなって目を擦っても、特に意味はなかった。


「同じこと、してやろうか!」

「うわっ、この女やべえぞ!」


 しばらく呻いて、ようやく目を開いて、そして見た光景は、ランドセルを背負った私と同じくらいの歳の女の子が、砂を掴んで男子たちを追い回しているところだった。その光景にただ唖然とした。視界が歪んだ涙で眩しい。痛みで頭痛と輝きを感じた。


 少し背が高いから、年上なのかもしれない。地面の砂を掴み、彼らを追いかけようとする彼女は、あの意地悪な男の子たちよりも、ずっと強かに見えた。クラスの男子が散って、どこかへ走り去っていく。それを目で追った、女の子は手に握った砂を地面に投げ捨てて、両手で手に残った砂を払った。腰に手を当てて怒ったようにため息をつくと、次には私の方へ向かってくる。


「目は? 大丈夫?」


 前にしゃがんで、顔を覗き込んでくる。今の私はきっと砂と涙とで顔が汚いかもしれないから、ついとそっぽを向いて視線から逃れる。なのに、次の瞬間には手首を掴まれ無理やり引っ張られる。私はよろけながら、まだ少しだけ滲みる目を、空いた左手でこすった。


「こすっちゃだめ。ここで洗って」


 少し強い口調で言われてたじろぐ。左手を下ろし、いつの間にか連れてこられた水道の前に立ち尽くす。彼女は蛇口をひねって、水を出した。


「ほら、はやく」


 手の砂と涙を、流水で洗う。水を両手で掬って、目をそこにつける。その間、ずっとこの人は何なんだろうと考えていた。流水が跳ねる音とか、水につけた目が少し滲みることとか、その人の息遣いとかを感じながら。


 手のひらで水滴を拭って、蛇口を捻る。水が止まって、辺りは静かになった。からすが一度だけ鳴く。今日聞いたカラスの声はこれで最後だった。


「もう大丈夫?」


 私は頷く。濡れた前髪から一粒の水滴が落ちた。目はもうなんともない。洟をすすって、彼女がまだ隣にいることを確認すると、少し居心地が悪くなった。助けてもらったことには感謝しているけれど、今ここで彼らを追い払ったところで、明日も明後日も、出くわす度にどこで覚えたかも分からない汚い言葉を投げてくることには変わりはない。今日のことで、それが増長するかもしれないのだから。


「なんであなたは――」

「あの、もう――」


 声が重なってしまって、私は押し黙る。少しだけ屈んで私の顔を眉を寄せて覗きこむ彼女を見てしまう。負けたのは私だ。


「なんであなたは、やられるがままなの?」

「私が悪いから、やられても……仕方ないの」

「君が? あなたが何かをしていたようには見えなかった」

「……無視、してたから」

「……それで砂を投げられるのはおかしい。ねえ」彼女の両手で私の両肩が掴まれる。「あなただっておかしいと思うでしょう」


 教師が叱るときにするような声音だった。俯いた顔を上げて彼女の目を見ると、彼女は私よりもずっと真剣に私の目を見ていた。茶色の双眸、長いまつげ、写真で切り取ったような端正な顔立ち。私の目は彼女の瞳を掴んで話さなくなってしまう。


「クラスでもあんな様子?」


 私はふるふると首を横に振る。


「普段は、その、構われることが少ない……から。たまに、ああやって……」

「…………」


 彼女もまた私の目を見ていた。じっと。

 その時彼女の心に何が芽生えたのか、私には全く分からなかった。ただその瞳は何かの決心に固められていて、ただ圧倒されたことだけを覚えている。ごく小さな圧倒だった。猫に見られた鼠、とかではない、大海に乗り出した船の、そういう瞬間の。


 彼女は私の肩から手を離す。その瞬間ひどく、いたく心細い気持ちになって、自分で肩を抱いた。彼女が駆け出すと、私の感情は一層、枯れてしまうように萎れていって、ついには泣き出しそうになった。たったいま会った人に、私は何を求めているというのだろう。――どこかへ行ってしまう。いつかと同じように。


 そう思った。けれどそうではなかった。彼女は滑り台の階段を勢い良く駆け上がって、その上からちっぽけな私を見下ろした。そして大きく息を吸って、声を上げた。


「私が君を守るよ! 強くならなきゃ! 自分の力で、なんとかしなきゃ、何も変わらないから。私が背中を押すから、君はその力で走るの。いい? 今日から君は、私の弟子だよ」


 顔を上げて、顔を見る。夕陽は沈もうとしているのに、お昼の白い太陽みたいな笑顔だった。その表情も、また夕陽に煌めくポニーテールも、私にはひどく眩しかった。でも、けれど、目を離すことはできないし、許されなかった。地面に深く叩きつけられた杭のように、私の視線は彼女に釘付けにされた。突拍子のない言葉さえ、彼女が言えば何も間違っていることなんてない。そんな想像さえしてしまえる。この方向に飛んでいけばいいと、風が教えてくれるようだった。私はまだ、この感情をなんというのか、なんと言葉で表せばいいのかを知らず。それが、慕情と呼ばれることさえ、まだ知らなかった。


 彼女はもう一度息を吸う。


「可愛い顔をもっとよく見せて。これからも前を向いて過ごして。下を向いてばかりじゃ、見えるものも見えないんだ」


 その日私は、彼女の弟子になった。それは型破りな関係だった。


 その後で、結城比奈と名乗った彼女の弟子に、私、水橋咲良はなったのだ。


 彼女は小学六年生で、私は小学五年生だった。

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