雪の魔法で
@ai-hanada-0226
短編小説 1話完結
このまま、何も成し遂げず、ただただ死んだように生きるのだろうか。誰かを愛すことも、守ることもなく、誰からも必要とされず、静かにこの世を去るのだろうか。
高校三年生の二月。大学受験のため、私は東北の祖母の家に泊まり込みで勉学に励んでいた。窓の外でしんしんと雪が降り積もっている。無限に広がるような田園風景は、ただただコピーアンドペーストしたみたいな真っ白を映していた。私はぼんやりとそれを眺めながら、昼下がりの和やかな時間を浪費していた。昨年の今頃は、暖かい汁粉の入った茶碗を片手にぬくぬくと過ごしていたのに、私が今握っているのは残念ながら手汗まみれのシャープペンシルだ。もっとも、握っているだけで、さっきから何も書いていない。全く勉強ははかどっていないのである。窓に映った自分が汁粉に入った焼き餅を美味そうに頬張っているように見えてきてしまったので、いよいよ疲れているのだなと感じてペンを放り投げた。実際の私は、勉強に追われてやつれた、ただの惨めな女である。私には、取り立てて言う程の友人も、ましてや恋人もいない。それらを作るには、私はあまりにも他人に興味がないからである。そういうわけで、私の受験勉強は、完全なる個人戦であった。切磋琢磨できる仲間が居れば、などとらしくないことを考えてしまったので、気分転換に外へ出かけることにした。ついでに、もういっそ神頼みにしてしまおうと、近所の鄙びた神社に合格祈願へ行くことにした。
扉を開けた途端にぴゅうっと頬を撫でる冷たい風。手入れの疎かな傷んだ髪の毛が鼻先をくすぐって、べくし、と下品なくしゃみをする。なるほど、こんなだから彼氏などできるはずがないなと納得してしまう。凍てつくような寒さに、出かけるのも億劫になってしまった。しかし、人の好い祖母が張り切って上着をたくさん用意してくれたのに、やっぱりやめますというのはなんだか申し訳なく、渋々歩みを進める。神社は歩いて数分程度の距離にあったが、何せ山奥にあるので、鳥居をくぐって境内にいたるまでの長い階段の洗礼を受けて、私はすっかり疲弊してしまった。やっとの思いで拝殿の前に着いて、作法もおざなりに合格祈願をしたところで、ざっと境内を見渡してみる。誰も手入れをしていないのであろう、鄙びたというより、廃れたという言葉の方が適切なようだ。罰当たりを恐れずに言うと、ほぼ廃墟だ。しかし、よく見ると奥の方に小さな祠があることに気づいた。そちらの方は、古くはあるもののこまめに掃除がされているようであった。誰がこんなところに参るのだろうかと考えていたところに、森の奥の方から、木々を分けるような、がさがさと葉が揺れる音が聞こえてきた。猿かな、猪かな、熊かもしれない。熊だったとしたら、家には帰れないだろう。まあ、その時は、熊の餌となって生きる糧となる運命だったのだと、諦めよう。どうせ死ぬならば、それも良いかもしれない。南無三。なんてことを考えながら、音の主が姿を現すのを待つ。現れたのは人間だった。
「なんだ、人間か。」
ほっとしたら声が出てしまった。そんな言葉は今までの人生において口にしたことがないので、一瞬自分が凄く阿呆のように感じた。声に気づいた彼女と目が合う。背丈と顔立ちから判断すると、私より少し年下くらいだろうか。白装束に身を包み、真っ白な髪の毛を尻まで伸ばしており、肌はくすみ一つない純白であった。凛とした瞳の漆黒がなければ背景の雪景色と見紛うほどに、すべてが真っ白な少女であった。浮世離れした美しさに見惚れていると、彼女の澄ました顔が青ざめた。
「に、人間……っ」
そんな言葉を掛けられたことはないので、彼女のことが無礼者のように思われた。しかし、彼女が腰を抜かしてその場にへたり込んでしまったので、それを諫めるのはひとまず後にすることにして、まずは彼女の身を案じることを優先した。
「大丈夫?」
私は彼女が立ち上がるのを手伝おうと、手を差し出した。すると彼女はその手を取ろうともしない。
「ひっ……!」
彼女は着物の袖で顔を隠してしまった。ここまで人に拒絶されたことはないので、さすがに傷ついた。どうやら私は恐れられているようだ。このまま恐ろしいものと思われ続けるのも癪なので、ひとまず彼女を落ち着かせることにした。
「落ち着いてよ。安心して、何もしないから。」
いたいけな少女を醜い男がかどわかすときの文句さながらのセリフが口をついてしまったのは、緊急事態で頭が混乱しているからだ。これを言う人間は大抵何かいかがわしいことをする心算である。これでは余計訝しく思われるではないかと、かける言葉を間違えたことを悔やんでいると、案外正解だったらしい。彼女は少し落ち着きを取り戻したようだった。呼吸が静かになっていく。
「大丈夫?とりあえず、立てる?」
手を差し出すが、やはり掴まってはくれない。彼女は一人で立ち上がって、着物についた雪を払った。いろいろと質問したいことがあったが、彼女と話をするには自分の素性を明らかにして、人畜無害な人間であることを認めてもらう必要があるようだ。
「私はカンナ。一七歳の女子高生。散歩してただけだよ。そんな怖がんないで」
彼女も一呼吸おいて、口を開く。
「取り乱してごめんなさい。人間を見たのは、初めてだったから」
よくわからない言葉に、呆けた顔をしていると、彼女は続ける。
「私は深雪。雪女よ」
*
「雪女、え……」
怪談版話でしか聞いたことのない言葉。未知との遭遇に、頭は全くついていかなかった。それを察してくれたようで、深雪と名乗る彼女は自己紹介をしてくれた。
どうやら、深雪は千年以上前からここに住んでいる雪女の末裔らしい。雪女の始祖である母親と、人間の父親の間に生まれたハーフだという。母親が死んでから、一人山奥でひっそりと暮らし、「神社の祠に祭ってある山神様にお参りすること」という言いつけを守ってここへ通っていたところで、私に出会ったのだという。彼女が淡々と話すので、自分でも驚くほどにすんなりと事態を飲み込めた。と言うよりは、人間はあまりにも信じがたいことが起きた時、疑うという無駄なエネルギーは惜しむように作られているのだなと感じた。それに、そんな嘘をついたところで誰も得をしない。私が納得した様子を見て、深雪はふっと笑う。
「疑ったり、怖がったりしないのね」
確かにそれが、普通の人間が本来とるべき対応なのかもしれない。しかし、それをするには、深雪があまりにも普通の少女のように可愛らしく笑うので、今更恐れおののいた演技をするのは難しかった。
「驚かせて本当にごめんなさい。それじゃあ」
深雪がくるりと背を向ける。絹のような白髪がはらりと揺れる。
「待って」
思わず引き留めていた。振り返って、小首をかしげる。何を言おうかなんて考えていなかったのに、私の口は案外臨機応変に動くようだった。
「また、会いに来てもいいかな」
深雪は一瞬、きょとんとしてから、私に向き直る。それから、整った顔を綻ばせて頷く。
「ええ、もちろんよ」
いつの間にか風は止んで、粉雪がちらちらと降っていた。柔らかく降り注いだ日の光が、雪の一粒一粒をきらきらと輝かせていた。
その日は家に帰ってから眠りにつくまで、ずっと夢見心地であった。祖母の作った温かい夕飯と、薪を燃やして沸かせた風呂でぽかぽかと温まってから、一切参考書に触れることなく布団に入った。あの煌めく粉雪のスクリーンと、不思議な少女の笑顔を思い出しては、胸の内がぽやぽやと温かくなるのを感じていた。未体験のくすぐったい心地を味わいながら、いつの間にか眠りについていた。
翌朝の目覚めは、ここ最近で一番爽やかだった。いつも夜遅くまで勉強していた疲れが溜まっていたのであろう。久しぶりに睡眠不足を解消できた。深雪は毎日同じ時間に神社に通っていると言っていたので、今日も昨日と同じくらいの昼下がりに勉強をやめた。祖母には、受験の日まで神社に通って合格祈願をするのだとか適当な嘘をついた。雪女の友達に会いに行くなど行ってしまったら、きっと心のお医者へ連れていかれるだろう。
例のごとく階段の洗礼を受けて、拝殿の方へ歩くと、奥の祠の前で目を閉じて、手を合わせている真っ白な少女を見つける。昨日の出来事は夢幻ではなかったのだと実感して、思わず息をのんだ。鼓動が早まるのを感じながら、声をかける。
「み、みゆ、き……ちゃん?」
「深雪でいいわよ。何その変な呼び方」
彼女は少し困ったように笑って、振り向いた。その顔を見たら、なんだか安堵してしまって、つられて笑った。
「私はいいから、先に山の神様に挨拶をしなさいよ。失礼しちゃうわ」
深雪がむっとして眉をひそめたので、形だけの我流参拝を済ませる。本当に、夢ではなかったのだなと感慨深く思いながら、拝殿の段差に腰掛ける。深雪も隣に座ってくれる。
「昨日はあんなに警戒してたのに、随分心を開くのが早いね?」
「それは初めて人間を見た驚きで……。カンナは私を心配してくれたでしょ。だから敵意はないんだなって、安心したのよ」
「そう?それならよかった。……だったら、何で、手握ってくれなかったの」
口をとがらせて、深雪を見つめる。
「ごめんなさいってば。それに、握ったら私、死んじゃうもの」
「……ん?」
他愛もない話をしていたはずなのに、急に物騒な言葉が出てきたので耳を疑った。
「人間に触れると死んでしまうらしいわ。母上が言ってたの。雪女は、普通に生きていたら不老不死なのだけど、人肌に触れたら溶けてしまうそうよ。雪みたいよね。」
雪が降るのを眺めながら、他人事みたいに話す様子を見るに、重々しい話にしたいわけではなくて、あくまで雪女の生態を説明しているだけのようだった。それからついでのように、「母上は人間の男と契ったから死んじゃった」と付け加えた。私は、へえ、と曖昧な返事をして、それ以上は踏み込まなかった。とりあえず、深雪に触れないように気を付けなければならないことはわかった。もう少し仲良くなったら、そのさらさらな髪の毛を触らせてもらおうと思っていたのに、残念だ。
そのあとは、祖母の家がどの辺りにあるかを話したり、彼女がどんな暮らしをしているかを聞いたりした。その間、深雪と一緒に景色を眺めたり、彼女を横目で見たりしていた。深雪は空に向けて指を立てている。雪の粒が、その先に舞い落ちる。いつまでも溶けずに指の先で留まり続ける。非現実的なその光景は、幻想的でいて美しい。ずっとそれを眺めて、受験生の身の上という現実から目を背けていたいと思うが、そういうわけにもいかないので、重い腰を上げた。三十分くらい座っていたので、尻が冷たい。
「深雪はお尻冷たくないのか」
「ええ、何かに触れて冷たいって感じたことはないわね。……母上が居なくなる少し前だから、七百年前くらいかしら。私がまだ幼かった頃……四百歳?人間でいう四歳くらいの時に、母上とここに通っていたのだけど、祠のろうそくに火が付いたままでね。触ろうとしたときは、母上にこっぴどく叱られたわ」
深雪が懐かしむように笑う。規模の大きい数字に少し戸惑ったものの、深雪の幼少期のエピソードを想像すると、どうでもよくなり、微笑ましく思った。
「お母さんと、仲良しだったんだね」
「ええ。私は、母上としか仲良くしたことがないのだもの」
「じゃあ、私は仲良し第二号?」
「ふふふっ、そうね」
二人して、くすくすと笑った。
「じゃあまた、明日ね」
「ええ、いつでも来てね」
胸の内がほっこりと温まるのを感じて、私は神社を後にした。
次の日も、私は神社へ行った。深雪も来ていて、お喋りに花を咲かせた。
「カンナの家族は、どんな方なの?」
「うーん、爺ちゃんと婆ちゃんのことは好きだよ。すごくお人好しで優しいし。爺ちゃんは、七十歳まで大学の先生やってて、頭良かったんだよ。昔の人が書いた手紙とか文書を読み解く研究をしてたんだって。ちょっと前に死んじゃったけどね。母さんは好きだけど、父さんは好きじゃない」
つま先で石をいじりながら話すと、深雪は親不孝を非難することもなく聞いてくる。
「あら、どうして?」
「父さんは亭主関白なんだよ。自分は頭良くなれなかったから、爺ちゃんに引け目を感じてるっぽくてさ。態度だけはデカくしてやろうって感じ?母さんの作った料理を平気でまずいって言うし、私をいい大学に行かせることにしか興味がないし、シシャモの頭は残すし。家は都会にあるから勉強の妨げになるものが多いとか言って、何もない田舎の婆ちゃんの家に左遷だよ?鬼だよね」
「ふふふっ!でも、そのおかげで私はカンナと会えたなら、私はお父様に感謝してるわ」
深雪は楽しそうに笑っている。なんだか一本取られたような心地になって、文句ありげに睨んでみたが、彼女は口に手を当てて可愛らしく笑うだけだった。
「わ、私の話はいいから、深雪の話聞かせてよ」
深雪は、そうねえと懐かしむように話し始める。
「私は、母上のお腹に十年くらいいたのよ!」
「十年も!」
「面白いでしょ。父上はその間に死んでしまったから、会ったことはないの。母上から聞いた話では、母上をとても大事に思っていたみたいよ。私にも会いたがっていたみたい」
「……なるほどなあ」
昔は今みたいに医学も薬学も発達していなかったため、人は案外容易に死んでしまっていた。子供を授かってたった十年の内に死んでしまっても、不思議ではない。それに、いつ、何が起きて死んでしまうか分からないのは、現代でも言えることだ。
「仕方のないことよね。母上は、父上に触れてから、少しずつ体が弱っていくのを感じるようになったらしいわ。私を一人残してこの世を去るのはやっぱり負い目を感じたみたいで、これを形見にって」
着物の懐から、淡い紫色の花が象られた髪飾りを取り出した。スミレに似ているが、見たことがない。スミレよりも花弁は細長くて鋭く、後ろに反り返っている。そのため、めしべとおしべの部分が露出して、お辞儀をしているように見える。上品で綺麗な花だ。
「これ、本物の花みたい。綺麗……」
「ふふ、本物だもの。その花は、摘み取られたままの姿をずっと保てるように、母上が凍らせたの。だから枯れることも、萎れることもないのよ」
「そ、そんなことできるんだ……」
「母上は雪女ですもの」
深雪は、ふんと誇らしげに鼻を鳴らした。
「なんで髪につけないのさ、似合うだろうに」
「大事な形見だもの。失くしたり、壊したりするのが怖くて」
苦笑いをしながら、大事そうに着物の懐へ納める。もう少し仲良くなったら、髪につけた姿を見せてもらおうと、静かに意気込む。どこからか、醤油のような香ばしい匂いが漂ってくる。夕飯の時間が近付いてきたようだ。ひんやりとする尻をはたいてから、深雪に別れを告げて、神社を後にした。
数日が経過し、勉強の息抜きがてらに深雪とお喋りをしに行くのが日常となってきた頃である。私は祖母と昼食を取っていた。勉強ははかどっているのか、根を詰めすぎていないかなど、いろいろと心配してくれる。
「大丈夫よ婆ちゃん。婆ちゃんのおいしいご飯のおかげで頑張れてるよ。」
「まあーあ、んだが?嬉しいだぁ」
祖母は胸の前で手を合わせて喜ぶ。可愛い婆ちゃんだなと思って微笑ましくなった。綺麗な姿勢で味噌汁をすする祖母に倣って、私も椀を傾ける。
「おめはん、小せえ頃はゆぎだるまさ作るんが上手だったが。もう作らねえのだが?」
何年前の話を、と味噌汁を吹き出しそうになりながらも、ぐっと飲み込んでから答える。
「あははっ、もう子供じゃないんだから。雪遊びなんてしないよう」
のんきに駄弁りながら、何事もなく昼食を終える。
勉強を再開したが、祖母があんなことを言ったので、どうにも外の雪が気になって身が入らなかった。あの白い物体が、なんだか楽しくて仕方がないようなものに見えてしまっていた。今日は夕方前になるのを待たずに、神社に行くことにした。子供じゃないんだから、なんて強がったことを言ってしまった手前、家の前で雪だるまを作る無邪気な姿を見られるのは恥ずかしいからだ。祖母に挨拶をしてから玄関の戸を開けると、相変わらずの銀世界が広がっている。最後に雪遊びなんかをしたのは、いつだろうか。いつもは憂鬱な長い階段をたったと駆け上がる。誰もいない廃れた境内が、今日は秘密基地のように見えた。
一人にやつきながら雪だるまの体の方をころころ転がしていたところに、
「なにやってるの?」
と深雪が変なものを見るような視線を投げかけてきたところで、いったん動きを止める。
「びっくりした、雪だるま作ってんの」
「ゆき、だるま?」
深雪は雪だるまを知らないようで、首をかしげた。
「そうだ、一緒に作ろうよ」
「え、えぇ?」
事態を飲み込めていない深雪に、半ば強引に作りかけの雪玉を渡して、転がすように指示をした。勝手がわかっていない深雪は、手惑いながら雪玉を転がしていた。私はその間に、身体の方を作った。それを、深雪が作った不格好な顔の方と合わせると、腰の高さくらいの雪だるまが出来上がった。木の枝や石で顔を作る。
「できたー!」
幼少期ぶりに作った雪だるまは、なんだかとてもちっぽけなように見えて、余計に可愛らしく感じた。毎年十二月に押し入れから出すクリスマスのツリーが、年々低くなっているように感じてしまう感覚と似ている。
「へえ、初めて見たわ。ふふ、なんだかかわいいのね」
深雪はずっと雪に囲まれて生きてきて、雪はあって当たり前の存在だったので、雪遊びをしたことはないのだという。初めて目にする雪だるまは、どうやら気に入ってくれたようだ。
「子供の頃よく雪遊びしてたんだよね。久々に童心に帰ろうかと思って。どう?なかなか楽しいもんでしょ」
身体についた雪を払いながら尋ねると、深雪は出来上がった雪だるまを見つめて、恍惚とした表情を浮かべていた。
「ええ。そうね……雪を楽しいものだと感じたのは、初めてかも知れないわ。人間って面白いことを考えるわね」
雪だるまの正面に座って、愛おしそうに眺めているので、そっとしておいた。周りにあった雪を少し集めて、葉っぱと赤い実を飾って小さな雪兎を作っていると、深雪がぴょこぴょこと駆け寄ってきてはしゃぐ。
「わぁ、兎だ!かわいい!」
爛々とした瞳で雪兎を手に乗せて、大事そうにしているのを見ると、この子がどこにでもいるような普通の少女に見える。兎を雪だるまの頭にのせてようとしている無邪気な姿が愛らしくて、つい頭をわしゃっと撫でたくなったが、ふと我に返って手を引っ込める。
「雪遊び、楽しんでくれてよかったよ」
「ええ!ありがとう、カンナ」
にこにことご機嫌に名前を呼ばれたので、嬉しくなって私も微笑んだ。雪遊びを教えただけなのにありがとうなんて言われてしまって、少しむずがゆい。逸らした目線の先で、鳥居の影が、長く伸びているのに気付く。夕焼け空のどこかで、烏が鳴く声も聞こえる。
「それじゃあ、私はそろそろ」
「あ。そうよね、もうそんな時間……」
深雪はしゅんとして眉をひそめて、名残惜しそうに、控えめに手を振った。
「あっは、そんな顔されたら行きにくいよ。また明日ね」
「ええ、待ってるわ」
ずっとここに留まっていたい思いをぐっと堪えて、境内から伸びる階段を、振り返らずに駆け下りた。
*
また明日、と言った私は、嘘つきとなった。風邪をひいて寝込んでしまい、神社には行かなかったのだ。屋内に引きこもってばかりいたのに、いきなり雪の中を外出するようになり、挙句昨日は年甲斐もなく雪遊びなんてしたのだから、当然と言えば当然の事態である。無論、連絡手段がないので深雪には伝わっていない。申し訳ないことをしたと思いつつ、祖母に心配をかけるわけにもいかないので、家で大人しく養生した。ただの風邪だったので、体調は三日で快方に向かった。勉強も再開せねばと思い、布団から這い出た。病み上がりの体では、やはり勉強ははかどらなかった。もっとも、いつもはかどっていないのは言うまでもない。いつもより早いくらいの時間に神社へ向かう。重い足取りで階段を上ると、いつもの場所に座ってぼんやりと空を見上げる深雪を見つけた。
「深雪っ」
駆け寄ると、驚いたように深雪が立ち上がる。
「ごめんね、風邪ひいちゃって家から出られなくて」
心配かけたよねとか、寂しい思いさせたよねとかを言おうとしたが、ふと深雪にとって私は心配に値する人間なのかとか、寂しい思いなんてしてないなんて言われたらとかを、ごちゃごちゃ考えてしまった。喉をぐっと掴まれたような感覚を覚えて言葉が出なかったので、曖昧に笑ってみせた。深雪もとぎまぎして、言葉を飲み込むようにしてから、口を開いた。
「体はもう、大丈夫なの?」
「うん」
「よかった、無理しないで」
それから私たちは、いつものように他愛ない話をした。風邪をひいたときは不思議なもので、いつもよりも感傷的になってしまうことや、その分祖母の作った玉子粥が一層温かくて美味しく感じるもので、彼女の優しさが身に沁みて感じられることなどを話した。それだけでよかった。深雪と他愛ない話ができることが幸せなのだから。今まで誰にも関心を持たなかった私は、初めて誰かのことを思って心にもやを抱えていることに気づく。堪らず、口走ってしまう。
「私と会えない間、寂しいとか、思って……くれてた?」
私は、深雪の目を見ることができずにいた。深雪の表情を、ちらりと盗み見る。伏し目がちになって、何かを考えているようだった。ゆっくりと顔を上げて、口を開く。
「私ね、母上がいなくなってから、ずっと一人だった。生まれてからずっと一人なら、寂しさも知らずに生きられたはずなのに。母上と四百年くらい一緒にいたから、寂しさを知ってしまった。なまじっか寂しさなんか知ってしまったものだから、母上が死んでから、今まで七百年間くらい、ずっと孤独を感じて生きてきた」
悲痛とためらいと、それを隠そうとする笑顔が混じって、きれいな彼女の顔が歪んでいた。
「でもね、七百年一人で生きてるのよ。寂しさには慣れているつもりだった。なのに……」
彼女はきゅっと口を結んで俯いた。震える声で言葉を紡ぐ。
「一人で雪だるまを作っても、ちっとも楽しくないの。カンナと作った雪兎はあんなに可愛かったのに、一人で作ったうさぎは、なんだかとっても無表情なの」
彼女の顔を見ようとして横を向くと、小さな祠の辺りが目に入る。周辺には、たくさんの雪だるまと兎が寂しそうに並んでいる。
「カンナ、私ね、カンナと過ごす時間がとても幸せよ。その分、一人の時間が寂しくて、苦しくて仕方がないの。たった三日、あなたに会えなかっただけで、私は……」
途切れ途切れの声は、重々しく続く。
「私はね、不老不死ではないの。半分人間だから。母上と違って、少しずつ老いていて、いつかは死ぬ。それでも、カンナが生きる時間の何倍も生きてから死ぬの。母上とお別れをしたときみたいな思いを、私はまた……」
さめざめと涙を流しながら続ける。
「父上も……母上も……。どうして私を産んでしまったのかしら。どうして私は生まれてきてしまったのかしら」
胸の内に秘めていた思いは、溢れ出すと止まらない。もう言わないで、と私が言う前に、深雪は私の方に向き直る
「私は、私を、もう終わりにしたい」
彼女は笑っていた。真っ黒な瞳から、涙を流しながら、歪んだ笑顔を浮かべていた。
「っ……」
私は何も言えなかった。何もできなかった。深雪を強く抱き寄せて、笑わなくていいから、と言って泣き止むまで頭を撫でていたかった。それができない我が身は、ただただ綺麗な雫の前に、無力でしかなかった。それと同時に、私なら、彼女の望みを叶えることができるとも思った。私が彼女の涙を拭って抱きしめてあげるだけで、自分を終わりにしたいという彼女を救ってあげられるのだ。そう、考えるだけであった。私は何もできずに、涙が雪の上にしみを作るのを見ていた。私の行動一つで、彼女の心を救ったり、彼女の命を終わらせたりできてしまうことが、怖かった。人の心を救うために、人の命を奪うなどという勇気は、私にはなかった。そして、誰かの命を奪うことを、勇気と感じてしまうほどに、自分が恐ろしい思い上がりをしていることに気づいてしまった。身の毛がよだった。私は、何もできなかった。握りしめた拳の中で、自分の爪が掌に深く刺さって、キリキリと痛かった。
何もできなかった私は、ごめん、とただ一言呟いて、逃げるように神社を駆け出した。人はきっと、誰かと関わって、親しくなって、時にこのような経験を経ることで、正解へと導く術を知っていくのだ。今までそれを散々避けて、一人で楽をして生きてきた。そんな自分を、恨む日が来るとは思わなかった。正解がわからなかった私は、明らかな不正解を選んで、深雪を一人にして、のうのうと家に戻ってきたのだ。家の戸が、鉛のように重く感じられた。ただいまも言わずに、私は自室の布団の中に潜り込んだ。窓から夕陽が私を責め立てるように鋭く差している。それさえも煩わしくて、堪らず布団を頭までかぶる。暫くそんな具合で閉じ籠っていると、部屋の外で音がした。祖母が様子を見に来てくれたようだ。何かを言う気にもなれず、布団の中でただくるまっていると、ぎい、と床鳴りが聞こえる。祖母は戸の傍に座ったようだ。優しい声で語りかけてくる。
「じっちゃんは勉強熱心な人だった。大学の先生さ辞めてからも、部屋に籠って古ーい紙とにらめっこしてだ」
祖母の気遣いに応えられず、ただ耳を傾ける。
「じっちゃんはよぐ、困ったら本を読めど言ってだ。古い文書は先人だちの知恵を伝えでぐれるんだって」
戸の向こうで、祖母が微笑んでいるのがわかる。布団から出て、震える手で戸に手をかけて、意を決して戸を開ける。祖母はやはり綺麗な姿勢で座っていた。立ち上がって、ふふっと笑いかける。
「じっちゃんの書斎は、いづも本とかび臭え紙が山積みでな。勝手に掃除しで、よぐ怒られたもんだ。死んでからも、なんだかお化けっこさなっで怒りに来るんじゃねえが思で片付けられねえだ。カンちゃん、代わりに片付げに行ってぐれねぁ?」
頬に手を当てて、慈しむように笑う。それから、私の方に向き直って、そっと私の肩に手を置いた。
「カンちゃんは、一人でねぁーよ。大丈夫、おめが自分の事嫌いになってしもても、婆ちゃんは、カンちゃんのことが大好きだあ。……書斎にあるもん、好きに使え。物知りのじっちゃんは、きっとカンちゃんの力なってくれんだ」
祖母は優しく微笑む。目の前を覆っていた淀んだ霧が晴れるように、吸い込んでもただ苦しかった毒ガスが浄化されるように、一気に心が軽くなる。自己嫌悪の渦に囚われて、暗闇の中にいた私が、祖母の心遣い一つで、みるみるうちに救われた。救われた私には、まだやるべきことがある。今も一人で苦しんでいる少女を、私は救ってあげたい。自分のことを終わらせたいなんて、二度と言わせたくない。
「婆ちゃん、ありがとう」
さっきまであんなに痛いと感じた夕日は、今は暖かく背中を押してくれた。
*
夕飯を終えて、私は早速祖父の書斎の探索を始めた。部屋は、祖母の言っていた通りであった。筆記用具や本、書類が乱雑に散らばっている。
「よし……」
部屋を見渡すと、四畳半が電話ボックスくらいに感じられた。古めかしい本や文書、辞書などは勿論、植物図鑑や妖怪百科事典、東洋、西洋の神話集など、多様な本が棚に詰まっている。祖父は博識で、様々な雑学をよく話してくれた。古文書の研究をしていたが、知識は多岐にわたっていた。床や机の上に積み上げられて、時々雪崩を起こしているものから手を付ける。哲学や宗教の本を見て、生きることとは何ぞやを解くかと考える。そんなことをしても、ただ私が偉そうに見えるか、胡散臭く見えるかだ。歴史書を見て、生きていれば楽しいことがあるよ、なんて話をしようかと考える。そんな安っぽい励ましで済むわけがないし、そもそも千年の時を生きる深雪に歴史の話をするなど、烏滸がましい。そんな具合で、意気込んだ割に大した成果を出せぬまま、あっという間に夜が更けてしまった。
「はーっ、収穫なしかぁ……」
伸びをして、仰向けに倒れこむ。ぼんやりと、ただ静かに呼吸だけをする。畳と埃の匂いが鼻腔をくすぐる。目も痒いので、アレルギー反応だろう。ずっと本や古書とにらめっこをしていたので、相当頭も使った。どっと疲労が押し寄せてきた。擦った瞼が、だんだんと重たくなってゆく。まだ駄目、と思いつつも、身体は言うことを聞かなかった。夜闇の静寂の中、どこかで降り積もった雪が、どさっと落ちるのが聞こえたのを最後に、私の意識は眠りの世界へ落ちていった。
翌朝、私は体の痛みを感じて目が覚めた。朦朧とする意識の中で、いつもと違う天井と床の感触によって、意識が鮮明になってゆく。ハッとして身体を起こすと、知らぬ間に布団と毛布が掛けられているのに気付く。祖母が掛けてくれたのだろう。
「婆ちゃん……」
体の痛みは、床で寝ていたことによるものらしい。首を回して、伸びをする。べたつく体が気持ち悪い。
「起ぎだが?起ごしたらいげねぁど思って、ごめんなあ。」
「ううん!布団ありがと」
「風呂っこ沸いだがら、入っでこ」
「わあ、わざわざありがとうね」
結局、深雪を救うなどと意気込んだ私だが、昨晩は何も見つけることができなかった。湯船にゆっくりと浸かって、思考を整理した。ひとまず、今日の夕方まで、もう一度探してみよう。何も見つけられなかったら、その時にまた考え直そう。埃まみれの身体を綺麗に洗い流して、風呂から上がった。服を着て、髪を拭きながら食卓へ向かった。玄関の戸が開く音がする。私が湯浴みをしている間、祖母は外出していたようである。。
「どこ行ってたの?」
「向かいの田村さんさ、野菜のお裾分げだ」
戻ってきた祖母と共に朝食を済まして、書斎へ向かった。昨晩と同じ具合に、本を読み漁る。やはりピンとくるようなアイデアが思いつかない。こんな調子で大丈夫かと思っていたときである。ふと、居間の方に目を遣ると、祖母が仏壇に花を供えているのに気付く。見覚えのある、淡い紫色の綺麗な花だ。私は、堪らず大きな声を出していた。
「婆ちゃん!その花!」
興奮を抑えきれずに祖母の元へ駆け寄る。
「田村のおばちゃんからもらったんだ。カタクリっで花だ」
『カタクリ』。その言葉が、電撃のようにビビッと脳を貫いた。書斎に駆け戻り、何も気にしていなかった植物図鑑を開く。索引からカタクリを見つけて、ページを捲る。興奮で手が覚束なくなって、上手く捲れないのがもどかしい。やっとたどり着いたカタクリについてのページだけが、明らかに読み込まれた形跡があった。間違いない。それは、深雪が母の形見として持っていた髪飾りの花と同じであった。祖父がこの花について調べていたことと、深雪の髪飾りは、関係がないようには思えなかった。
「綺麗だろ、山奥さ咲く花でな……花が咲くまで、七、八年ずうっと土の中で栄養貯めこんでらそうだ。おばちゃんが昔庭さ植えたのがようやぐ咲いたんだが、咲いてんのも二週間ばっかしなんだって、お裾分げだ。花言葉は……」
花言葉の記述には、マーカーで印がつけられていた。そこには、
「『寂しさに耐える』……」
トンネルの先に、出口の光が見えるように、答えを導き出せる兆しが見えた気がした。昨晩探さなかった箇所を片っ端から探り始める。祖母は何も言わずに、仏壇の手入れを始めた。箪笥の上に積み上げられた煎餅缶にまで手を伸ばす。下ろして蓋を開けてみると、今までに見た墨臭い和紙の数々の中で、最もぼろぼろの手記のようなものが出てきた。しかしそれは、古くてぼろぼろではあるものの、埃はかぶっていなかった。同じ缶の中に入っていた、祖父の字が書かれた真新しいノートを見ると、どうやら祖父が教壇を降りてからも個人的に研究していたものはこれだったようだ。祖父の字で書かれた、古めかしい文章と、私にもわかるような現代語の文章。そして、古い文書を見比べる。文章の量や改行の位置から察すると、これらは対応しているように見えた。どうやら、この手記を翻字したものと、現代の言葉に訳したもののようだ。
「『延喜』……平安時代……?随分古いな」
私は、導かれるように、ノートを開いた。
*
ページを捲る度に、涙が一粒、二粒、頬を伝った。読み終える頃には、ノートは落ちた雫でシミだらけになっていた。胸が締め付けられて苦しくなった。居ても立ってもいられなくなった私は、缶の中身を抱えて家を駆けだした。昼前で、深雪が来ているかもわからない。これを見た深雪が何を思うのかも分からない。けれど私は無我夢中で神社へ走っていった。冷たく乾いた風が頬に当たって痛い。積もった雪に足を取られながら、足をただ前へ進める。境内の前に立ち塞がる、長い、長い階段を一段飛ばしで駆け上がる。
「み、ゆき……っ、はっ……はあっ……」
息も絶え絶えに、拝殿の前に着く。膝に手をついて、肩で息をする。空気を吸うたびに、喉の奥が乾いていって噎せてしまう。
「深雪!」
大きく叫ぶと、山の向こうで木霊する。
「……そんなに大きな声で呼ばなくても、ここに居るわよ」
深雪は、奥の祠の前にちょこんと座っていた。困ったように笑う。その顔は、随分やつれていた。ひょっとしたら、昨日からずっとここで泣き続けていたのかもしれない。心臓を鷲掴みにされたみたいに苦しくなった。走ったことで上がってしまった呼吸を落ち着かせると、深雪が口を開く。
「昨日はごめんなさい、おかしなことを言ってしまったわよね」
「ううん……。こっちこそごめん。なんて声かけていいかわかんないし、何をしても不正解なような気がして……逃げた」
昨日の愚かな自分を思い返して俯いてしまいたくなるのをぐっと堪えて、深雪の顔を見据える。
「どうしたら力になれるのかわかんなくて、逃げ出して、私はそんな自分が情けなくて、不甲斐なくて……消えたくなって……」
「カンナ……」
「私は結局、何もしてあげられなかった。でも、これなら、私の代わりにあなたを救ってくれるはず」
握りしめてぐしゃぐしゃになった古い紙とノートを差し出す。深雪は私の顔と、ノートを交互に見つめて躊躇う。手が震えるのを隠すように、もう一度ずいっと差し出す。深雪は戸惑いがちに受け取ってから、読み始める。
延喜十五年 神無月の三日
毎日山に通って家に帰っても一人で侘しい。妻が息子を連れて出て行って十年になる。戻ってくる気配はない。つまらない日々であったが、今日は面白いことがあった。夜更けに美しい女が家に訪れた。女は、お前の精を抜きに来たのだという。おかしなことを言うものだ。もっと話をしたいので、一緒に火に当たるように勧めて手を掴もうとすると、触るなと言う。理由を尋ねたところ、自分は雪女だから人間に触れられると溶けて死んでしまうのだと言った。やはり面白いことを言う女だと思い、気に入ったので飯を振舞ってもてなした。熱い飯が食えないと言うので、冷めた飯を食わせたが、美味そうに食うのがとても可愛らしい。今まで人間や動物の魂を食って生きてきたのだという。笑っていると、自分は妖怪だ、恐ろしくないのかという。俺は、お前のような美人の何が恐ろしいのかと言った。
「雪女と、男……これって……」
「そう、深雪のお父さんの日記だよ」
日記はその後も数日空きで続いていた。雪女は、毎夜男の元へ訪れ、互いに色々な話をするうちに、二人は次第に親しくなっていったようだ。家がないのだというので、一緒に暮らすようになり、名が無いというので雪と呼ぶことにしたのだとあった。
延喜十六年 睦月の十日余二日
雪と出会って六月と少し。雪は俺に心を開いて、慕うようになってくれた。俺も雪にますます惹かれていった。この日、俺は雪と子供は可愛いという話をした。すると雪は俺との子供が欲しいと言う。どうすれば子供が生まれるのかを聞いてきた。無垢な瞳を真っ直ぐに見ることができないので、それは後日教えることとした。それはそうと、雪女と人間の合いの子などできるのだろうか。そもそも触れることができないのに、どうしたものか。悩みは尽きない。
十六年 如月の四日
雪が、子供、子供と、子供のように騒ぐ。仕方がないので教えてやると、色白の顔が真っ赤に染まるほどに恥じらった。落ち着いたころに、子がお前の腹に宿るかもわからないし、触れなければならないので子供は諦めるしかないというと、首を横に振った。触れてもすぐに死ぬわけではないから大丈夫だ、自分は死ぬことになっても、俺との子が欲しいのだという。そして、それほどまでに、俺を愛しているのだという。どうすることもできないまま黙り込んでいると、雪が俺の手に触れてきた。その途端、雪の身体は青白く光を放った。一度、二度光ってから、光は収まった。深雪の不死の力が失われた合図だということは、なんとなくわかった。雪は、ようやく俺に触れられたのだと、笑った。その声も、触れていた手も、震えていた。初めて死を予感した恐怖なのか、俺に触れることができた感動なのか、その両方なのか。俺はそれ以上に震えていた。それを隠したくて、雪を力一杯抱きしめた。細い身体は、簡単に崩れてしまいそうであった。この夜、雪は俺に身を委ねた。
十六年 弥生の八日
枕を共にした日から一月が経った。雪は体の具合が悪いという。吐き気と胸の張りを訴えた。子ができたのだろう。嬉しくて大泣きしてしまった。
十六年 弥生の二十日余九日
子の名を決めた。雪が自分の名を入れたいというので悩んだ。雪が深く積もるこの地に相応しい、深雪という名だ。
「『深雪』……」
深雪は、確かめるように口に出した。誰かに書かせたものか、彼の直筆のものか、或いは、口承されたものを記したものかはわからないが、確かにこれは深雪の父親の日記だ。深雪は矢継ぎ早にページを進める。
十七年 如月の十日余五日
一年たっても、雪の腹は大きくならない。孕んだと思ったが、思い過ごしだったのであろうか。残念ではあるが、もし子ができなくても、雪との暮らしは幸せだ。
二十年 睦月の三日
雪の腹が大きくなっているように思う。雪が言うことには、人間の血と交わることで、雪の不老不死の力が弱まって、老化が著しく遅い子ができたのではないかということだった。なるほど、それならば納得である。子が宿って四年目で腹が大きくなったと考えると、深雪は一年かけてやっとひと月分くらい体が大きくなるのだろう。ならば、あと六年は生きねばならない。俺も三十を超える歳になる。身体の老いを感じることも増えたが、深雪に会うために、長生きせねばならぬようだ。気長に待って居よう。
二十年 皐月の五日
心はいつまでも若いつもりなのに、身体は重くなるばかりだ。山へ行くのが辛くなってくる。俺はあと何年生きられるだろうか。雪は出会ったころと変わらず、老いることもない。大きくなってきた腹をさする姿が大変美しい。深雪が腹の内を蹴る度に嬉しそうにはしゃいでいる様子を見ていると、人に触れたら死ぬなどと言うのは、嘘だったのではないだろうかと思ってしまう。山へ行ったときに見つけた堅香子の花を土産に持って帰った。雪は喜び、萎れるのが惜しいと言って花を凍らせてしまった。彼女が雪女と言う怪異であることを忘れていた俺は、腰を抜かした。来年もまた堅香子の花を贈ろうと思う。深雪に早く会いたい。
二十一年 皐月の二十日余九日
俺は病にかかった。歳も歳なので、なかなか治らない。日に日に身体が弱まるのを感じる。今年は堅香子の花を採りに行けそうにない。近々採りに行こうと思っていたのに、悔しい。床に就いたままで、去年雪が凍らせたものを髪飾りにしてやることにした。去年から形を変えない花を不思議に思う。俺が死ぬまでに、深雪に会えるだろうか。
二十二年 師走の二十日
次第に呼吸が浅くなって、意識が朦朧とするのを感じる。雪は片時も枕元を離れようとしない。出来上がった堅香子の髪飾りをつけてやる。やはりよく似合う。泣かないで、愛しい人よ。せっかく綺麗な顔をしているのに。ああ、でも、雪は泣き顔も綺麗だ。深雪には会えそうにないのが残念だ。きっと雪に似て美人に違いない。雪の腹を撫でる。父上は空の上から見守っている。
ただ、静かに涙を流していた深雪は、懐からカタクリの花の髪飾りを取り出して胸に抱きかかえると、わっと泣き崩れた。地面に額が触れそうなくらいに屈みこんで、ぼろぼろと大粒の涙を雪の上に零していた。
「ああぁ!ううっ……。父上ぇ……っ!母上……っ!」
髪飾りを握りしめて、何度もしゃくり上げながら、泣き叫んでいた。深雪の声だけが、高い、高い空に響き渡る。
「私は……っ!わたっ……しはぁ……!」
声にならない声で叫んで、肩で息をしながら、深雪は延々と泣き続けた。私は、深雪の真っ白な着物の裾をずっと握りしめ続けた。漆黒の瞳が涙で滲む様子は、一層艶やかであった。どれくらいの時間そうしていたのだろうか。ひとしきり泣いて、青空に橙色が滲み始めた頃に、深雪は嗚咽を漏らしながらも呼吸を整える。
「……深雪、あなたは、お父さんとお母さんが、あなたに会いたいと思ったから生まれてきたの。お父さんはあなたに会う日を死んでしまう日までずっと心待ちにしてた……。お母さんは、お父さんとの愛の証であるあなたを、最期まで大切に育てた……。二人とも、ずっと傍に居られないことを悔やんだはずだよ。だからこそ、二人の思いが詰まった髪飾りをあなたに授けたの」
「カンナ……」
「それでも……それでも深雪は、なんで自分なんかが生まれてきたんだって、自分を終わらせたいだなんて寂しいことを言うの?」
深雪は着物の袖で涙を拭って立ち上がる。
「私は……私はずっと、独りぼっちなんかじゃなかったのね」
髪飾りをそっとなでる。
「父上も、母上も、ずっと私の傍にいてくれたのね」
深雪は、優しい笑みを浮かべる。
「カンナ、父上と母上の思いを繋いでくれてありがとう。大切な気持ちに気づかせてくれて、私を孤独から救い出してくれて……」
瞳を潤ませて、震える声で続ける。
「ありがとう」
それからまた、涙を一粒零した。その一滴が、深雪のつま先に落ちる。その途端、そこから、まるでつぼみが開くように、深雪の身体は青白い光を纏い始めた。
「え……」
目の前で起きていることが理解できない私は、ただ呆然と美しい光景を眺めていた。深雪の膝がガクッと折れて、倒れ込んでしまいそうになるのを見てから、私の身体はやっと動いた。倒れ込む寸前で、深雪の身体を抱き止めた。初めて触れてしまった深雪の肌は、ひんやりと冷たかった。反射的に、身体を離れようとすると、深雪は私に強く抱きついたまま離そうとしなかった。
「深雪⁉」
引き剝がそうとするが、やはり離れようとしない。深雪は、静かに頭を横に振った。
「いいの、カンナ……。どうしてかしら、急に体に力が入らなくなって……きっと、私は、もう……だから、こうさせて」
「み、ゆき、駄目だよ、このままじゃ……」
「ねえ、カンナ、顔を見せて頂戴」
私は、恐る恐る深雪の頭を自分の膝の上に乗せる。ふと、つま先の方が目に入る。青白い光の粒子が、ふわふわと宙に浮いている。美しい光の粒は、粉雪に姿を変えて、さらさらと舞い落ちる。深雪のつま先が、少しずつ、光の粒になってゆく。
「深雪、どうして……」
「わからないわ。やっぱり私は、半分人間みたい。あんまり、強くないのね……」
視界が涙で滲んでしまう。やっと見つけた大切な人は、こんなにも突然失われてしまうのだろうか。深雪のくるぶしの下では、地面の雪よりも一層白い粉雪が積もっていく。
「カンナ、最初で最後のお願い……聞いてくれないかしら」
これを聞き入れたら、いよいよ本当に最後のように感じて、首を縦に振ることができずにいた。そんな私を見て、深雪はいつもみたいに、困ったように笑う。それから、私の手を取って、カタクリの髪飾りを持たせた。
「……つけてくれるかしら。母上から授かったとき以来、つけたことなくって」
いつかその姿を見せてもらいたかった。私は頷く。そっと深雪の髪に触れる。ずっと触れてみたいと思っていた綺麗な髪は、想像以上に細く、軽やかで、まるで絹のような指通りだった。そっと、こめかみのあたりに花を添える。やはりよく似合っていて、その美しさは筆舌に尽くし難い。見たこともない深雪の母親の姿が想像できてしまう。きっと深雪にそっくりの美しい人だったのだろう。
「似合ってる、綺麗だよ、深雪」
「ふふ……よかったわ」
粉雪は、もう膝の辺りまで積もっていた。私の涙が、深雪の頬に落ちてしまう。すると、深雪はそっと髪飾りを外してしまった。そして、私の髪に手を伸ばす。
「……ん」
「ふふふっ……カンナにも、よく似合ってるわ」
楽しそうに笑っている。髪飾りを私につけてくれたようだ。目の横の辺りでさらさらと揺れてくすぐったい。深雪は、手を私の頬に当てて、にっこり微笑んだ。
「あたたかい」
噛みしめた下唇が痛い。頬に触れている深雪の手をぎゅっと握る。泣き腫らして熱くなった頬に、ひんやりとした深雪の手が心地よい。
「ずっと消えたいって思っていた。やっと、生きていたいって思えたのにな……カンナと出会って、たくさんお喋りして、本当にあっという間だったけれど、私、本当に幸せだった」
深雪の身体はもう半分以上光の粒と化していた。
「みゆ、き……私、まだ深雪に聞きたいことも、話したいことも、まだ……たくさん……!なのに、お別れなんてまだ……」
「お別れだなんて、寂しいこと言わないで……。私はいつでも、あなたの傍にいるから。独りぼっちで寂しいとき、自分のことを嫌いになってしまいそうなとき、その髪飾りをつけて思い出して。あなたのことを愛している、私が、そこに居ることを……」
カタクリの花弁を撫でながら、慈しむような瞳で私を見つめる。
「父上と母上が呼んでいるわ。泣かないで、カンナ。いつもみたいに、笑って」
ぐちゃぐちゃになった顔を、服の袖で拭って深呼吸をする。嗚咽交じりになりながら、声を絞り出す。
「深雪……私、深雪のこと忘れないから。ずっと大好きだから。……私と出会ってくれて、愛してくれて、ありがとう」
涙をこらえて、笑ってみせた。深雪も、そっと微笑んだ。
「さようなら、ありがとう。カンナ、愛しているわ……」
握っていた手が、すり抜ける。煌めく雪の粒が膝の上を白く染め上げた。
深雪の優しい笑顔は、もうそこにない。俯くと、また目頭が熱くなる。涙がこぼれそうになった刹那、柔らかな風がふわりと吹き抜ける。風は、私の前に積もった粉雪を空高く巻き上げてどこかへ行ってしまった。夕日に照らされた雪の粒がきらきらと輝く光景が、深雪と初めて出会った日の景色と重なる。煌めくスクリーンに、深雪の笑顔が一層輝いていたのを思い出す。
「ありがとう、さようなら、深雪」
吹き去った風は、髪飾りを揺らした。カタクリの花弁が、濡れた頬をそっと撫でていた。
雪の魔法で @ai-hanada-0226
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