最終章

 12月31日は、年越し恒例の、笑ったらお仕置きの番組や、格闘技に歌合戦と、リモコンを操作するのに忙しく、年越し蕎麦など食べてる余裕は無かった。


 テレビのカウントダウンと同時に、時計の針が12時を告げると、地元のヴェルニー公園から、花火の音が聞こえた。


 ハッピーニューイヤーか…


 日本人は、蕎麦のように長生きできるようにと、願掛けの意味を込めて、年越し蕎麦を食べるらしいけど、餅を喉に詰まらせて生死を彷徨さまようニュースが、その数日後に流れるのだから、バカとしか言いようがない国である。


 和久井とは、あのクリスマスから、連絡を取っていなかった。


 和久井のことだから、カウントダウンパーティに、正月の集まりや、挨拶回りで、大忙しなのだろう。


 こっちから連絡するつもりは無かった。


 冬休みが終われば、また会える。


 それに…


 卒業と同時に、和久井との関係が終われば、こうして家に居る時間が、再び増える…


 今のうちから現実に戻る準備を、しておかなければならない。


 初詣は、裕己ひろみと愛ノまのはと三人で、鎌倉まで行った。


 途中三人で引いたおみくじの結果は、なんとなく予想していた吉だった。


 賽銭箱には、大奮発して、500円玉を投げた。


 愛ノ葉に『500円も投げて何に手を合わせたの?』と聞かれたけど、和久井の手術が成功するようにとは、言えなかった。


 鎌倉大仏に群がり、写真を撮る観光客を見て、和久井に群がるファンクラブがあった、あの頃の教室を思い出した。


 考えないようにしようとすればする分、和久井のことを思い出してしまった。


−−−−−−−−−−



 冬休みもあっという間に終わり、高校生活最後の学期が始まった。


 やっと和久井と会えると思い、気合いを入れて化粧をした。


 しかし学校へ着くと、教室に和久井の姿は無かった。


 もともと気まぐれな性格だったので、気にはしなかった。


 しかし、次の日も…その次の日も…その次の次の日も…和久井の姿は無かった。


 三学期が始まって一週間が経った日の夜に、電話を掛けてみた。


 電源は入っていない…


 なにかあったのかと思うと、胸騒ぎがした。


 学校では、連日続く和久井の休養に対する様々な噂が飛び交ったが、誰一人として本当のことを知ってる者は、居なかった。


 担任のマニュアル浜口に聞いても、聞いた自分がバカだったと思うような返答しか、返ってこない。


 どうしたの…


 事故??


 観覧車でのことがフラッシュバックする。


 色々考えると、胸が張り裂けそうになった。


 地球上に、一人だけ残されたような、不安に駆られた。


 三学期が始まって一カ月…


 三度の飯より食べることが好きだった私も、和久井のせいで食欲がなく、5キロも痩せてしまった。


 いつしか和久井の噂が、校内を飛び交うことも無くなっていた。


 このままモヤモヤしていても、なにも解決しない。


 家に行くことに罪はないはず…


 放課後、帰宅方向とは違う電車に乗った。


 代官山駅を降りると、スマホのナビと、薄い記憶を頼りに歩いた。


 目に入る風景の全てが、和久井との思い出と重なった。


 見覚えのある立派な外壁と門柱が見えてくるのに、時間は掛からなかった。


 相変わらず厳重なセキュリティである。


 歩きながら呼吸を整え、四方八方に備え付けられた防犯カメラの前に立つと、震えた指先で、インターホンを押した。


 「お久しぶりです。椿さま」


 モニターの前で構えていたかのような早さで、聞こえてきたのは、和久井家に仕える相澤の声だった。


「相澤さん…お久しぶりです。今日は、ご迷惑と解っていたのですが、和久井のことが、少し気になって…」


 「そうですか…少々お待ちください」


 相澤の声が、事態の深刻さを物語っていた。


 しばらくすると門が開き、相澤が頭を下げて立っていた。


 「お久しぶりです」


 相澤と同じくらい頭を下げた。


 「どうぞ」


 相澤の差し出す手の平の横を通った。


 「お邪魔します」


 屋敷の敷地に入ると、門は自動で閉まり、屋敷の玄関まで相澤と歩いた。


 「なにかあったんでしょうか?」


 「少し体調がよろしくないだけです。きっと椿さまに会えば、楼真さまも、お元気になってくれるでしょう」


 和久井の持病を私も知っているとは、言えなかった。


 「だと良いんですが…なにも持ってきていないのですが、少しだけ会えますか?」


 「もちろん」


 相澤は笑顔で頷くと、屋敷の玄関扉を開けた。


 「お待ちしておりました」


 初めて見た時は、頼むから視界に入らないでくれと思った、年配のメイドが、深刻そうな表情で頭を下げる。


 今はどんな言動をされても、笑える気がしなかった。


 お待ちしておりました?


 どういう意味だろうか…


 二人のメイドもボスにならって頭を下げる。


 「お邪魔します」


 同じように深々と頭を下げた。


 「楼真さまは、お部屋にいらっしゃいます」


 相澤の言葉は、遠回しに一人で行ってほしいと聞こえた。


 「分かりました」


 用意されたスリッパを履き、メイドの横を通り過ぎようとした時だった。


 「あなたとは色々あったけど、今はあなたしか楼真さまの心の拠り所はないわ。前に楼真様のことをなにも分かってないくせに…って言ったけど、今はあなたの方が本当の楼真さまのことを良く分かっているはず。悔しいけど…楼真さまの支えになってあげて」


 え?


 あの時、なにも分かってないくせにと言われたことが、和久井の持病だったのを、ようやく理解した。


 なにが起きてるの…


 「あ…あの…どういう状況か、まだ分からないのですが…」


 「早く行きなさい」


 「…はい」


 メイドの圧に押されて、螺旋らせん状の階段を上った。


 一体どうなってるのよ…


 この一ヶ月でなにが…


 グレて引き篭もりにでもなってしまったのか…


 不良になる資質は十分にある…

 

 そんな事を考えていると、和久井の部屋の前に辿り着いた。


 初めて和久井の部屋に来た時は、迷路みたいでこんなに長いのかと思ったのに、今は瞬間移動したかのように早く感じた。


 気持ちを落ち着けるために深呼吸をして、部屋の扉をノックした。


 返事はない。


 もう一度、今度は強めにノックした。


 やはり返事は無かった。


 恐る恐るドアノブをひねったが、予想通り鍵は掛かっていた。


 「生きてるの?」


 部屋越しに問い掛けた。


 「あ?」


 どうやら生きてはいるようだった。


 「学校も来ないし、電話しても繋がらないし、安否確認しに来たのよ」


 「椿か?」


 「私以外にあんたのこと、心配してわざわざ家まで来るような人が、学校に居ると思ってんの?」


 「そんな暇人は一年中探したってお前しか居ないだろうな」


 和久井らしい言葉を聞けて、取り敢えず一安心した。


 「どうしちゃったの?」


 「お前には関係ない」


 関係ない?


 「私にとって関係があるかないかは、私が決めることだわ」


 「少し会わない間に随分と達者になったな」


 「あんたと一緒に居たせいね」


 「別にどうもしない。ただの風邪だ」


 普段から体調管理を徹底してる和久井に限って、風邪など引くわけがない。


 仮に風邪を引いたとしても、私の知ってる和久井は、それを人に言うような弱い男ではない。


 ただごとではない気がした。


 「だったら開けてよ」


 「ダメだ。まだ治ってない」


 ゾンビになるウイルスじゃあるまいし、ただの風邪が一ヶ月治らないわけがない。


 「和久井」


 なにがあったのか分からないし、なぜたが分からないが、涙腺が緩んだ。


 「私には正直になってよ…せめて卒業するまでくらいは…」


 返事はなかった。


 和久井も、こんな面倒くさい女を、卒業するまでの彼女に選んだことを、今更後悔してるに違いない。


 私は、和久井の心の支えになれる存在じゃなかった…


 和久井からもらったハンカチで、流れる前に涙を拭い、帰ろうとした時だった。


 カチッと、部屋の鍵が開く音が聞こえた。


 鼻水をすすり、ゆっくりドアノブを回すと、ドアノブは全開まで下がった。


 鍵が開いた…


 再び深呼吸をして、そのままゆっくりドアノブを引いて、扉を開いた。


 扉を開けた瞬間、涙が溢れ出た。


 パジャマ姿でニット帽を被り、車椅子に乗った和久井が、背中を向けて窓の外を眺めていた。


 その後ろ姿は、マッチ棒のように痩せていて、つい一ヶ月前の和久井からは、想像もできない外見だった。


 「話はこのままさせてくれ」


 部屋越しだったので気付かなかったけど、和久井の声は、聞いたことのないくらい、か細く弱々しい声だった。


 タンスの上には、クリスマスに描いてもらった似顔絵が飾ってあった。


 涙を止めることは、できなかった…


 何も言わずに、触れたら折れそうなくらい細くなった体を、後ろから抱き締めた。


 「ごめん…もうなにも言わなくていいから…」


 「なんだよ急に…おい…首が気持ち悪いぞ」


 和久井の首元は、私の鼻水と涙で悲惨なことになっていた。


 「あ…ごめん…」


 泣き笑いしながら、既に濡れているハンカチで、首元を優しく拭いた。


 「予定より早く持病が進行してるみたいだ」


 「だからなにも言わなくていいって」


 「お前が正直に話せって言ったんだろ?」


 「言われなくても見れば分かるわよ」


 本当に辛く泣きたいのは、和久井の方である。


 和久井の前では、私が強くならなければいけない…


 一度は信じないと思った神様に、そう誓った。


 「ガンなんだ」


 「だから見れば分かるって言ってんじゃない」


 「後ろ姿を見ただけで、病名が判断できるカリスマ医師の才能がお前にあったとはな」


 涙を拭って大きく深呼吸をした。


 「全然平気そうで安心したわ。むしろ心配して損しちゃった。卒業式の日…ずっと体育館で待ってるから」


 和久井なら絶対に乗り越えられると思った。


 「おい」


 「来なかったら墓場まで行って、ぶん殴ってやるから」


 「おい」


 「あんたはあの傲慢ごうまんで自信過剰で自分のことしか信じないで、我が道を行く和久井でしょ?だったら最後まで自分を信じて、その答えが正しかったって、私に…世界一の男になって証明しなさいよ」


 ………


 言った後で言い過ぎたのと、気持ちが入り過ぎたことを後悔した。


 「分かった」


 え?


 「お前の装って強がってはいるが、感情的になってすぐ化けの皮が剥がれるバカ正直な姿が見れて、少しだけ元気が出た」


 褒めていないのは、私でも分かった。


 「卒業式の日な…」


 和久井が背中越しに、痩せ細った右手を挙げる。


 「約束よ」


 和久井の挙げた右手の小指と、小指を結んだ。


 「約束だ」


 和久井の頬から、フローリングに一粒の涙が流れ落ちた。


 目をギュッと瞑り、血が出そうなほど唇を噛み締めて、和久井の部屋をあとにした。

 


 

 

二ヶ月後




 

 体育館での卒業式も終わり、教室には、和久井を除いた、全員の姿が揃っていた。


 肩を組んで三年間育んだ友情を分かち合う単純な男子…

 涙を浮かべ卒業証書片手に写真を撮るSNS女子…


 彼ら彼女らに、和久井の現況が関係ないと解っていても、今こうしている間に、和久井が病気と闘っていると思うと、胸が張り裂けそうになった。


 「今日まで皆さん、よく頑張りました。今日で晴れて高校卒業です。この三年間で得た知識や経験を、卒業したら思う存分発揮してください。皆も気になっていた、クラスメイトの和久井くんは、都合により海外にて卒業をすることになりました」


 海外での卒業…


 クソ嘘つき教師が…


 本当にマニュアルのような内容を喋る担任を見て、感謝どころか、最後の最後で、はらわたが煮え繰り返りそうになった。


 学校側が真実を知っているのかは、分からなかったけど、少なくても生徒の中で、本当のことを知っているのは私だけだった…


 「皆さん!卒業おめでとう!」


 教室中が盛大な拍手に包まれ、他のクラスでも、クラスの誰かが金メダルを取ったかのようなバカ騒ぎをしていた。


 「三年S組の皆さん、人生はここからが始まりです。皆さんは…」


 虫唾の走る担任の言葉が聞きたくなくて、両耳を塞いで目を閉じた。


 再び目を開けた時には、マニュアルの姿はなく、生徒の数も減っていた。


 一人…二人…三人と生徒が教室に別れを告げて出て行った。


 全てを変えてくれた、この窓際の特等席とも、今日でお別れである。


 校庭には、満開の桜が咲き誇っていた。


 一年間ありがとう…


 そして…


 和久井との出会いをありがとう…


 下校のチャイムが鳴り、机を優しく撫でると、卒業筒を鞄に入れて、体育館へ向かった。



−−−−−−−−−−


 

 巡回する警備員の懐中電灯の明かりで、目が覚めた。


 既に体育館の電気は消えていて、外も真っ暗になっていた。


 「どうしたんだ?大丈夫か?」


 警備員が驚いた表情で声を掛けてくる。


 「あ…えっと…放課後に友達と卒業祝いに体育館で遊んでたら…疲れて寝ちゃったみたいで…すいません」


 「倒れてたから驚いたよ。せっかく晴れて卒業したのだから、問題になる前に早くお家に帰りなさい。もうこんな時間なんだから」


 警備員が体育館の壁に掛かる時計を懐中電灯で照らす。


 時刻は22時を回っていた。


 危うく帰りの電車を逃すとこだった。


 手元に転がる卒業筒と鞄を掴み取って、立ち上がった。


 「はい…すいません…ありがとうございます」


 気の効く警備員に頭を下げて、体育館を出た。


 寝起きだからって訳ではなく、なにも考える気力は残っていなかった。


 和久井…


 下駄箱も、スピーカーも、多目的コートも、和久井との思い出が、映像を見ているようによみがえる。


 目のやり場がなく、校門を出るまで、下を向いて歩いた。


 和久井は来なかった。


 来れなかった…


 和久井と出会ってから、一体何回泣いているだろう…


 きっと和久井が天国で見てたら、こんな言葉を掛けてくるだろう。


 『下なんか見ててもなにも落ちてないぞ?仮に落ちてたとしてもそれは誰かが落とした物か捨てた物だ。自分でなにかを見つけたいなら前を見ろ。そしてそれを掴み取りたかったら上を見ろ』


 和久井からもらったハンカチで涙を拭い、上を見ると、夜空には、和久井が輝かせてくれているかのように、沢山の星が夜空で光り輝いていた。

 

 正直これから生きる気力すら無かった。


 和久井と過ごした時間…


 それはかけがえのない宝物で、生涯忘れてはいけない経験だった。


 和久井との時間を無駄にしないためにも、前を見て歩こう。


 そう強く誓った。





☆5年後

 




 自宅マンションの敷地内に入ると、Uの字になったロータリーでは、引越し屋の車から、次々と荷物が運び出されていた。


 銀座ダイアモンドタワーは、都内で最大級を誇る、地上61階建ての高層マンションである。


 住民の大半は、資産家や経営者が多く、大物芸能人や政治家なども居住していた。


 「誰か越してきたみたいだな?」


 交際している清崎が、サルが見ても分かるであろう言葉を口にする。


 好きでもない男と一緒に過ごすなんて、充電の切れた、スマホの相手をするくらい、つまらなかった。


 「そうみたいね」


 関東圏内に、10店舗以上の自動車販売店を経営する清崎は、俗に言う金持ちである。


 そんな清崎でさえも、7階フロアまでしか手が出せなかったのが、銀座ダイアモンドタワーの敷居だった。


 もちろん高層階に登るに連れて、競売にかけられている金額は、億単位で上がっている。


 清崎は、大学時代に銀座の高級クラブでバイトをしていた時の、太いお客さんだった。


 歳は一回り以上離れていたけど、換気扇の油汚れのようにしつこいアプローチで、仕方なく三カ月前に交際を受け入れた。


 エントランスの自動扉の前まで来ると、サーキット場でしか聞こえないような、エンジン音をとどろかせたオープンカーが、ピットに入る勢いで、ロータリーに入ってきた。


 年度末によく見かける、道路の夜間工事くらいうっとおしかった。


 反射的に清崎の動きは止まった。


 「うわ…マ…マジかよ…」


 カードオタクが、世界で一枚のカードを見た時のような、うっとりとした目で、清崎は車を見つめていた。


 「なに?」


 「8億は下らない車だ」


 は?8億?


 色んな意味で驚いた。


 「そんな高い車あるのね」


 車に8億円も掛けるなんて、キャバクラで何百万も使う、目の前のバカと同じくらい、バカだと思った。


 「俺も雑誌でしか見たことがない。平成から令和に年号が変わる記念に、二社の高級車ブランドが、一台限りで限定コラボした、生涯一度の、世界に一台の車だ」


 花屋が花に詳しいように、酒屋が酒に詳しいように、車屋も車に詳しいようだ。


 サングラスを掛けた長身の男が、8億円の車から降りてくる。


 「お疲れ様です」


 いつの間にか、引越し屋の車の傍には、スーツを着飾った若い男が、紳士な立ち振る舞いで、立っていた。


 「夜には一度戻るから、それまでに居住空間として、不備のないような配置を取っとけ」


 「かしこまりました」


 男がカードキーを手渡すと、スーツの男は、床を舐めるような勢いで、深々と頭を下げた。


 別の高級車がロータリーに入り、男の前に停車する。


 助手席の男が深々と頭を下げ、後部座席の扉を開ける。


 映画で見るような、揺るぎない大金持ちの、立ち振る舞いである。


 当たり前のように男が乗り込むと、高級車は、マンションの敷地内を出て行った。


 「どうせ親の七光りだろ」


 七光り…


 清崎が小声で呟きながら、一つ目のエントランスを潜る。


 人生なんて不公平だと言わんばかりの、表情が滲み出ていた。


 「あんな若僧が自分の力で乗れる車じゃない」


 清崎は、自分よりあからさまにレベルの高い人種を前にすると、偏見と色眼鏡を口実に、悪態をく癖がある。


 大体こういうタイプに限って、実際に本人を目の前にすると、へつらったりする。


 二つ目のエントランスを潜ると、荷物を運搬している引越し業者が、後に続いてきた。


 エレベーターは全部で五つ設置してあり、フロアは、5工区に分けられていた。


 D工区が1階から20階、C工区が21階から40階、B工区が41階から50階、A工区が51階から60階、そしてS工区が61階と、各工区のフロアへ、エレベーターが直通する仕組みになっている。


 引越し業者がS工区行きのエレベーターの前に立つと、先程、男を見送った男が、金色のカードキーを片手に歩いてきた。


 エレベーターにボタンはなく、カードキーをセンサーに翳すと、内蔵されたICチップを読み取り、エレベーターが到着する。


 エレベーターは、住んでいるその部屋の階まで自動で上昇し、外部からの来訪者は、エントランス内に設置されている、来訪者用のエレベーターを、インターホンで開けて使用する。


 もちろん住民のカードキーは、他の工区やフロアへ自由に行き来できる仕組みになっている。


 「こんにちは」


 男が、物腰の柔らかい表情で、会釈をしてくる。


 「こんにちは」

 清崎が、車屋のお客さんに見せる笑顔で、挨拶をする。


 男は再び頭を下げると、到着したS工区へのエレベーターへ乗り込んだ。


 「あんな小僧が最上階か」


 分かりやすく捻くれた清崎が、D工区のセンサーにカードキーを翳す。


 他人と自分を比べるなんて、アリとキリギリスを比べるようなものである。


 人に興味など全くなかった。


 部屋に戻り、夕食の支度を済ませると、近所にある美容室へ向かった。


 雑誌モデル等が利用する、美容室ジェリーは、最低でも一ヶ月前の予約が、必須な人気のお店だった。


 自動扉を潜ると、受付カウンターには、昼間にロータリーで見かけた男が、店員と話をしていた。


 受付カウンターの傍にあるソファーに、腰を下ろした。


 「大変申し訳ございません。ただいま店長は、二ヶ月先までご予約が埋まっておりまして…」


 受付のチャラそうな男が、申し訳なさそうに、頭を下げる。


 「再来月の7月25日などは、いかがでしょうか?」


 「何を真面目な勘違いをしてるんだ?誰が三流店のやとわれ店長をわざわざ指名して、髪の毛を切らせろと言った?別にこの店の知名度や技術に興味など、アリンコ程もない。俺が責任者を頼むと言ったのは、話があるからここへ連れて来い、と言う意味だ。言ってることが解ったら、クレーマーじゃないから、さっさと連れてこい」


 受付の店員は、戸惑いと困惑した表情で、口をあんぐりと開いていた。


 「お前みたいなバカに話をした俺の方が、バカだったな。すまない。時間がないから解りやすく端的に説明してやる。この店の経営権は明日からこの俺になる。取り敢えず、お前の言っていた予約必須で人気絶頂の店長とやらを今すぐ呼べ。30秒以内に呼ばないと、明日からこの店に解体業者が入って、お前は就職活動することになるぞ?」


 内線電話で連絡を受けて、状況説明をされた店長が、急いでエレベーターから降りてくる。


 「店長の矢島です」


 「挨拶はいい」


 男が、指で挟んだ名刺を差し出す。


 「一度しか言わないからよく聞け。良く解ってると思うが、この店は経営難が原因で、今日の13時に競売へ掛けられた。うちの会社の下部組織が競り落とし、今日からこの店は、うちの傘下の会社が取り締まる。先に言っておくが、俺は美容や技術に興味はない。恩だの義理だのと、下らない感情で仕事を辞めたければ、今すぐ辞めてもらって構わない。それはこの店の従業員全員にお前の口から伝えろ」


 矢島は、言われている内容を理解するのに、困惑していた。


 「辞めたくない奴は残ればいい。俺は人も道具も一緒で、利用価値のある奴を、電池切れになるまで選別して使う」


 矢島は、夢なら覚めてくれと言う、4コマ漫画みたいな表情をしていた。


 「脳みそが硬くて、理解していないようだから教えてやる。会社には、自分の給料以上の働きをする奴と、給料未満の働きをする奴の二つのタイプが居る。どちらが組織に取って必要かは、清掃員のおばちゃんでも解る。それなりの金を払えば、代わりはいくらでもいる。それを忘れるな」


 矢島は話を聞きとるので、精一杯に見えた。


 「さっきも言ったが時間がないから、話を進めていいか?」


 「はい…」


 「この店の平均売上は月1,000万くらいらしいな?」


 「はい…」


 「掛かる総経費はいくらだ?」


 「それは人件費や光熱費も全て含めてでしょうか?」


 「当たり前だ。トイレットペーパーもクリップもクッションも広告費も全部だ」


 「自分が把握している分だけで、先月が722万465円です。先々月は733万5千425円です」


 「70%以上か。ちなみにお前の給料は今いくらだ?」


 「額面上だと総支給が45万円です」


 「店長のお前には、総経費を差し引いた純利の15%を手当てとして支給する。店を統括し、人をまとめて牽引する本当の資質がある奴は、それだけの対価をもらっていい。他の従業員に関しては、今まで通りの固定給プラス手当てで、担当客の売上の経費を差し引いた10%をインセンティブで付ける。金はいくらでも掛けてやるから、心配するな。まずは、自分たちの働きが対価として、自分に跳ね返ってくると言う意識と業態を、全員に共通認識させろ。そうすれば必ず売上も回復する。あとは中さえしっかりしてれば、必ず客は来る。そして万が一、お前が従業員よりも売上が少なかった場合は、その場で首だ。ちなみに今の平均売上を2倍にすることが出来たら、お前は、この会社の取締役に昇格させる」


 矢島は、頭で数字を計算している様子だった。


 「従業員へは、お前の口から自分の言葉で全員に伝えろ。最後にもう一度だけ言っておくが、どんな職であろうと、その職が存在し、成り立っている以上、金を払えば代わりはいくらでもいる。その事を忘れるな」


 「分かりました」


 矢島の表情が、つい数分前よりも、確実に引き締まっているのが、分かった。


 「俺が直接この店に来ることは、今日が最初で最後だ。もう二度とない。明日の昼に、競り落とした下部組織の天崎と言う代表者が、ここへ来る。この店のマネジメントは、実質上そいつが担う。その時に、この店がもぬけの殻になっていても、俺は別に何とも思わない。空になった水槽に、新しい魚を入れるのは、簡単だからな。時間は少ないが、よく考えて決断しろ」


 男が自動ドアを潜る時に、サングラスの下で一瞬、目が合ったような気がした。


 「た…大変お見苦しい光景をお見せして申し訳あれ…ありませんでした…いらっしゃいませ…えっと…椿様の担当は、倉橋でしたね…ただ今ご案内するので、少々お待ちください」


 矢島が柔軟な対応を装うが、普段の明るく張りのある声はどこか震えていて、現実に起きた状況に対する動揺は、隠せていなかった。


 美容室が終わると、六本木で友人が働くアパレルショップに立ち寄ってから、帰路に着いた。


 タクシーでマンションに着くと、腕時計の針は、19時を回っていた。


 ロータリーに入ると、昼間見た引っ越しは、既に済んでいる様子だった。


 エレベーターを待っていると、S工区のエレベーターが下降してくる表示ランプが、視界に入った。


 降りてきたのは、タブレットを操作する、昼間の男だった。


 「こんばんは」


 自分から挨拶をした自分に驚いた。


 「こんばんは」


 タブレットから顔を上げず、機械的に答えた男が、横を通り過ぎる。


 「ちょっと」


 男が背中を向けたまま、何も聞こえなかったかのように、エントランスを潜ろうとする。


 「ちょっと!」


 男の足が止まる。


 「なんでしょう?」


 背中を向けたまま反応する。


 「挨拶の時くらい、相手の顔を見たらどうです?」


 「挨拶してください、お願いしますと頼んだ覚えはありませんが?」



 ん…?



 「顔を見て挨拶をするのは、一般的な常識だと思います」


 「残念ながら、一般的な人生を歩んでいない俺には、分からない価値観ですね。もっとも主観だけの物差しで測った常識を押し付けて、誰が見ても忙しそうな俺に、顔を見て挨拶をしろと強要する方が、常識知らずだと思いますが?」


 ………



 「昔、あなたみたいな人と付き合ったことがあるんです」


 「はい?」


 「その男は、とにかく自分勝手で、いつも人を見下したような冷めた扱いをしていて…でも…本当は、誰よりも人が幸せになることを、心の中で考えれる、頭の良い人だった」



 「なんの話をしてるんですか?」


 「あんたの話よ」


 「だからなにを?」


 「分からないと思った?」


 「なにがですか?」



 「ねえ…」



 「そこの路地を右手に曲がった所にある、高田医院へ行って、是非相談することを、お勧めします」


 「ねえ…」



 「では」


 男が背中を向けたまま歩き出す。


 和久井……


 「私を支える根っ子や枝には、まだなってないわよ?それに…花咲か爺さんにはいつなってくれるのかしら?」



 歩き出した男の足がピタっと止まる。



 「昔となにも変わっていないのね」


 ………



 「なんの事でしょう?」


 「中身は本当に何も変わってない。身長と声は、大分変わったみたいだけどね」


 ………



 「和久井…」


 男が、大きく溜め息を吐く。


 「そう言うお前も、俺があげた香水と変わってないな。そのヒグマみたいになったパンダのキーホルダーも、いい加減洗ってやれ」


 サングラスを外した和久井が、振り返る。


 ダムの放水のように、涙が流れた。


 「気付いてたの?」


 「お前が冴えないオッサンと、晩飯が分かりそうなスーパーのレジ袋をぶら下げて、ロータリーで、野次馬している時からな」


 「そう…」


 私が間違った相手を選んでいるのを、既に見抜かれていた。


 素っ気なく応えたのは、私がそれを一番よく解っているからである。


 「手術…成功していたのね」


 なんで…


 なんで会いに来てくれなかったの…


 「100分の1を引いただけだ」


 コップから溢れる水のように、感情が溢れ出る。


 卒業式から今日まで…


 5年間…


 今も私が和久井の事を好きなのは、変わらなかった。


 「なんで…なんで連絡してくれなかったの?」


 蛇口を捻ったような涙は、止めることが出来なかった。


 「なぜだと思う?」


 「分からないから聞いているの!」


 こんな感情的になったのは、初めてかもしれない…


 ずっと死んだと思っていた大好きな人が、再び目の前に現れて、混乱しているのが、自分でも解った。


 「世の中には、分からなくてもいいことや、知らなくてもいいことが沢山ある。きっとお前も、あの日、観覧車の中で、そう思ったはずだ」


 「私は…」


 「ここは単なる寝泊まりのために用意した、セカンドハウスだ。月に数回しか使わないから安心しろ」


 安心しろって…


 身長と共に成長した和久井は、故意に言葉を被せてきた。


 「…別に…なにも心配してないわ」


 「そりゃ良かった」


 和久井の背中が、少し寂しそうに見えた。


 こんな時こそ、現実を受け入れて、ポジティブにならなきゃいけない。


 和久井から教わった技術である。


 「相変わらず忙しそうね」


 「一日で100万の遊びをするより、一瞬で1億の遊びができる男になりたいからな」


 「そう言うところも変わらないのね」


 和久井はきっと、自分の素材であるピースを、一つづつ嵌め込んで、壮大なパズルを完成させようと、しているのだろう。


 「一つだけ聞かせて…」


 「なんだ?」


 「なぜ約束したのに…あの日…約束を守れたのに…体育館に来てくれなかったの?」


 ずっと死んだと思っていた。


 何度も和久井家に足を運んだけど、誰も和久井のことは、教えてくれなかった。


 だから死んだと思っていた。


 こうしてギリギリで平常心を保ってはいるけど、現実として、正直まだ受け止めきれていない。


 「お前は…本当に抜けているな」


 え?


 あの日待っている間に寝てしまったけど、和久井は来なかった…


 「あの日のことを、細かいとこまで、よく思い出してみろ」


 あの日のこと?


 は?


 なにを言っているの…


 和久井を待っていたら寝ちゃって…


 警備員さんに起こされて…


 その場凌ぎの適当な言い訳をして…


 足元に転がる卒業筒を…


 開いた鞄に入れて…


 体育館を…


 卒業筒…


 開いた鞄…


 え?


 なに…


 「…うそでしょ…」


 和久井が、呆れたように笑う。


 「さっき、そういうところも変わらないのねと言っていたな?」


 もう自分が数分前に話した内容なんて、分からないくらい困惑していた。


 「変わることより、変わらないことの方が難しい…」


 頭が真っ白になった…


 「特に気持ちはな」


 和久井は、再びサングラスを掛けると、エントランスを潜り、歩いて行った。


 気持ちが変わっていないのは、私だって一緒である…


 急いでエレベーターに乗り、自分の部屋に戻った。


 廊下で清崎と擦れ違ったけど、もう清崎なんて、街中でティッシュを配る、おばちゃん以下の存在である。


 あの卒業式から5年…


 クローゼットのショーケースを、引っ張り出した。


 卒業アルバムの下敷きになって、へこんでいる卒業筒を取り出した。


 和久井のことを忘れたことは、一度もなかった…


 深呼吸をして、卒業筒の蓋を取った。


 そこには、折り畳まれた一枚の紙が入っていた。


 目頭が燃えるように痛い。


 溢れる涙を拭い、震える手で、ゆっくりと紙を広げた。


………


 声を漏らして泣いた。



 両手で全開にした蛇口のように、涙が流れる。


 

 そこには一言だけ……



 『約束は必ず守る』



 そう書いてあった。

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約束は必ず守る… ユヒミカ @YUHIMIKA

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