第6話

 クリスマスの朝は、七時から起きて、身支度を始めた。


 カシミヤの赤いセーターに袖を通し、ストレッチの効いた、黒のパンツを履いた。


 モコモコの白いマフラーを巻いて、マイナス4度でも、耐えられるダウンコートを羽織った。


 愛ノまのはに教えてもらった方法で、香水を両手首で擦り合わせ、全身鏡の前に立った。


 身に付けている物全てが、和久井からもらったプレゼントである。


 まだ喋ってから日も浅いのに、もう何年も前から、和久井と一緒に居る気がした。


 身も心も、和久井ウイルスに汚染されているのは、検査をしなくても分かった。


 到着の電話が鳴ったのは、九時ピッタリだった。


 玄関の鍵を閉めて、車道に出ると、見慣れない乗り物が視界に入り、思わず足を止めた。


 ダックスフンドみたいな、胴長の車が停まっている。


 映画で見たことのあるリムジン…


 この町に不釣り合いな、白いタキシードを着た相澤が、深く一礼してくる。


 「ど…どうも…いつもと雰囲気が違いますね」


 「今日はクリスマスですから」


 相澤が、笑顔でにっこり笑う。


 自転車に跨る近所のおばちゃんも、ベランダで洗濯物を干すお隣さんも、口を開けたまま停止ボタンを押されたような表情をしていた。


 相澤が後部座席の扉を開ける。


 恥ずかしくなって、隠れるように、礼を言って乗り込んだ。


 「メリークリスマス」


 サンタクロースの格好をした和久井が、オレンジジュースの入った、シャンパングラスを宙に掲げる。


 声を上げて笑った。


 「最高」


 「ここまでウケると思わなかった」


 和久井が、つけ髭をむしり取り、ゴミ箱に投げ入れる。


 「適当に座れ」


 「凄いわね」


 リビングのように広々とした空間に、どうやって設置したのか気になるシャンデリア、とても車内とは思えない空間だった。


 「一昔前は、リムジンパーティとか言って、この中で女子会や成人式を楽しんでたらしい」


 和久井が、サンタクロースの衣装を脱ぎ始める。


 咄嗟に両手で顔を覆った。


 指の隙間から、薄目で覗くと、衣装の下にスーツを着込んでいた。


 「なにをしてんだ?」


 「いないいないばあ」


 ………


 「100%スベっても平然としているお前の度胸は認めてやるが、今日は行き先を精神病院に変更するか」


 「え?」


 「冗談だよ」


 和久井が鼻で笑いながら、受話器のマークの付いたボタンを押す。


 「中華街へ向かってくれ」


 『かしこまりました』


 車がゆっくりと動き出す。


 中華街?


 「中華街はよく行くの?」


 「直接行くことは少ないが、屋敷に料理人が来るから中華はよく食べる」


 屋敷に料理人…


 和久井家にとっては、料理人も出前を頼むような感覚なのだ。


 「中華は苦手か?」


 中華など、コンビニの肉まんか冷凍餃子しか食べたことがない。


 だから、苦手も得意も、好きも嫌いも、肉まんや餃子が、果たして中華なのかも、分からなかった。


 「平気よ」


 「じゃあランチは中華で決まりだな」


 横浜の本町へ到着すると、路肩の傍で、リムジンを降りた。


 横浜の街でも、リムジンを視界に捉えた人は、物珍しそうな表情をしていた。


 「中華街は人が多いから迷子になるなよ」


 三歳児と歩くような扱いである。


 和久井が、ダウンジャケットを羽織り、そのポケットから、自分のあげた手袋を取り出して付ける。


 今頃、ゴミ処理場で燃やされている物だと思っていたので驚いた。


 「あ…うん」


 中華街入口は、写真撮影をする外国人や、キャーキャー騒ぐ若者で、いっぱいだった。


 人混みが苦手だったので、具合が悪くなりそうになった。


 「顔色が悪いぞ?店に入るまでの辛抱だから我慢しろ」


 黙って頷いた。


 「こうしておけばこの人ゴミでも逸れない」


 和久井は、来ているダウンジャケットのポケットに、私の右腕を掴んで突っ込んだ。


 今更だけど、和久井が来ているダウンジャケットにも、自分の着ているダウンコートと、同じワッペンが付いていた。


 お揃いのブランド…


 和久井の左手がポケットの中で、自分の右手と重なる。


 頭からマグマが噴火するかと思った。


 心臓が飛び出そうになり、余計に体調が悪くなった。


 「顔が火照ほてってるぞ?本当に熱でもあるんじゃないか?」


 あんたのせいだよ…


 手袋を外した手で、額を触られる。


 咄嗟に目を閉じて、冷凍庫に閉じ込められた極寒をイメージした。


 「熱は無さそうだな」


 「心配しなくても大丈夫よ」


 「顔色も体調も悪そうなんだぞ?心配して当たり前だろ」


 誰かに体調を心配されたことなど無かったので、和久井の優しい心遣いが嬉しかった。


 「もしお前の風邪やウイルスの菌が、俺に移ったらどうする?」


 くそ…


 三秒前の気持ちを返してほしかった。


 「ただ人混みに酔っただけよ」


 「じゃあ行くぞ」


 和久井が素手のまま、ポケットの中に手を突っ込み、自分の右手をギュッと握り締めて歩き出す。


 和久井の手は、暖炉の前で暖めていたかのように、暖かかった。

 

−−−−−−−−−−

 

 和久井は、向日葵ひまわりと書かれた看板の前で足を止めた。


 「ここだ」


 ガラス張りの外観には、額縁に入った芸能人の写真やサインが、沢山飾ってあった。


 「芸能人御用達のお店なの?」


 「店側が広告宣伝費を払って、取材や食レポに来させてるだけだ」


 「え?そうなの?ああ言うのってお店側がお金払ってるの?なんで和久井がそんなこと知ってんの?」


 「一度に何個もクエスチョンを付けるな。この店のオーナーは、和久井グローバルの傘下の会社に勤めてる奴だ」


 「なるほど」


 「普通に考えて、大手家具メーカーの商品や、ファストフード店のメニューを、ランキング形式で、全国ネットの番組で放映するメリットが、テレビ局にあると思うか?」


 考えてみれば、ランキングを見るために、わざわざチャンネルを変えたことはない。


 「たしかに」


 言われてみれば、番組側がスマイルになれるとは思えない。


 「ああ言うランキング形式のつまらない番組企画は、店側が推したいメニューを売れ筋として、番組に取り上げてもらうんだよ。ただの出来レースだ」


 「トレンドに敏感な視聴者や、真に受ける私みたいな人は、次の日から、早速手に取って食べてみたり、店側の思うツボになるわけね」


 「一概には言えないが、利用して利用されが、世の中で成り立つビジネスの仕組みだ。利害関係を双方に沿って考えれば、大体答えは見える」


 やはり和久井は、勉強ができるだけではなかった。


 店に入ると、マフィアが取引に使いそうな個室に案内された。


 クルクル回る丸いデーブルが、部屋の中央に設置されている。


 「今日はコース料理にした」


 和久井が、ダウンを椅子に掛けて、腰を降ろす。


 「あ…うん」


 向き合った状態で、椅子が二脚用意されていて、和久井の正面に、腰を降ろす形になった。


 チャイナドレスを着た女性が、頭を下げて部屋から出て行く。


 「カンフーの達人みたいだな」


 「あんな格好してる人、テレビゲームかアクション映画の中でしか見たことないわ」


 「自慢じゃないが、今までテレビゲームは一度もやったことがないし、アクション映画も一本も見たことがない」


 本当に自慢にならないと思い笑った。


 料理は、残量をカメラで確認しているかのように、次々と絶妙なタイミングで、運び込まれた。


 プリッとした海老チリ、ジュワッと肉汁の溢れる肉団子、美味しいのかよく分からなかったフカヒレ、デザートの杏仁豆腐が出てくるまでは、夏休みようにあっと言う間の時間だった。


 「美味しかったか?」


 「最高だったわ」


 「そりゃ良かった」


 「ありがとう…ご馳走さまでした」


 両手を合わせて、和久井に頭を下げた。


 店を出ると、先ほどよりも、人で賑わっている気がした。


 路上には、土産物店に数珠屋、雑貨屋にタロット占い店まで、建ち並んでいた。


 「色んなお店があるのね」


 「金になれば何でもやる土地なんだろ」


 中華街の出口が見えると、変な格好をしたおばさんに、声を掛けられた。


 「おニイさん、ちょとだけ待てほしいね」


 片言の日本語は、間違いなく本場の中国人だった。


 女が和久井の左手を強引に奪い、勝手に手相を見始める。


 「おニイさん、スゴいよ…あなたカナラず成功するね」


 「そんなことは、占ってもらわなくても分かってる」


 思わず笑いそうになった。


 和久井は、相手にするわけでもなく、左手を払った。


 「はい」


 女が和久井に手の平を差し出す。


 「千円ね」


 え?


 まさに和久井が、今さっき言った通りの、何でもお金にしようとする出来事が、目の前で起こった。


 「面白い」


 和久井が鼻で笑いながら、女の左手を奪い手相を見る。


 「ろくな死に方しないな」


 顔を引きつらせた女が、左手を払い退ける。


 「これで千円はチャラだな」


 和久井は、声を出して笑った。


 女は、唇を噛み締めて分かりやすく悔しがると、勢いよく背中を向けて人混みに消えて行った。


 「占いなんて所詮は推論に過ぎない。だから占い師は、曖昧なグレーゾーンを小出しにして、相手を探る。核心を突くような断言をしないのは、分からないからできないんだ。それに未来なんて誰にも分からないから、好き放題言える。過去を的中させる占いも、テレビでしか見たことがないのが答えだ。ゲストの身辺調査を予めすれば、誰でもできる」


 「夢も希望もないのね」


 しまった…


 また和久井を刺激するような反応をしてしまった…


 「夢を持つことを、お前は大事だと思うか?」


 え?


 「夢を持つことは大事でしょ?頑張る原動力にも、目標を達成するための過程にもなるじゃない」


 「夢は生きてさえいれば、誰でも持てる。本当に大事なのは、夢を持つことで、生きている現実を実感できると言うことだ」


 深い…


 マリアナ海溝くらい深過ぎる…


 「いつも考え方が、人とは違うわね」


 「お前みたいに、正面からしか物事を見れない奴が、世の中に多いだけだ」


 「それは素直とか、正直って意味でいい?」


 「そもそもその捉え方が、捻りのない単純な考えってことだ」


 和久井が空き缶を拾い、目の前に突き付けてくる。


 「どんな形に見える?」


 「どんな形って…長方形よ」


 「じゃあこうしたらどうだ?」


 和久井は、地べたに空き缶を立てて置いた。


 誰が見ても円形である。


 「円形…」


 「だろうな。俺は何でも一度立ち止まるようにしてる。それは前から見た長方形を、上や下から円形に見るためだ。物事は、角度を変えるだけで主観から客観に変わる。色んな観点から物事が見えるようになれば、選択肢が増える。選択肢が増えるってことは、それだけ可能性が増えるってことだ。あとは消去法で、自分が導き出した答えを摘めばいいだけだ」


 勉強になるくらい、啓発的な考え方だった。


 「そう言うのって常に意識してんの?」


 「お前は毎日、歯を磨く時に、歯を磨かなきゃと意識してんのか?」


 「別に意識はしてないわ」


 「それと一緒だ。子供の頃に、虫歯になるから歯を磨けと教育を受ける。嫌々ながらもやって、それが自然と頭と体に染み付く。人間は、必ず習慣化できる便利な生き物だ。最初は意識していても、続けていれば、必ず頭も体も自然と働くようになる」


 「そう言うのは、なんて言うのかな?知識?精神論?心理学?そう言うのは、どこで勉強してんの?」


 これまで隠していた、和久井に対する興味をあらわにした。


 「言っておくが、俺は勉強が大嫌いだ。ただ必要だと思ったことはやる。それだけだ」


 和久井と居ると、勉強にも成長にもなることが、実際多かった。


 再び乗り込んだリムジンは、みなとみらいの観覧車の見える橋で停まった。


 「降りるぞ」


 「はーい」


 手を挙げて、開けられた後部座席を降りた。


 橋の歩道を歩くカップルや、子供連れの家族の視線も気にならないくらい、いつの間にか楽しんでいた。


 横浜市は隣だけど、みなとみらいに足を踏み入れたのは、小学校の遠足以来だった。


 「なにこれ?」


 一組のカップルが、お手玉を投げて、ピラミッド状に立てられた空き缶を、倒そうとしていた。


 「見りゃ分かるだろ。空き缶に目掛けてお手玉を投げてる」


 彼氏の方が、6缶ある空き缶の4缶を倒し、景品として、熊の縫いぐるみをもらっていた。


 棚には、A賞からE賞までの景品が並んでいた。


 前に、子供が親とのキャッチボールから始めて、野球を覚えると言う、和久井の比喩を思い出した。


 「やってみてよ」


 「お前俺が誰だか分かってんのか?」


 「和久井でしょ?」


 そうだ…


 和久井は、あの世界的企業…和久井グローバル代表取締役の実子である。


 こんな凡人のゲームに興味がある訳がない。


 「全部倒してやる」


 え?


 「俺はメジャーリーグを特別席で見に行く男だぞ?日本の野球界で伝説を作った選手のサイン入りバッドも持ってる」


 ん?


 どうやら入れてはいけない、和久井スイッチを押してしまったらしい。


 「じゃあその自信を実際に見せて」


 「そこまで言うなら仕方ない。クリスマスだし、特別に見せてやろう」


 和久井が500円玉をスタッフに渡す。


 笑顔で受け取ったスタッフは、ザルの上に乗った、四つのお手玉を和久井に手渡した。


 和久井が、深呼吸をして大きく振り被る。


 自信通り、プロも顔負けのピッチングフォームだった。


 しかしもの凄いスピードで手を離れたお手玉は、狙いを定めた空き缶ではなく、かすりもしない、明後日の方向へ飛んで行った。


 吹き出しそうになるのを、両手で必死に堪えた。


 「肩慣らしはこんなもんだな」


 和久井が、右肩を上げ下げして回す。


 「肩慣らしで玉を無駄にする余裕があるなんてさすがね」


 「気が散るからいちいち口を挟むな」


 肩を揺らしながら笑いを堪えた。


 再び勢いよく放ったお手玉は、本当に狙っているのか?と言わんばかりの的外れな方向へ飛んで行った。


 もしかしたら和久井は、運動音痴なのかもしれない。


 考えてみたら、和久井は体育の授業中も、校庭のベンチでタブレットを操作していた。


 既にザルの上が空になった和久井は、二枚目の500円を払っていた。


 典型的な負けず嫌いの和久井は、自分が納得するまで、お手玉を投げ続けるだろう。


 「ちょっとトイレ行ってくるね」


 長くなりそうだと思い、一言声を掛けたが、和久井の耳は、観客の声など入ってこない、マウンド上のピッチャー状態になっていた。


 トイレに向かう途中で、似顔絵を描いてくれるイベントブースの前を通った。


 鏡の前で慣れない化粧を直すのに、時間が掛かってしまい、トイレから出ると、和久井は疲れ切った後ろ姿で、ベンチに座っていた。


 「ごめん遅くなっちゃって」


 和久井は、コールド負けで惨敗したような表情をしていた。


 「ほらよ」


 ポケットから、小さなパンダのキーホルダーを取り出した。


 これはたしかE賞…空き缶二つ以下の残念賞である。


 それでも、この小さなパンダは、A賞や特別賞よりも嬉しかった。


 「ありがとう」


 小さなパンダを両手で大事に包み込んだ。


 「ねえ」


 「なんだ?」


 「あれやりたい」


 似顔絵のイベントブースを指差した。


 「なんだあれは?」


 「似顔絵を描いてくれるんだって」


 「似顔絵なら、俺が一流の画家を用意してやる」


 「ここに一緒に来た記念にここで描いてもらいたいの」


 「一緒に?一緒にって俺もか?俺も一緒に描いてもらうのか?」


 「当たり前でしょ」


 和久井が、毎回試験で一桁点を取る、落ちこぼれのような、溜め息を吐く。


 「嫌なの?」


 「別に嫌とは一言も言ってない」


 和久井が、危険を察知したような対応をする。


 「だったら決まりね」


 和久井の腕を掴み、イベントブースに向かった。


 「これは私が払う」


 和久井がポケットから出した財布を、両手でポケットに押し戻した。


 和久井はブツブツと小言を言いながらも、真面目な表情で、大人しく椅子に座っていた。


 トイレに向かう人の視線が視界に入ったが、リムジンを降りた時の注目に比べたら、なんてことはなかった。


 似顔絵の作成は、20分程度で終わった。


 白の額縁に飾られた似顔絵には、小さなパンダを大事に抱えた自分と、笑顔の和久井が描かれていた。


 似てるとは、お世辞にも言えなかったが、真顔だったはずの和久井を笑顔で再現したり、顔の特徴的なパーツを強調した絵心の才能は、お金を払うべきプロの腕前だった。


 画家の女性にお礼を言って席を立った。


 「はい」


 和久井に似顔絵が入った紙袋を差し出す。


 「なんだ?」


 「私からのクリスマスプレゼント」


 「これを部屋に飾れと?」


 「嫌ならタンスにでも眠らせて。クリスマスっぽいことしてみたかっただけだから」


 「仕方ない。魔除まよけには丁度良さそうだから、飾っといてやる」


 和久井が紙袋を受け取る。


 どんな言葉だろうと、プレゼントを受け取ってくれたことが嬉しかった。


 「次はアレに乗る」


 和久井の指差す方向には、観覧車があった。


 「え?」


 高所恐怖症の自分が、観覧車に乗る根性など、ある訳がない。


 「私は遠慮しとくわ」


 「一人で観覧車に乗るバカがどこに居る?銅像のような状態に20分も付き合わせたお前に、断る権利はない」


 くそ…


 ここまでは予測できなかった。


 「罰ゲームの企画でバンジージャンプする前の、売れない芸人みたいなこと言うなよ?」


 「どう言うこと?」


 「高所恐怖症なんて言うつもりじゃないだろうな?」


 「高い所が怖くてなにがいけないのよ?」


 「俺がいついけないと批判した?俺が一緒に乗るんだから安心しろ」


 そう言う問題ではない…


 今度は、逆に腕を引っ張られて、観覧車に連れて行かれた。


 観覧車は似顔絵と違って、長蛇の列ができていた。


 和久井は出会った当初、数分歩くのにもタクシーを使おうとしていた。


 あの頃だったら、まず並ばないし、待たなかっただろう。


 金銭や権力をかざし、どううれば問題解決できるかを、持ち前の迅速な思考で導き出し、行動に反映させていた。


 そんな和久井が、文句の一つや二つで、我慢ができるようになっていた。


 自分も変わったが、和久井も変わった。


 「たかだか観覧車に何でこんな人が並ぶんだ?このペースだと明後日になっちまう」


 明後日はあんたの投げたお手玉だよ!とつい突っ込みそうになった。


 「あんたが乗りたいって言い出したんでしょ?」


 「いちいちケンカ越しになるな。アトラクションの待ち時間でケンカなんて、短気で単細胞のカップルだと思われる」


 カップル…


 卒業するまでの期間限定…


 「そうね…ごめん」


 乗車までの待ち時間は、15分程度と意外と短く、これまでお互いが見たミステリー小説の話で、あっと言う間に順番は回ってきた。


 低速で動く観覧車の開いた扉に、和久井が乗り込む。


 中から伸ばす和久井の手に捕まり、恐怖を押し殺して乗り込んだ。


 座席に座ると扉が閉まり、観覧車はゆっくり上昇を始めた。


 深呼吸をして、気持ちを落ち着かせた。


 「なんてことなかっただろ?」


 「ま…まだそんなに高くないしね」


 「すぐ慣れる」


 「だと良いけど」


 「お前は卒業したらどうするんだ?」


 和久井なりに、気を使って気分転換をさせてくれてるのだろう。


 「取り敢えず、進学してバイトするわ」


 「バイト?」


 「来年は、愛ノ葉も受験だし、自分の生活費くらいは、自分で稼がないと」


 「そうか」


 「和久井は?有名大学からのオファーもあるって噂よ?もう進学先は決めてるの?」


 「大学には行かない」


 え?


 衝撃過ぎて、反応するのにも、言葉が出なかった。


 「大学に行かないのは、エスカレーター式に描いている明確な目標があるからだ」


 「エスカレーター式?」


 「と言うよりも、四年間の大学生活が、俺の描いている未来に無駄な時間でしかない」


 和久井にとっての大学四年間は、夢の実現に必要のないステップなのだろう。


 「お父さんの会社を継ぐの?」


 「直接的に世話になるつもりはない。だが利用はしようと思ってる。親の七光りも、使わなきゃ光は差さないからな」


 「どうするの?」


 純粋に気になった。


 「和久井グローバルはホールディングスだ。まずグループ企業として子会社を創る。和久井グローバルに籍を置くのが、俺の言う利用だ。あれだけ大きい組織が分母なら、できることが大幅に増える。体力と実績を付けたら和久井グローバルを飲み込んで、俺が代表取締役になる。子会社が親会社を飲み込んで、大きくなったらいけないなんて、法律はないからな」


 「壮大な夢ね」


 「夢じゃない。目標への過程に過ぎない」


 「じゃあ夢は?」


 「子供に世界一の会社を残すことだ」


 もう同い年の同級生が真剣に語るとは、とても思えない夢である。


 「人間の脳みそで思い描けるシナリオやビジョンは、明確化されてれば、必ず現実化できる」


 「本当凄いよ…和久井って」


 「別に凄くない。俺が言ってることも、お前が言ってることも、なにも変わらない」


 「私?」


 「卒業したら家族や自分のために、バイトをする目標も、内容が違うだけで根本は、俺となにも変わらない」


 「スケールが違い過ぎるわよ」


 「スケールの大きさは問題じゃない。大切なのは、叶えられる目標だと信念を持つことと、目標の達成に必要な過程を可能性として紐解くことだ」


 難しかったが、なんとなく言いたいことくらいは分かった。


 「今ある結果は、パズルの一部に過ぎない。どのパズルに狙いを定めて、はめて行くか決めるのは自分だ。それが分かれば、車も走らせられるし、飛行機も飛ばせる」


 初めて鉄の塊を道路に走らせたり、空に飛ばしたりした、偉人を差しているのだろう。


 「見てみろよ」


 和久井が窓の外に目をやる。


 気付くと、観覧車は頂上付近に、差し掛かっていた。


 和久井との話に夢中になり、観覧車に乗っていることを忘れていた。


 教室では鎌倉大仏だと、ついこの間までバカにしていた相手が、大嫌いな高い所を忘れさせてくれるくらい、引き付ける魅力を持っていたとは…


 「きれい…」


 夜の横浜の街が、一望できるキラキラした夜景は、ハガキの裏で見るのとは、訳が違かった。


 「ありがとう…」


 「高い所からこうして景色を眺めると、自分が如何にちっぽけな存在か分からないか?」


 「そうね…世の中には、まだ知らない事や、知らない街、知らない人が沢山…」


 「やろうとしてできないことなんて絶対にない。やろうとしなきゃできる訳がないからな」


 絶景を眺めながら、自身の将来を見据えている和久井の目は、横浜の絶景に負けないくらい輝いていた。


 「和久井…」


 「改まってなんだ?」


 「卒業しても和久井と一緒に居たい」


 自分はなにを言ってるんだ…


 時間がリモコンで操作できるなら、今すぐ巻き戻したかった。


 和久井は無表情のままである。


 「ごめん…なんでもない」


 「お前にそう思ってもらえただけで、俺は心置きなく闘える」


 え?


 闘える?


 誰と?


 今度は、和久井が自分よりも、おかしなことを言い出した。


 「なに言ってんの?」


 「俺は生まれ持った持病がある。今年の四月に医者から、もう長くないと宣告された」



 は?



 ………………



 有り得ない…


 告白が急過ぎる…


 さっきまで話していた夢や卒業後の目標は?


 「じょ…冗談やめてよ…この嘘つき」


 「嘘は裏切りと言う代償を払って、なにかを守ると言う対価だ。こんな嘘を吐いて俺が何を得られる?」


 え?


 うそでしょ?


 信じられない…


 これまでの和久井の言葉の一つ一つが頭を駆け巡る。


 夢を持つことで生きていると言う現実の実感…

 医学の本を読んでいたのも持病について…

 体育の授業を受けれなかったのも…



 涙が溢れるのに時間は掛からなかった。


 「せっかくのクリスマスにそんな悲しい顔をするな」


 いつものように、あんたのせいよ…とは思えなかった。


 「卒業式の日に手術する。成功する確率は1%らしい。失敗したら、そん時は…」


 和久井の心境になったら、胸が張り裂けそうになった。


 こんな状況なのに…


 「お前には、俺の人生での最後になるかもしれない高校生活の思い出創りの相手になってもらった。人間は不思議だな。俺もお前も最初はバカにし合って、あら探しして、でも一緒に過ごす時間と思い出に沿って、良い所が見えてきて、気付いた時には本気になってる。最初はただの興味だったお前のことも、こうして喜ばせたいくらい好きになった」


 プレゼントされた化粧品セットも…


 ずぶ濡れで聞いた校内アナウンスも…


 乗り方も分からなかった電車も…


 完全に主導権を握られた家庭訪問も…


 リムジンも…


 サンタクロースの格好も…

 中華街も…

 似顔絵も…


 一生懸命取ってくれたパンダのストラップも…


 短期間だったが、全てが初めてで、楽しかった思い出…涙は止まることを知らずに流れた。


 「返すの忘れてたな」


 和久井が、ポケットからハンカチを取り出して、溢れ出る涙をき止める。


 ハンカチを奪い取って、思いっきり鼻をかんだ。


 「大胆だな」


 和久井が笑顔で笑う。


 あんなこと言わなきゃ良かった…


 聞きたくなかった…


 なにも知らないで目の前から消えてくれた方が良かった…


 「本当に…自分勝手ね…生まれてきたことを…幸せだと思わせてやる…って言ったくせに…」


 「お前の幸せは俺の幸せ、俺の幸せはお前の幸せ、そうなればいいと思ったんだ」


 「それも自分勝手よ…」


 「謝らないぞ?」


 「知ってるわよ」


 和久井らしくて泣き笑いした。


 「椿…」


 「なに…改まってどうしたのよ?」


 数分前の同じ台詞を、泣きながら言い返してやった。


 「ありがとな」


 塞き止められていた、目元のシャッターが開き、再び洪水が起こる。


 「こ…これ以上…泣かせるようなこと喋らないでよ!」


 「分かった分かった。落ち付け。ほら、もう少しで降りるぞ」


 初めて和久井が、動揺しているように見えた。


 真っ赤になっているであろう目を開けると、観覧車は、降り口付近まで下降していた。


 扉が開くと、和久井に手を取られ、スタッフの誘導に沿って観覧車を降りた。


 観覧車を降りてからも、お互い握った手を離すことはなかった。

 

−−−−−−−−−−


 地上44階建ての横浜スカイホテルは、雑誌でも特集を組まれるような、みなとみらいのシンボルである。


 上層階は、飛行機をモチーフに建設されていて、下から見上げると、屋上に飛行機が停まっているように見えた。


 「幻想的な建物ね」


 「そう言えば、お前のお父さんに少し用事があるんだ。電話を掛けてくれないか?」


 「用事?」


 なにを企んでいる…

 和久井が裕己ひろみに用事などある訳がない。


 「用事ってなに?」


 聞いても無駄だと分かっていたが聞いた。


 「三分で終わる」


 三分?


 和久井が右手を差し出す。


 「分かったわ」


 三分で終わるなら、挨拶程度だろうと思い、裕己に電話を掛けて手渡した。


 「ご無沙汰しております。和久井です。先日は、お邪魔させて頂き、ありがとうございました。本日は、突然のお電話申し訳ありません」


 和久井が電話越しに頭を下げる。


 「はい。とんでもありません。今日はお父さんにお許ししていただきたいことがあり、お電話をさせて頂きました」


 お許し?


 「単刀直入にお聞きさせていただきます。今日一日、クリスマスの夜を、椿さんと過ごしてもよろしいでしょうか?」


 今更なにを言っているのか?


 裕己には、和久井とクリスマスを過ごすことを伝えてある。


 「はい。そう言うことになります」


 裕己がなにを聞いたのか気になった。


 「ありがとうございます。必ず無事にご自宅まで送り届けると、お約束致します」


 和久井の言葉だけでは、内容が掴めなかった。


 「はい。ありがとうございます。それでは失礼致します」


 和久井が電話を切って、スマホを返してくる。


 「今更どうしたのよ?」


 「許可が降りたから、今日はここに泊まる」


 和久井が、横浜スカイホテルを顎で差す。


 「え?は?泊まる?」


 思わず驚いて、声を張り上げた。


 「なにか問題でもあるか?」


 和久井は何事も無かったかのように歩き出す。


 「問題しかないわよ」


 「明日は日曜日だし、正式にお父さんの許可も降りたぞ」


 そう言う問題ではない…


 「なにが問題なんだ?」


 「なにが問題?え?それは…えっと…色々あるわよ」


 「色々って何だ?替えの下着なら心配するな。ここは一流ホテルだから、有名ブランドがテナントでいくつか入ってる」


 だからそう言う問題ではない…


 「問題が無いなら行くぞ」


 和久井は、正面玄関から、横浜スカイホテルの自動ドアを潜った。


 本当に…

 とことん自分勝手である…


 エントランスを潜ると、空港のようなロビーが広がっていた。


 ホテルマンも、スーツ姿ではなく、パイロットのような格好をしていた。


 受付まで行くと、キャビンアテンダントのような受付嬢が、二名揃って頭を下げて出迎えた。


 まるでハローウィンの仮装パーティーである。

 「和久井だ」


 「チェックインの和久井様ですね。少々お待ちください」


 いつ予約したのよ…


 受付嬢が画面を見ながら、パソコンを操作する。


 「4102号室、2名様でご予約の和久井様のご確認が取れました。当ホテルのご利用誠にありがとうございます」


 「使うのは初めてじゃないから、余計な説明ははぶいてくれ」


 「かしこまりました。チェックアウトは明日のAM9時までに、お願い致します」


 受付嬢が、部屋のカードキーを手渡す。


 「本当は最上階が良かったんだが、急すぎて部屋が取れなかった」


 高校生が、このホテルの予約を取れること自体が、普通に考えて有り得ない。


 「本当に泊まるの?」


 「有らぬ変なことを妄想するな。心配しなくても寝る部屋は別だ」


 有らぬ変なこと…?


 考えただけで、鼻血が噴射しそうになった。


 「妄想なんてしてないわよ」


 ホテルマンに案内され、エレベーターで41階まで上昇した。


 和久井は、ポケットから一万円を出して、ホテルマンの胸ポケットにしまった。


 「ありがとうございます」


 ホテルマンが深々と頭を下げる。


 エレベーターを降りると、左右に長い直線の廊下が続いていた。


 おそらく外観だと、飛行機の羽根部分に当たる場所に違いない。


 深々と頭を下げるホテルマンに見送られ、左手の廊下を進んだ。


 和久井は4102号室の前で立ち止まると、部屋の扉にカードキーをかざした。


 扉を開けると、廊下の灯りが、杖を振って魔法を使ったかのように、リビングへ向かい、順番に点灯していった。


 和久井が、テーブル上のリモコンを押すと、自動でカーテンが開いた。


 全面ガラス張りの景色は、観覧車からの景色とは比べ物にならないくらいの、素晴らしい夜景が広がっていた。


 「凄い…」


 美しく輝きを放つ、万遍ない光が眩しく、感動で涙が再び溢れた。


 こんな景色を見られるのは、最初で最後だろう。


 「今日一日で嫌いだった高いところが、好きになったんじゃないか?」


 「ほんと…」


和久井が付けたテレビでは、クリスマスの特番で、サンタクロースの仮装をした、アーティストやタレントの、クイズ番組がやっていた。


 「今日は楽しかったけど疲れたな」


 「本当…色々疲れちゃった…」


 観覧車での話を、もう一度だけ聞こうか迷ったが、聞いたところでどうにもならないので、思い留まった。


 「お前の部屋はあっちだ」


 和久井は、リビングから見える扉を顎で差した。


 「俺は疲れたからシャワーを浴びて早く寝る。必要な物は、ルームサービスを使え。タブレットはそこにある」


 再び顎を使った和久井の先には、充電器に立てかけられたタブレットが置いてあった。


 和久井がバスルームに消えて行く。


 気を紛らわせようと、クイズ番組に挑戦しようとしたが、どうしても観覧車でのことが、頭から離れなかった。


 

−−−−−−−−−−



 扉を閉める音で目が覚めた。


 テーブルの上で腕を枕に、うたた寝をしていたらしい…


 どれくらいの時間が経ったのだろうか?


 クイズ番組は、ニュースに替わっていた。


 ボーっとしていると、和久井がバスローブ姿で、頭にタオルを巻いて、リビングに入ってきた。


 「な…なんて格好してんのよ!」


 寝起きで無くても、私には刺激が強過ぎる光景だった。


 「裸の上に着てる訳じゃないんだから、そんなに騒ぐなよ」


 「そ…それにしたって…」


 「俺はもう寝る。明日の朝は8時にここを出るから、寝坊するなよ」


 「あ…うん」


 和久井は右手を上げて、リビングを出て行った。


 ルームサービスで頼んだ着替えが届いたので、シャワールームに向かった。


 そのまま洗面所で髪を乾かしてから、充てがわれた寝室に入り、頭からベットにダイブした。


 枕で圧迫して声を押し殺し、取り敢えず意味もなく叫んだ。


 少しだけスッキリした気がした。


 仰向けになって大きく息を吐いた。


 夢の中へ行くには、時間との戦いになりそうだった。


 再び大きく息を吐いて、目を閉じた。


 羊が一匹…羊が二匹…羊が三匹…


 はあ…


 このまま羊を数え続けたら、五万匹は数える自信があった。


 くそ…


 そっと部屋を出て、忍び足で和久井の部屋に行った。


 「和久井」


 部屋の扉の前から、小さめの声で呼んでみたが、返事はなかった。


 扉の隙間からも、電気は消えてるように見えた。


 もう寝たんだ…


 ゆっくりドアノブを回して、部屋の扉を開いた。


 寝起きドッキリのリポーターになった気分で、ドキドキした。


 「デリカシーのない奴だな」


 声を上げて驚いた。


 「心臓が止まるかと思ったわ」


 「返事もしてないのに、黙って開けるな」


 「デリカシーを試すような人に、デリカシーがどうのなんて言われたくないわ」


 「お前が逆ギレするな」


 和久井が、呆れ笑いする。


 「起きているなら返事くらいしなさいよ」


 「なんだ?」


 「え?」

 

 用事などなかったので、そんな質問の答えは、用意してなかった。


 「口喧嘩でもしに来たのか?」


 「そんなところね…寝れないのよ」


 正直に言った。


 「そんなこと知るか」


 和久井が再び呆れたように鼻で笑う。


 「眠くなるまでここに居てもいいでしょ?」


 勝手に部屋の角で壁に寄り掛かり、体育座りした。


 「もう座ってんだろうが」


 掛け布団の下から、剥いだ毛布を投げられる。


 「目の前で風邪でも引かれたら、たまらないからな」


 「ありがとう」


 和久井のこういうところを、好きになってしまったのだ…


 毛布は、和久井の体温で温められていた。


 「最初に私に言ったこと覚えてる?」


 「最初に私に?」


 「初めて教室で喋った日よ。色々言ってたじゃない」


 「俺の記憶力が人工知能だって言われてるのは、お前もよく知ってるだろ?」


 初耳である…


 誰に言われてるの…


 「じゃあさ…俺にとっておまえは最初で最後の女で、私にとって和久井は最初で最後の男ってやつ…あれ…どういう意味?」


 あの時は分からなかった…


 しかし今思えば、あの時点で和久井は、死を覚悟していたという事になる…


 「そっくりそのままだ。もし意味が分からないなら、もう一度ひらがなから、日本語の勉強をしろ」


 「私にとって最後の男って言うのが、分からないのよ」


 「そうでありたい。と言うよりは、この先なにがあっても俺はお前の中で、ずっと生き続けるって意味だ」


 なるほど…


 そう言う考え方なら、意味は理解できる。


 「お前もいちいち細かい女だな」


 細かい性格に関しては、お互い様じゃない…


 「じゃあさ…その女ってやつになりたい」


 「もうなってるだろ」


 「違くて…その…アレよ…付き合ってるならさ…私知らないのよ…」


 私は一体なにを言っている…


 高所恐怖症を克服したからと言って、頭の中までハイになるなんて、完全に自分を見失っていた。


 「おい」


 二文字で和久井が怒っているのが解った。


 「え?」


 「俺の女なら、安売りの特売品みたいな扱いを自分からするな」


 和久井の言う通りだった。


 自分が間違っていた…


 「ごめん…どうかしてたわ…色々考え過ぎておかしくなっちゃったみたい」


 書いたラブレターを返された時くらい、気まずくなった。


 毛布を剥いで立ち上がる。


 まともに和久井の顔を見れなくなっていた。


 「だがこれだけは言っておく。いつになるか分からないが、必ず俺がお前を女にする」


 「だと私も嬉しいわ」


 畳んだ毛布を、和久井の掛け布団の上に、そっと置いた。


 「おやすみなさい」


 顔を見ることなく、部屋の扉をゆっくり閉めて、自分の部屋に戻った。


 和久井の言葉通り、私との将来が、本当に生きるかてになっているなら、こんなにも嬉しいことはない。


 安売りするなという言葉も、裏を返せば大切に扱ってくれたことになる。


 自分をバーゲンセールに出品しそうになったのは、本気で後悔したものの、和久井の言葉を聞けて、濁っていた水が透明になったような気がした。


 将来どうなるかは分からない…


 厳密には、和久井の手術が、どうなるか分からない…


 けれど一つだけ分かったことがあった。


 和久井が教えてくれた気持ちと同じで、私もそうでありたいと本気で思ったこと…


 それは、人を本気で好きになると言う、初めての気持ちだった。

 

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