第5話
翌朝は早朝5時に起きた。
動画サイトのメイク術を参考に、生まれて初めての化粧をした。
何度顔を洗ったか分からなかった。
途中で愛ノ葉が起きてきて、化粧道具の使い方を教えてもらい、なんとか人前に出られるレベルの化粧になった。
登校時の通学路で、私を見る在校生の反応に最初は戸惑ったけど、元々自分に対して無関心な性格が幸いし、他人の目には、すぐ慣れた。
既に校内では、私が和久井と付き合ったという、衝撃的なニュースが、絶対に出回っている…
誰しもが、理解不能な悲報だろう。
下駄箱に着くと、自分の上履きが片方だけ無くなっていることに気付いた。
昨日和久井と帰る時に、しまったのは、間違いなかった。
仮に他人の上履きを持ち帰るような変人が居たとしても、自分の上履きを片方だけ持ち帰るような物好きが居るとは思えない…
それに片方だけって…
故意に隠されたという答えが頭を過ぎる…
こんな光景を、つい最近の学園ドラマで見たような気がした。
来客用のスリッパを履きながら、溜め息を吐いた。
教室へ向かう途中で、トイレに寄った。
扉を閉めて中に入ると、便器に座る前に、数人の足音が聞こえた。
扉の開け閉めの音も聞こえず、不自然なくらい、やけに静かだった。
水道の蛇口を、全開に捻る音がする…
直感で嫌な予感がし、咄嗟に鞄の中から、折りたたみ傘を出して差した。
しかし数分待っても、なにも起こらなかった。
気付くと水道の音も、扉の外にあった人の気配も無くなっている。
考え過ぎか…
恐る恐る折りたたみ傘を構えたまま、扉を開けると、やはり水は降ってきた。
折りたたみ傘がなかったら、今頃、滝に打たれた修行僧みたいになっていた…
水が降り切ったことを確認して、上を見上げた。
紐で吊るされたバケツが逆さまになって、ポタポタと水滴を垂らしている。
水を勢い良く長時間出していたのは、扉を開けた際に、バケツが引っ繰り返る仕掛けを作る時に出る音を、消すためのカモフラージュ…
テコの原理を利用した、なんとも手の込んだ仕掛けである。
女の腐ったような性格とは、まさにこのことだった。
私が半ば…いや…
間違いなくイジメの対象になったことを、悟った。
自分でも意味深な、笑いが出た…
昨日までは、何の変哲もない学校生活を送っていた…
特に楽しいことも、嬉しいこともなかったけど、別にそれで良かった。
少なくても、上履きを隠されたり、バケツの水が降ってくることは無かった…
私は運転手も居なければ、ファースト車両じゃなくてもいい…
こんなことになったのは、間違いなく和久井のせいである。
もう教室に行く気はなかった。
保健室に行こうとしたけど、この時間なら屋上には誰も居ないと思い、屋上に向かった。
屋上のベンチで横になって空を見上げると、海のような青空が広がっていた。
ゾロゾロと聞こえる足音も気にせず鳥を眺めていると、声を掛けられた。
「ちょっと!」
降りむくとそこには、和久井ファンクラブの残党と、和久井を狙っていたと思われる女子が、同盟を組んで、仁王立ちしていた。
ざっと見積もっても、10人以上は居た…
誰でも一度は、ドラマで見たことのあるような、シチュエーションである…
どう見ても、和久井との関係を祝福してくれそうには見えなかった。
嫌がらせをしてきたのも、このグループの一味ね…
「あんたさ!」
尻相撲なら百戦錬磨と言わんばかりの巨漢が、一歩前へ出る。
最近ニュースで、相撲界での不祥事が続いているせいか、やけに気合が入っているように見えた。
昨日、私の机を窓際まで押し出したのも、この相撲取りだった。
「なに?」
体を起して聞いた。
正直全然怖くはなかった。
想定内の展開だったけど、後ずさるつもりも、一ミリも無い。
ここで背中を向けたら、逃げることになる。
私は良いこともしていないけど、悪いこともしていない…
漫画やドラマのような、イジメられ役になるなんて、
「どんな汚い手を使って和久井くんに近寄ったか知らないけど、このままだと後悔することになるわよ?」
相撲部屋の親方のような貫録である。
「わざわざ揃いも揃って遠回しに脅迫する方が、充分汚いと思うけど?」
相手が何人だろうと、どんなイジメを受けようと絶対に負けない…
勉強もスポーツも、いつだって一人で頑張ってきた。
「面白いじゃない」
「たかだか期間限定の彼女よ?」
自分で言った後で、余計に刺激するようなことを言ってしまったと思った。
「昨日まで根暗だったあんたみたいなデビューが、和久井くんの彼女だっつーのが気に食わないっつってんの!」
腹巻きを足首に巻いた、化石のような渋谷ギャルが鼻で笑う。
『お前はビデオテープの時代へ帰れ』と突っ込みそうになった。
「在校生の女子が、あんた一人だったとしても、和久井があんたを選ぶことは、絶対にないわね」
「はあ?」
必死に対抗した結果が『はあ?』だけなんて、たかが知れてる。
「デビューって言われても、なにかをデビューした覚えはないけど?それが化粧を差しているなら、これは和久井がした方がいいって言うから、仕方なくしてるだけよ」
「和久井和久井って、あんた和久井くんの何なのよ?」
だからさっきから期間限定の彼女だと言ってるじゃない…
「私が和久井の彼女になることに、不平不満があるなら、直接和久井に言ってもらえない?」
血管を探すのが難しいはずの巨漢のこめかみが、一瞬だけ浮き出たような気がした。
「先に言っておくけど、私が和久井と喋ったのは、昨日が初めてよ?なんなら昨日まで目すら合ったことなかったわ」
「いちいち言い訳みたいなことを、グチグチとウルサイ女ね」
相撲取りが
周りの弟子たちも、腕を組み、精一杯の圧を掛けている…
もう話にならなかった。
「私が彼女にならなければいいの?それで満足なの?」
「そうね。その後で、不快な思いをした女子全員に、土下座したら許してあげるわ」
この百貫クソデブ…
自分がなにを言っているのか、解ってるの?
意味不明な理不尽も大概にしろ…
もう相手にするだけ時間の無駄である。
「下らな過ぎるわ」
透明人間になったつもりで、なにも無かったかのように、間をすり抜けようようとしたけど、相撲取りに腕を掴まれた。
「まだ話は終わってないわ」
掴まれた腕の骨が、一瞬で粉々になったかと思い、力では勝てないことを確信した。
全身の力を込めて腕を振ったが、ビクともしなかった。
痛い…
自分より数倍はある腕の太さだったので、当たり前である。
抵抗して動けば動くほど、腕が痛かった。
「痛いわよ!離して!」
「いいわよ」
え?
お望み通り腕を離してくれたので、抵抗していた反動で、勢いよく尻もちを着いた。
受け身を取ったせいで、手の平の皮が擦り向けた。
両腕がジンジンして地味に痛かった。
この光景を見た全員が、声を出して大袈裟に笑った。
スマホで写真や動画を撮る者まで居た。
数時間後には、校内全体を超えて、隣町の学校にまで、シェアされる可能性がある。
ついさっきまで負けないとか強がっていたけど、心が折れそうになった…
「次はこんなもんじゃないわよ」
相撲取りが、捨て台詞を吐いて歩いていく。
同盟が後に続き、笑いながら屋上の扉を閉めると、待っていたかのようなタイミングで、大粒の雨が降ってきた。
せっかくトイレでびしょ濡れになるのを防いだのに、台無しである。
もう鞄から折りたたみ傘を出す体力も、残っていなかった。
さっきまでの青い空は、真っ黒な雨雲が掛かり、今の心境を映し出しているようだった。
せっかく早起きして頑張った化粧も、グシャグシャである…
唯一の救いだったのは、頬を伝っている大粒の涙が、雨に紛れて、自分でも分からなくなっていることだった…
−−−−−−−−−−
保健室で風邪を引いたと嘘を吐き、今日は教室へ行かずに、早退することにした。
誰にも会いたくないし、誰とも喋りたくなかった。
部屋にテレビゲームとポテチがあったら、引き篭もりになれそうな気がした。
スリッパを戻していると、背後から聞き覚えのある声が聞こえた。
「おい」
和久井…
振り向かなくても、分かった。
「教室にも来ないでどこに居た?そしてどこに行く?」
振り向くことなく、靴下のまま、下駄箱に行き、靴を履き替えた。
「おい」
和久井が、視界に入り込んでくる。
「その手はどうした?その顔はなんだ?なんでそんなに濡れてる?上履きの片方はどこに行った?」
思いっきり唇を噛み締めた。
「嘘つき…」
「何のことだ?」
「負担や苦労は、掛けないって言ったじゃない…」
「その手も顔も上履きも俺のせいか?」
「あんたのせいよ…」
「なにがあった?」
「あんたのせいよ…上履きが片方なくなるのも…SNSで叩かれるのも…トイレで水を被るのも…腕が痛いのも…屋上で尻もち着くのも…恥ずかしい写真を撮られるのも…全部…全部…全部あんたのせいよ!」
再び大粒の涙が、頬を伝う…
和久井が無言でハンカチを差し出す。
自分が和久井に買ってもらったハンカチ…
和久井の唇を押さえてあげたハンカチ…
たった一日だったけど、普段から人と関わってこなかった自分にとっては、なにもかもが、刺激の強すぎたものだった。
化粧なんかして…
完全に浮かれていた…
「もう無理…私にはやっぱり無理…」
腕の裾で涙を拭い、折り畳み傘を出して、下駄箱を出た。
和久井が追ってくる気配はなかった。
一瞬だけだけど、楽しかった…
せっかく初挑戦した化粧が、ハロウィンのゾンビメイクのようになったのは、残念だったけど、これで良かったのかもしれない…
これからゲーム屋に行き、コンビニに寄れば、明日から引き篭もりの仲間入りである。
ついでにボイスチャットができる機材も買ってやる…
そうすれば全て解決だった。
強い雨が打ち付ける中、多目的コートを歩いていると、放送チャイムが鳴った。
『あーあー』
え?
まさか…
究極に嫌な予感がした。
『3年S組の和久井だ』
『まさか』が的中し、胸騒ぎがして、心臓が跳ね上がった。
『どの学年クラスも授業中だと思うが、この放送は、校長から直接許可をもらっている』
校長?
一体なにを言うつもり?
多目的コートの傍にあるベンチに、腰を降ろした。
スカートがびしょ濡れになったけど、もうどうでも良かった。
『単刀直入に言おう。椿恋ノ葉に嫌がらせのようなことをする奴は、今後俺が、絶対に許さない。許さないと言う意味は、和久井家の名に掛けて、この俺が、真っ当な過程を通して、徹底的に相手をしてやるという意味だ』
和久井…
『今日椿が酷い目にあった。内容は割愛するが、関与している心当たりのある奴は、自分から名乗り出ろ。お前ら、小鳥並みの脳みその単細胞が、軽率に犯した過ちは、刑罰はもちろん、問答無用で退学処分に値する。校長には、自分から名乗り出た奴は、停学で済ませてやってくれと言ってやった。名乗り出なければ、その時は、全生徒の指紋を鑑識に取らせて、校内の防カメを調べて、徹底的にやってやる。恥ずかしいと思わないのか?こんな見苦しいことを、実際に行動にする奴が、この学校には居る。俺はそれだけで、この学校に高校と言う定義の価値が、1ミリもないと断言する。椿が一体なにをした?話したこともない椿を、強引に連れ回してるのは、この俺だ。文句があるなら俺に直接言ってこい。その時は俺が全力で相手してやる』
和久井が、本気で感情的になっているのが伝わり、思わず涙が溢れた…
一体今日は、何回泣けばいいの…
『椿が俺の女に相応しくないと思ってる奴に言いたい。何も知らないで、そう思う奴等より、椿は俺の相手に充分相応しい。卒業するまでこの学校で、俺と椿の邪魔をする奴は、校長だろうがヤクザだろうが許さない』
涙が止まらなかった…
もう手の痛みも、お尻が冷たいのも、感じないほど嬉しかった。
『言いたいことはそれだけだ』
放送チャイムが鳴ると、和久井のサプライズ放送は終わった。
雨の中を走る音が、段々と近付いて来る。
「おい」
振り向くとそこには、肩で息をする、びしょ濡れの和久井が立っていた。
「たった一日すら約束が守れなかった。俺のせいで酷い目に合わせて悪かった」
ジッと睨みつけた…
でもその後で、何度も首を横に振った。
「泣いてんのか?」
和久井が、顔を覗き込んで来る。
「雨よ!雨」
「お前は本当にバカだな。傘差してんだろ」
和久井が、びしょ濡れのまま笑顔をつくる。
「相澤が来るから、もう少し待ってろ」
「え?相澤さん?」
「そんな格好で電車やバスに乗るな。相澤に家まで送るよう頼むから、大人しく乗って帰れ」
「いいわよ。相澤さんは、あんたの運転手でしょ?そんな迷惑掛けられないわ」
「たまたま別の用事があって呼んだだけだ。次いでだから気にするな」
たまたまも他の用事なんてないのも、分かっていた…
「もっともお前が自分で相澤の送迎を断れるなら、好きにしろ」
「分かった…今日はこんな格好だし…相澤さんに甘えるわ」
「明日からまたちゃんと学校来いよ」
「和久井…」
「あ?」
「ごめんね…」
「お前は謝ることなんて、なにもしてない」
「あとありがとう…」
「礼を言われるような事もしてない」
ベンチの上に設置されたスピーカーを、指差した。
……………
和久井が面食らったように目を閉じる。
おそらく自分が校外へ出たから聞かれないと思い、あんな大胆なことをしたのだろう。
「いつまでそれ差してるんだ?」
和久井は何事もなかったかのように、完全に話を反らした。
気付くと雨は上がり、空には子供に読み聞かせる絵本のような、虹が掛かっていた。
「そろそろ相澤も着いた頃だな」
和久井が正門に向かって歩き出す。
そんな和久井を見て、今日ようやく笑えた気がした。
折り畳み傘を畳むと、すたすた歩く和久井の背中を、小走りで追い掛けた。
−−−−−−−−−−
昨日は、相澤に家まで送ってもらい、シャワーを浴びて、すぐに寝てしまった。
心身ともに、クタクタに疲れていた。
目が覚めたのは、まだカーテンから陽が差しこむ前の、朝方だった。
新しい上履きを、買いに行くのも忘れてしまった。
今日一日は、もう一度スリッパを借りることにしよう…
昨日、挑戦した化粧を、記憶の限り思い出しながら、化粧道具を握った。
寝起きの洗顔もカウントすると、納得がいくまでに、計四回も顔を洗い直した。
おかげで普段利用しているバスを、一本逃してしまった。
昨日の和久井の放送から一変して、在校生が自分を見る目は、明らかに変わっていた。
やはり和久井の影響力は、計り知れなかった。
おそらく和久井家の知名度と、組織力を発揮すれば、たかだか学校の一つや二つ、一瞬で吹き飛んでしまうのだろう。
在校生も職員も、それを知っている…
だからこそ在校生は、和久井の敵となり、的になることを避けて、私に対する対応を変えた。
別に私が、認められたわけではない。
でもそれでも良かった。
スリッパを取りに行くために、下駄箱の前を通り過ぎると、新品の上履きが、かかとを揃えて置いてあった。
上履きの下に、一枚のメモが挟まれている。
“今までの自分とは、あの上履きとサヨナラだ。今日からは、新しい自分と、この上履きで、新たな一歩を踏み出せ”
こんな台詞を簡単に走り書きする奴は、私の知っている中で、一人しかいない。
足を通した上履きのサイズは、ピッタリだった。
きっと昨日、片方だけ残った上履きのサイズを、確認したのだろう。
心の中で、和久井に礼を言った。
教室に向かう途中の廊下で、昨日の屋上で酷い事をしてきた
まるで私の登校を待っていたかのような、雰囲気である。
引き返して反対側から教室に向かおうか、真剣に迷った。
もうトラブルはごめんだわ…
ボスである相撲取りが、私の存在に気付き、弟子を従えて歩み寄って来る。
このまま背中を向ければ、津波が押し寄せるような勢いで、走ってくるだろう。
目を瞑っていると、予想外の言葉が聞こえてきた。
「昨日は酷いことをして本当にごめんなさい…いけないことだと解っていたのに…つい…なんであなたなのって…羨ましくって…」
恐る恐る目を開けると、どうやら幻聴ではなかった。
「これから皆で生徒指導室へ行って、昨日の一件を報告してくるわ」
相撲取りは、邪魔をしている腹の肉を感じさせないくらい、深く頭を下げた。
「本当に…ごめんなさい…」
弟子たちも、親分に続いて頭を下げる。
予想外の展開で、我へ帰るのに時間が掛かった。
気付くと、相撲取り御一行の姿はなかった。
相撲部屋…じゃなくて生徒指導室?
教室に向かう途中で、昨日聞いた和久井の放送を思い出して、生徒指導室へ走った。
生徒指導室の扉を開けると、親方に右へ倣えするように、整列している姿が見えた。
「先生!」
全員が目を丸くして、私に注目する。
もう視聴率を上げるのは、慣れたものだった。
「どうした椿?」
生徒指導の平井が、心配そうな表情をする。
「和久井が昨日放送で言ったことは事実ですが、自分にも、彼女たちに誤解を与える原因があったはずです」
「どんな理由があっても、やってはいけないことがある」
「もちろんです。ハッキリ言って、彼女たちには、全身にハチミツを塗って、野放しに生きた昆虫博物館に閉じ込めるくらいの罰を受けてもらいたいくらいです」
その彼女たちは、全員が下を向いて、床とにらめっこしていた。
「けど、きちんと謝ってもらって、既に和解しています。私はもう何とも思っていないし、謹慎とか処分とか、そういうのは望んでいません。それだけ言いたくて来ました」
平井は、考え込むように、難しそうな表情で腕を組んだ。
「椿は本当にそれでいいのか?」
「はい」
相撲取りが、体型に似合わず、涙腺を緩ませる。
よくよく考えたら、名前も知らないのだ。
「分かった。ただし学校側も事実を
停学を間逃れた生徒たちが、緊迫感に解放されて、転んだ幼稚園児のように、涙を流す。
「ありがとうございます」
想いが伝わったので、平井に頭を下げた。
「椿さん…ありがとう…」
涙を流す相撲取りを見て、本当は、ただのポッチャリ系女子だったんだと思った。
首を横に振って、もう一度頭を下げて、生徒指導室を出た。
腕時計に目をやると、朝のホームルームまで、10分を切っていた。
教室の扉を開けると、和久井は読書をしていた。
「おはよ」
自然体な挨拶を、自分からした自分に驚いた。
つい二日前まで、あれほど和久井と関わりたくないと思っていたのに…
「随分雰囲気が変わったな」
「そう?」
「お前が一番感じていることだろ」
たしかに…
肯定したくなかったが、言われてみれば、身も心も、どこか清らかになっていた。
「いつもより遅かったな?」
「安定の送迎があるあんたと違って、バスに一本乗り遅れるだけで一大事なのよ」
「スナック菓子のギトギトになった手で、ゲームコントローラーでも握ってるのかと思った」
昨日は、心の中まで見透かされていたらしい。
「それなに読んでるの?」
話題をいきなり変えるのは、和久井から学んだ技術である。
「これが競馬新聞に見えるか?」
裕己のことを言っているのか?
「見えてたとしたら病気でしょ」
「医学の本だ」
将来は、医者にでもなるつもりか?
「心理テストでもやってるのかと思ったわ」
医学に興味があるのは、意外だった。
「今週の土曜は何の日か分かってるな?」
今週の土曜日?
「特番の世界衝撃映像スペシャル?」
「お前に聞いた俺が間違ってた。俺が居なかったら、お前には生涯、縁のない日だと言うのを忘れてた」
縁のない日?
今日が21日の火曜だから…23…24…あ…クリスマスか…
そう言えば和久井は、クリスマスを一緒に過ごすと言っていた…
クリスマスなんて、母校の開校記念日くらいどうでもいい日だった。
クリスマスお決まりの、ケーキやプレゼントの存在など、テレビで見るまで知らなかった。
サンタクロースなんて、幼い頃に存在しない童話の生物だと、裕己から聞かされていた。
「そうね…サンタクロースが真っ赤な鼻をしていようが、ソリにトナカイが乗っていようが、私には縁のない日だわ」
「言ってることが無茶苦茶だぞ?」
「クリスマスに、なにかが起こるなんて、期待したこともなければ、実際に起こったこともないわ」
和久井の表情が、一瞬曇ったような気がした。
「同情とかしないでよね」
「俺が同情をすると思うか?」
「あんたはダンボールに入って捨てられた子犬を見つけても、素通りするような性格だって言うのを忘れてたわ」
「お前は計画性のない、一時の感情に揺さぶられ、その子犬を持ち帰ったせいで、結果的に、同じことをするタイプだ」
「なにが言いたいの?」
「そうイライラしないで聞け。人は一人として同じ人生を歩む者はいない。だから俺とお前の、これまでの生き方や環境、考え方が違うのは、当たり前だ。お前がこれまでどんなクリスマスを過ごしたかは知らない。クリスマスに対する考えや記憶を、変えることもできない。だが、これからのクリスマスを変えることはできる。いや、俺が変えてやる」
「………」
返す言葉が見つからなかった。
「お前が、どんな幼少期を送ったか、どんな教育を受けて思春期を歩んだかは、どうでもいい。なぜなら、俺は、今のお前を見てるからだ。また話が長くなりそうだから、取り合えず、朝の9時に家まで迎えに行くことだけ覚えとけ。お前は大人しく出掛ける支度をして待ってろ」
既に大人しくした方が良さそうだったので、黙って頷いた。
「よし」
和久井が頭をポンポンしてくる。
結局、その子犬のような気分になってしまったのは、自分だった。
「どこに連れてってくれるの?」
「お前は、箱を開ける前に中身を聞くような女だな」
「あんたは、ストレート過ぎて箱から出た状態で、プレゼントを渡すような男よ」
「返しがまだ弱いが、お前らしさが少し戻って安心した」
「本気で返してないってことも分からないの?」
一瞬の間の後で、声を出して笑った。
こうして和久井と、笑い合える日が、続けばいいのにと思った。
卒業しても…
ずっと…
ずっと…
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