第4話

 スマートフォンで帰りの路線を調べながら、人だかりを歩いていると、誰が見ても胡散うさん臭そうな男が、声を掛けてきた。


 「すいません。お綺麗な方を対象に、化粧品の該当アンケートを行っているのですが、ご協力していただけないでしょうか?」


 お綺麗な方?


 視線は完全に合っている。


 グルリと回ってみたが、半径一メートル以内には、ランドセルを背負った小学生と、杖を着いて歩く老婆しか見えなかった。


 お綺麗な方を差す人物は、どうやら私しかないない…


 念のためにもう一周しようとすると、誰かに頭を押さえつけられた。


 振り向くと、切らしている息を冷静に整える、和久井の姿があった。


 「お前もウジ虫が湧くような女になって良かったな」


 「なにしに来たの?」


 「これからルンルン気分でバカンスに行くように見えるか?」


 「見えないけど」


 「お前を探しにきた」


 和久井が押さえつけた頭を、ポンポン叩く。


 それだけで、もやもやした気持ちが一気に吹き飛んだ気がした。


 「お惚気のろけ中に申し訳ありませんが、ご協力よろしいでしょうか?」


 「俺の女は、そんな知名度の低そうな化粧品は使わない。他の騙せそうな安っぽい女を探せ」


 「はい?」


 眼鏡の向こうで男の目つきが変わった気がした。


 「聞こえなかったのか?街中で声を掛けてしか集客できないようなレベルの化粧品は、使わないって言ったんだよ」


 若い頃にしたのであろう、剃り込みが癒えない男が、鬼の形相で睨み付ける。


 「ガキのくせに、随分生意気なこと言ってくれるじゃねえか」


 節分の日だったら間違いなく、幼稚園児の標的になっていただろう。


 「悪いが、お前みたいな感情的になることしかできない単細胞のかたまりに構ってる暇はない」


 え?


 和久井が視界から消えて尻もちをつく。


 この状況で立ち眩み?


 んなわけ…


 「ごめんごめん。手が滑っちゃったよ」

 

 鬼があざけ笑う。


 和久井の口元から垂れる血を見て、ようやく殴られたことに気付いた。


 「ちょっと!」


 こんなに大きい声で喚いたのは、分娩室で生まれた時以来だろう。


 今日一日を通して、和久井が誰かに殴られればいいのにと思ったのは、一度や二度じゃなかったけど、実際に殴られた姿を見て、はらわたが煮え繰り返った。


 「あんた正真正銘の立派な犯罪よ?」


 人だかりが避けて通る中で、和久井に駆け寄った。


 和久井からもらったハンカチで、和久井の口元を優しく押さえた。


 「これは治療費だ」


 鬼剃りは、財布から数万円程の札を無造作に取り出した。


 口元のハンカチを自ら押さえる和久井が、再び口を開く。


 「まさかそんな下敷きみたいな金で終わらせるつもりか?それにたかだか数万円でカッコつけてるつもりか?笑わせる冗談なら一つに絞ってくれ」


 和久井が、尻を叩いて立ち上がる。


 頼むからこれ以上、鬼剃りを刺激するようなことは、言わないでくれ…


 美容室で、和久井からプレゼントをもらった時の言葉を思い出した。


 俺に恥かかせる気か?


 和久井はそう言っていた…


 渡そうとした物を引っ込めるということは、男として恥をかく、それを和久井は知っている。


 「金を受け取らないってことは丸く納める気がないってことだな?」


 「納めるか納めないかを決めるのは、殴られた当事者であるこの俺だ」


 通報が入ったのだろう、近くにある交番から、制服を着た警官が二名走って来るのが見えた。


 「バカに限って人を見る目がない。そして小金持ちに限って金を道具にする。誰でも何でも金で解決できると思ったら大間違いだ。金のある者にとって、金なんて所詮は、生活する上での一部に過ぎない」


 和久井が乱れた襟元を正す。


 「どうしましたか?」


 正義感の強そうな警官が、声を掛けてくる。


 「通報が入ったなら誤報だと思ってくれ。転んだだけだ。別に揉めている訳でも喧嘩でもない」


 「そう言われましても、殴られている人が居ると、通報が入ったものですから」


 「どこのどいつが通報したか知らないが、殴られている疑いが掛かっているのは、外傷がある俺だろ?その俺が転んだって言っているんだ。それ以上詮索するな。それでも聞きたいことがあるなら、いつでもここに連絡しろ」


 和久井はポケットから、一枚の名刺を取り出した。


 「いくぞ」


 和久井は、大きく看板の見える大型デパートに向かって歩き出した。


 和久井の表情に笑顔はなかった。


 振り向くと、鬼剃りの男は、警官からの事情聴取を受けていた。


 沈黙のまましばらく歩き、大型デパートの自動ドアを潜ると、和久井がようやく後ろを振り向いた。


 「迷惑掛けて悪かった」


 「私は全然大丈夫だけど…大丈夫?」


 和久井の口元は明太子のように、赤く腫れあがっていた。


 「問題ない」


 そんな顔で、これから人の親に挨拶へ行くのだから、大問題である。


 「大丈夫ならいいけどさ…さっきなにを渡してたの?」


 「知り合いの名刺だ」


 「え?」


 「今は和久井グローバルの顧問弁護士だが、元々警視庁の重役だったらしい。警視庁で知らない警官はいないはずだ」


 「そんな人の名刺、勝手に渡して平気なの?」


 「なにかあったら使っていいと、直接もらったものだからな。あそこで使わなきゃ一生ただの紙切れだ」


 和久井に、悪びれた様子はなかった。


 「お前のお父さんと妹は、なにが好きなんだ?」


 「好きなもの?」


 「これから挨拶に行くのに、手ぶらで行くわけないだろ。なにか持っていくのが礼儀だ」


 「そんな物、持っていくような家じゃないわ」


 「別にお前に持っていくわけじゃない」


 そう言うところは、高校生とは思えないほど、しっかりしていた。


 「好きな物って…甘い物とか?」


 「じゃあ王道だがケーキにしよう」


 和久井の後に続き、エスカレーターに乗って地下に降りた。


 銀座本店と言う垂れ幕の掛かった店の前で、和久井は足を止めた。


 ガラスショーケースには、彩り鮮やかなケーキが、所狭しと並んでいた。


 「ここからここまで一つづつ」


 和久井は、上の段にあるケーキを、左端から右端まで指差した。


 「は?」


 ウチは、テレビで特番を組まれるような、大家族ではない。


「誰がこんなに食べるのよ?」


「それはお前の家で勝手に決めろ。渡す物なんだから好きなようにすればいい」


「それはそうだけどさ」


「ケーキを多く買ったくらいで、浮かない顔をするな」


「もったいないじゃん」


「人数分持って来られるより、多い方が選べて嬉しいし、近所に配ればお前の家の顔も立つだろ」


 和久井は、どんな時も政治的に人間関係を建設するのだろう。


 「ありがとう」


 私には、まだ理解できなかった価値観だけど、ヘソを曲げられても面倒なので、礼を言った。


 買い物を済ませてデパートを出ると、駅の構内へ向かった。


 「どうやって乗るんだ?」


 「なにが?」


 「電車に決まってんだろ」


 知的振って毎回偉そうに上から目線で精神論を語るくせに、電車一本乗ったことがないの?


 和久井を虚仮(こけ)にする、絶好のチャンス到来である。


 「うそでしょ?」


 「初めて乗るんだぞ?分からなくて当たり前だろ」


 「電車一本も乗ったこともないくせに、偉そうにしないでよ」


 思わず鼻で笑ってしまった。


 「なんだと?」


 「電車内は暗黙のルールが多いのよ。スマホは操作しない方がいいし、お年寄りが居たら席を譲った方がいいし、もちろん大声で喋ったりしてもダメよ。とにかく他のお客さんの迷惑になるような行為はしないで」


 和久井の眉間に皺が寄るのは、もう見慣れたものである。


 「今お前が言ったのはただのマナーだろ?社会的な一般常識を弁(わきま)えてれば、何の問題もない。それにファースト車両では、そんな暗黙のルール無用だ」


 ファースト車両?


 乗車券の他に、ファースト券を購入し、一般車両では味わえない、追加的サービスが提供される特別車両である。


 余計な知識を、どこで知ったのか分からないけど、値段の張るファースト券など、生涯無縁だと思っていた。


 もちろんファースト車両の乗り方なんて、分からない。


 「どこで別売りのチケットは購入するんだ?」


 もし普通に買えるのであれば、自動チケット売り場で購入できるはず…


 「こっちよ」


 分からないことを悟られないように、液晶パネルを操作した。


 くそ…


 どこを探しても、チケットの購入画面がない…


 別の購入売り場があるってこと?


 「おい」


 和久井の苛立ち始めた声が、背後から聞こえる。


 「え?」


 振り向くと、和久井は、わざとらしく腕時計に何度も視線を落とした。


 「明日の朝になっちまう」


 「ちょっと待ってなさいよ」


 「あんだけ俺に偉そうなことを言っといて、まさか買い方が、分からないなんて言うつもりじゃないよな?」


 「分かるわよ」


 「もういい」


 和久井が前に割って入り、係員の呼び出しボタンを押した。


 『動作トラブルでしょうか?』


 通話口から係員が問い掛ける。


 「ファースト車両のチケットを購入したい」


 『ファースト券ですね?右手に見えるサポート窓口にて、ご購入なさってください』


 「分かった」


 和久井が、勝ち誇った顔をしてニヤリと笑う。


 液晶パネルを、バキバキに割ってやろうかと思った。


 『私は一般車両で行く』と言ったたけど、和久井は聞く耳を持たなかった。


 和久井が、誰かと電話をしながら、サポート窓口へ入ってから数分後、自動ドアが開いた。


 完全勝利を納めた表情で、和久井が指で挟んだ2枚のチケットを、顔の前で振りながら歩いて来た。


 手渡されたチケットを、クシャクシャに丸めて、投げつけてやろうかと思ったけど、深呼吸をして、どうにか抑えた。


 電車が到着するまで10分ほどあったので、ベンチに座り、一息吐いた。


 一般車両のエリアでは、サラリーマンやOLが、既に長蛇の列を作っていた。


 ファースト車両のエリアには、私たちを除いて、着物を着付けた女性や、銀縁眼鏡にスーツを完璧に着こなした男性など、金持ちオーラを存分に発した人しか、居なかった。


 これが社会の仕組みだと思うと、勝ち組と負け組の格差は、やはりこの世に誕生した時点で、ほとんど決まっていると改めて思った。


 電車が到着し、ファースト車両に乗り込むと、テレビで見たことのある空間よりも、豪華に見えた。


 ベッドのようにリクライニングする革張りの快適な座席は、普段乗っている一般車両からは想像できないほどの、快適な空間だった。


 今朝まで、野菜詰め放題のように、ギュウギュウな満員電車で登校していたのが、信じられなかった。


 車内での和久井は、健やかな寝息を立てて、眠りについていた。


 乗り物に乗ると、眠りにつく習性があるらしい。


 窓から地元である、横須賀の街並みが見えてくると、懐かしい気持ちになった。


 「次で降りるわよ」


 和久井がゆっくりと目を開けて、眠たそうな目を擦る。


 「ここがお前の愛するホームグラウンドか」


 和久井は、窓の外を眺めながら欠伸した。


 「生まれも育ちもずっとここ。東京みたいに賑やかでもないし、華やかでもないけど、私にとっては、一番住みやすくて居心地のいい場所」


 「お前がそう思うなら、本当にいい街なんだな」


 「バカみたいにトンネル多いし、バカみたいに坂ばっかで、未だにコンビニの前に溜まってるバカも居るけどね」


 「どこの街にも必ずその街にしかない色がある」


 「そうね」


 初めて和久井と、まともに普通の会話をした気がした。


 電車が横須賀駅に到着する。


 疲れが取れないどころか、余計に疲れる一般車両と違って、ファースト車両は、疲れをクールダウンできる憩いの車両だった。


 初体験だった憩いの場に別れを告げて、電車を降りた。


 一般車両からは、雪崩なだれのように人が降りていた。


−−−−−−−−−−


 改札を出ると、Yの字になっている、通称Yデッキと呼ばれている、ロータリーを歩いた。


 首から手書きの画用紙をブラ下げた、飲み屋の呼び込み…

 閉店した自動扉の前で、振り付けを確認するストリートダンサー…

 唾をチッチ吐きながら、煙草を吹かす身分証明書の確認が必要な少年…


 見慣れた横須賀の夜だった。


 「お前の家はここからどのくらいだ?」


 「歩いて15分くらいかな」


 「歩いて15分?」


 そんなに驚くことを言った覚えはない。


 「タクシー乗り場はどこだ?」


 「教えないわ」


 想定内の展開だったので、キッパリと言い放った。


 「じゃあその辺の奴に聞くまでだ」


 和久井は、躊躇ためらいも無く通行人に、声を掛けようとした。


 「私は毎日こうして学校を帰宅してるのよ?私の家に来るなら、少しは生活の水準を合わせてほしいわ」


 「15分歩くことがか?」


 「別に時間や距離の話はしてないわ。歩くことで健康的な体を作る運動にもなるし、時間と体力を削ることで、浪費が削れるのよ?私とあなたの金銭感覚は違うの」


 「今日のところは、お前の水準に合わせてやる」


 和久井は、ブツブツと小言を吐きながらも、自分の後を付いてきた。


 自分を知っている人物が、自宅に来るなど、家庭訪問以来である。


 高校の同級生を自宅に招くことになるなんて、考えもしなかった。


 しかもその相手が、一番近くの目障りだった奴だなんて、人生どうかしている…


 神様がいるなら…


 なんてフレーズは、今日をもって一切使わない…


 もし…あの席に座っていなかったら…

 もし…体調不良で学校を休んでいれば…


 意味がないと解っていても『たられば』の考えは抑制できなかった。


 「ここが私の家」


 どこにでもある二階建ての一軒家である。


 「立派な家だ」


 「バカにしてんの?」


 和久井の家が、武道館だとしたら、自分の家は犬小屋である。


 和久井が外観を眺めながら、スマホで写真撮影を始める。


 「ちょっと!」


 「なんだ?」


 「なにしてんの?」


 「見て分からないのか?記念撮影だ」


 「なんの記念よ」


 「安心しろ。お前の家をSNSにアップしたところで、いいねは付かない」


 やっぱりバカにしているようである。


 「本気でバカにしてるようね」


 「バカはお前だ。お前のお父さんが、家族の事を考えて建てた城だぞ?バカにするわけがない」


 毎回逃れ方が上手い男である…


 「ちょいちょいちょい!」


 玄関扉に手を掛けようとする和久井の裾を、咄嗟とっさに引っ張って止めた。


 「さっきからなんだ?」


 それはこっちの台詞である…


 「ここは私の家よ?」


 「それがどうした?」


 「私が、ただいまから入るのが普通でしょ」


 和久井が一瞬だけ考え込む。


 「言われてみればその方が自然だな」


 緊張という感情のない和久井と違って、自分の心臓は、時限爆弾のようになっていた。


 「緊張とかしないの?」


 「残念ながら、自己プロデュース能力に長けてる俺は、緊張を楽しめるタイプだ」


 ギネス記録に認定してもいいレベルの、自信過剰である。


 夕方『面接にでも行くの?』と和久井を小馬鹿にしたけど、面接室に入ろうとしているくらい緊張しているのは、私の方だった。


 和久井に悟られる前に、大きく深呼吸をして、面接室…じゃなくて玄関の扉を開けた。


 「ただいま」


 「こんばんは!夜分遅くに失礼致します!」


 聞いたことのない元気で明るい声に、思わず後ろを振り返った。


 和久井が寄り目をして舌を出す。


 こんなあか抜けた部分があったとは…


 人の緊張を余所よそに、言葉通り完全に楽しんでいる…


 もしかして自分の緊張を、解そうとしてくれているのか?


 リビングから、父親である裕己ひろみの返事が聞こえた。


 玄関に入ってから、和久井と何も打ち合わせをしなかったことを後悔した。


 頼むからパンツ一丁で、出てこないでくれと、心の中で手を合わせた。


 「おかえりなさい」


 終わった…


 思わず我が目を疑った。


 パンツ一丁どころの騒ぎじゃなかったが、取り合えず笑いを堪えることはできた。


 どうやら裕己も、猫を被り、役者を演じるらしい。


 「今日は随分と遅かったな。おや?彼が噂の和久井くんかな?」


 「こんばんは」


 和久井が丁寧に頭を下げる。


 普段の裕己とは、180度掛け離れた言動に、笑いのメーターは限界寸前だった。


 愛の葉が、気を利かせて、余計な根回しを入れたんだ…


 「なにその業績の悪そうな、セールスマンみたいな格好!」


 限界を越えたので、声を出して笑った。


 両肩に洗濯バサミの後が付いたワイシャツ…

 ワセリンで固めたようなテカテカの七三分け…


 一番度肝(どぎも)を抜かれたのは、ベルトの通し穴に、ネクタイが通っていたことだ…


 もう父親であることが、恥ずかしいとかのレベルではない…


 「お前の方こそなんだ?そのキャバ嬢みたいな格好は?」


 キャバクラに行ったことあるのかよ…


 そう言えば自分の外見は、今朝とは違う。


 「イメージチェンジよ」


 「イメチェンってやつか」


 いちいち略されたのが、憎たらしかった。


 「一日見ない間に随分と成長したな」


 化粧をして、髪形を変えて、私服を着ただけである。


 「それで俺の格好はどうだ?」


 どうもこうもなかった。


 「ウケを狙ったなら大成功よ」


 再び笑ってしまったけど、和久井は微動びどうだにしていなかった。


 「仲がよろしいですね。それにとてもお似合いです。素人には分からない素晴らしいセンスです」


 『似合っている』とバカにしているのは、一先ひとまず置いといて、このセンスを本気で絶賛しているとしたら、いよいよ本気で、和久井に眼科を紹介しなければならない…


 「やっぱり分かる人には分かるんだよ。俺の芸術的なお洒落ってやつが」


 裕己が役者を演じてから数十秒…


 裕己は一瞬で自滅し、自ら化けの皮を剥がした。


 どうせ自分が、役者を演じようとしていたことすら、既に忘れてるに違いない…


 和久井が、あからさまな愛想笑いをする。


 「汚い家だけど上がって上がって」


 裕己がリビングに消えて行く。


 「お言葉に甘えて、お邪魔させていただきます」


 和久井が丁寧に靴を揃える。


 言葉遣いや、気の効いた言動を見て、やはり常識も礼儀も、行き届いた英才教育を受けていると、改めて思った。


 和久井にスリッパを出して、二人でリビングに向かった。


 「失礼します」


 リビングの開いた扉を二回ノックして、和久井が頭を下げる。


 今日一日で見たことのない身の振る舞いは、まるで別人のようだった。


 これがよく聞く、ギャップというものなのかもしれない…


 「こんばんは」


 ソファーに座る制服姿のままの愛ノまのはが、スマートフォンから顔を上げる。


 「こんばんは」

 和久井の笑顔にも驚いたが、愛ノ葉の笑顔には、もっと驚いた。


 二人ともこんな笑顔が作れるなんて、知らなかった。


 私は一体なぜ今までこの笑顔を見られなかったの…


 裕己は、いつもの定位置に腰を据えて、胡坐あぐらを掻いた。


 「ほら座って座って」


 和久井は、裕己に尻を叩かれると、腰を降ろして、座布団の上に正座した。


 「そんな堅っ苦しくならないでいいから、足崩してって」


 裕己が、小さなグラスに注がれたビールを、一気に飲み干す。


 「とても緊張していて。普段から慣れているこちらの姿勢の方が落ち着くので」


 耳を疑ったが、和久井が本心を語らないのは、今に始まったことではない。


 愛ノ葉は、その格好どうしたの?と言わんばかりに、自分の変貌振りに驚愕きょうがくしていた。


 けど、空気の読める鋭い観察力を持っている愛ノ葉は、目を丸くするだけで、私の外見には触れてこなかった。


 別に後で聞けばいいと思っているのね…


 「改めまして、恋ノ葉さんのクラスメイトで、共に勉学に励み、集団生活の大切さを学んでおります、和久井楼真と申します。今日はご迷惑を承知の上で、僕の方から恋ノ葉さんに無理を言って、夜分遅くに失礼させていただきました。突然の来訪お許しください」


 和久井がデパートの紙袋を、テーブルの上にそっと置く。


 「恋ノ葉さんから、お二人は甘い物がお好きだと伺っております。お口に合うかどうか分かりませんが」


 「ええ!なにこれえ?」


 和久井の狙い通りである…


 池にエサを投げ入れられたコイのように、愛ノ葉が食い付く。


 「開けていいですかあ?」


 「もちろん」


 梱包こんぽう用紙を無造作に破る愛ノ葉を見て、溜め息が出そうになった。


 「愛ノ葉!和久井くんがせっかく届けてくれたのに、目の前でそんな開け方失礼だぞ!」


 初めて裕己が愛の葉に父親らしいことを言った気がした。


 「こういう物は、お客さんが見てない時に、こっそり破るんだ」


 愛ノ葉を叱る裕己を見て、今度は溜め息が出た。


 「お気になさらないでください。保冷剤は入っていると思いますが、なるべく早いうちに、お召し上がりになった方が、よろしいかと思います」


「おお!」

「わあ!」


彩り鮮やかなケーキに夢中の裕己と愛ノ葉の耳には、和久井の言葉など届いていなかった。


「お姉!フォークとお皿!」

「恋ノ葉!もう一本ビール!」


 食器棚から人数分のフォークとお皿を持ってくると、楽しそうに愛ノ葉が取り分けた。


 裕己が差し出した手を叩いた。


「ビールは自分で行ってちょうだい」


「ケチな娘だな」


 裕己が小言を言いながら立ち上がる。


 「いただきまぁす」


 愛ノ葉が、真っ赤なイチゴのタルトを頬張る。


 「こんな美味しいケーキ初めて食べたぁ」


 愛ノ葉が幸せそうな顔をする。


 ふとリビングを見渡した。


 家の中が、かなり片付けられていた。


 愛の葉が、急いでやってくれたのだろう。


 貸した5千円は、これでチャラにしてあげようと思った。


 「言ってくれれば、いつでも買ってくるよ」


 「本当ですかぁ?!」


 「もちろん!大切な人の妹の頼みならね」


 今日だけは、愛ノ葉の馴れ馴れしい性格もなぜか許せた。


 大切な人?

 

 愛ノ葉も裕己も同じことを思ったはず…


 「今日はお二人にご報告があり、お邪魔させていただきました」


 「そんな改まってどうしたんだい?」


 瓶ビールを片手にした裕己が、再び腰を降ろす。


 「恋ノ葉さんと、本日からお付き合いさせてもらうことになりました」


 和久井の報告に、裕己は喘息ぜんそくのような咳をし、愛ノ葉は目を丸くして、ケーキを喉に詰まらせた。


 熱湯風呂に突き落とされる芸人も、顔負けのリアクションである。


 「うそでしょ?お姉と?」

 「なんで恋の葉みたいなのと?」


 こいつは本当に父親なのか?


 「恋ノ葉さんは、どんな場面でも冷静な判断で、感情を乱すことのない沈着な決断をします。頭も良く、迅速な思考の回転に、柔軟な対応力にも優れています。おまけにバラが肩を落とすくらい美しい容姿には、今日一日だけで何回見惚れてしまったか分かりません。そんな恋ノ葉さんは、僕の成長にも必要な存在で、常に刺激を与えてくれる女性だと思い、僕の方から告白させていただきました」


 和久井の能弁には、もうお手上げである。


 もはや真実か偽りかなんて関係のないほど、裕己の質問に、隙間を作らない完璧な返答だった。


 「そうか…そうか…」


 裕己が下を向いて考え込む。


 視線の先には、馬の名前に○が付いた競馬新聞が広がっていた。


 「よし!分かった」


 裕己がテーブルの下にあるクリアファイルから、出前のチラシを引っ張り出す。


 「恋ノ葉、良かったな。今日は皆でパーっと、飯でも食おう」


 裕己が、近所のファミレスのチラシを手に取ると、インターホンが鳴った。


 「誰だろ?こんな時間に?」


 愛ノ葉が、インターホンの受話器を取りに席を立つ。


 『こんばんはー銀座和久井寿司でーす!ご注文の品をお届けに参りましたー』


 「はい?」


 愛ノ葉が聞き返す。


 銀座和久井寿司?


 「愛ノ葉ちゃん。僕が頼んだんだ」


 「え?そうなんですか?」


 愛ノ葉が受話器を置くと、和久井は玄関に向かった。


 いつ出前など?


 電話など一度もしていなかったはず…


 は!


 そう言えば…


 ファースト車両のチケットを買う時に、誰かに電話を掛けていた。


 この家での家事は、全て自分が担当していることを、和久井は知っている。


 全てを知った上で、自分に楽をさせてあげようとわざわざ出前を…


 だとしても家の住所はどうやって?


 あ…


 だから家の外観を写真で…


 あとはGPS機能で番地を…


 和久井は、アウェイなはずのグラウンドを、数分で完全にホームにしてしまった。


 自分の家にも関わらず、既に和久井の陣地に全員入ってしまった。


 「お待たせしました」


 恐るべし和久井…


 和久井が、四段になった出前桶を抱えて、リビングに戻って来る。


 「そんな気を使わなくていいのに」


 和久井が、出前桶をテーブルに置くのを手伝った。


 「今日はなにからなにまで和久井くんに、御もてなししてもらってばかりだな」


 一家の主である裕己が、嬉しそうに笑う。


 もうどっちの家か分からない状況である。


 「うちの親戚が手掛けているお店のお寿司です。甘い物の後で順番が逆になってしまったので、お口に合うか分かりませんが、会員制のお店で、鮮度も味も間違いありません。どうぞ召し上がってください」


 和久井のプレゼン通り、ラップを捲らなくても、高級な寿司が綺麗に整列しているのが分かった。


 「やったぁ!お寿司なんて久しぶりぃ!いただきまぁす!」


 愛ノ葉が、山盛りに乗ったイクラを一口で頬張る。


 「ん~ん…んまあ…」


 愛ノ葉が、幸せと呼ぶに相応しい最高の表現をする。


 「本当に美味いぞ!」


 裕己がセンスの欠片もない、グルメリポートをする。


 テレビ画面で見ていたら、真っ先にチャンネルを変えている。


 「それは良かったです」


 和久井も喜んでいる様子だった。


 常に自分のことしか考えていないロボット人間だと思っていたが、どうやら人のことを考えられる心も、少しは持っているようだ。


 自分も遠慮なく寿司を頬張った。


 サーロインのような差しが入ったマグロは、舌がトロけるような食感で、自分が映るほど艶のあるイクラは、口の中でプチっと弾けて、甘くほのかな磯の香りが漂った。


 和久井は表情一つ変えずに、握りを口に運んでいる。


 こうして家族揃って、夕食を取ったのは、久しぶりのことだった。


 学校での出来事や、愛ノ葉の友達の話、裕己の背筋が凍るような親父ギャグ、和久井を交えた久しぶりの家族団欒は、純粋に楽しい時間となった。


 「もう食えないぞ和久井くん!ご馳走さま!」


 米粒一つ残さずに平らげた裕己が、鏡餅のような腹を何度も擦る。


 「ご馳走さまでしたぁ」


 愛ノ葉が、両手を合わせて、和久井に礼を言う。


 「皆さんに喜んでいただけて僕も嬉しいです。本日は夜分遅くに失礼して、本当に申し訳ありませんでした。突然の来訪にも関わらず、暖かく迎え入れてくれたこと、心より感謝します。これから恋の葉さんとは、沢山の思い出を創っていきたいと思っているので、少々帰宅が遅くなることもあるかと思いますが、その時は僕が責任を持って、この家まで送り届けるので、安心なさってください。それではもう時間も遅いので、この辺で失礼致します」


 和久井が、板の間に両手を付いて頭を下げる。


 「こっちこそ感謝ばかりだよ。美味しいケーキに、美味しいお寿司まで」


 食べ物のことしか言っていない、と思ったのは、和久井も愛ノ葉も同じだろう。


 「和久井くん、今日はわざわざこんなところまで本当にありがとう。恋ノ葉は不器用で友達も居ないし、人前に出るのなんて、絶対に苦手な子だけど、どうか和久井くんのリードで、こいつに最高の思い出を、作ってやってください。よろしくお願いします」


 私には無関心だと思っていた裕己が、自分のことをよく分かっているのにも驚いたけど、最後の最後は、敬語で父親らしいことを言ったことが、少しだけ嬉しかった。


 「はい!」


 和久井は、ヤンチャしていた中学生が、卒業式で名前を呼ばれた時のように、腹の底から返事をした。


 「それではお邪魔しました」


 和久井が立ち上がる。


 玄関までは、三人で和久井を見送った。


 「外まで和久井くんを送ってあげなさい」


 言われなくても分かっているとは、口にしなかった。


 和久井と共に玄関を出ると、外は街灯の明かりだけが頼りだった。


 気温もかなり下がっている。


 「駅まで送るよ」


 「風邪を引くからさっさと家に戻れ」


 「でも…」


 「同じことを言わせるな」


 和久井は凍える手を、ポケットに突っ込んだ。


 「相澤が来てる」


 和久井が顎で差す路地の奥には、停車している車があった。


 「それじゃあまた明日な」


 和久井が右手を挙げると、再びポケットに右手を突っ込み、歩き出した。


 急いで玄関を開けて、鞄の中にある毛糸の手袋を持って、もう一度外へ飛び出た。


 「ねえ!」


 呼び掛けながら、和久井に駆け寄った。


 驚いた表情で、和久井は凍えながら振り向いた。


 ポケットに突っ込んだ両手を引き抜いて、手袋を付けた。


 「あげる」


 「なんだこれは?」


 「腹巻きに見える?」


 「見えなくもない」


 和久井が笑うと、自分も釣られて笑った。


 「今日は…あ…ありがとう」


 和久井のおかげで、久しぶりに家族揃って夕食を食べることができた。


 「楽しかった」


 「そりゃあ良かったな」


 今日一日和久井と居て、初めて純粋な笑顔を見た気がした。


 和久井は、後ろを向いて再び歩き出すと、手袋の付いた右手を挙げた。


 今日初めて喋った相手…


 たった一日ずっと一緒にいただけなのに…

 

 ずっとずっと前から知っているかのような、気持ちになっていた。


 和久井は、車に乗るまでポケットに手を突っ込むことはなかった。

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