第3話
既に陽が落ちた店の外へ出ると、店前には相澤が車の傍で待っていた。
こんな冷え込んだ中でも、律義に外で立って待っているのは、相澤かアイドルの出待ちくらいである。
「屋敷に帰る」
和久井が、後部座席に乗り込む。
屋敷?
「かしこまりました」
優しそうな笑顔の相澤が、開け放たれた後部座席の車内を、手の平で差す。
「失礼します」
座席に座り、隣に視線を移すと、和久井は目を瞑り、仮眠体制に入った。
コップに入った水が置いてあっても、零れなそうなくらい、丁寧に車が動き出す。
屋敷とは、家のことなのだろうか?
だとしたら、やはり噂通り普通の家系ではない…
私もまさかその屋敷に?
目を閉じている和久井には、聞けなかった。
またしても道中の会話は一切なく、安定した走行で、車は代官山に到着した。
神奈川の田舎に住む地元を思い出すと、とても同じ国だとは思えなかった。
右も左も著名人や有名人が、住んでいるんだろうな…
いちいち一軒一軒が、お洒落な外観の住宅だった。
その中でも一際異彩を放つ、まさに屋敷と言う表現に相応しい建物の前に、車はゆっくりと停車した。
屋敷を取り囲むように、ぐるりと回った外壁は、大河ドラマの名家に出てきそうな建造物だった。
四方八方に設置された防犯カメラを眺めていると、犬の散歩をしている男性が、こちらの車に向かって、会釈した。
「あ…」
間違いない…
テレビで引っ張り凧の、二世タレントである。
「なんだ?」
和久井が不機嫌そうに瞼(まぶた)を開ける。
「あ…あれって珍しい犬よね?」
どっからどう見ても、ただの柴犬を指差した。
「そうだな」
和久井は素っ気なく相槌を打つと、再び目を閉じた。
重い門柱が、横にスライドすると、高さ2mはありそうな、鉄扉の前で車は停まった。
素人が芸能人を見た時のリアクションは、バレずにリカバリーできたようである。
相澤は、運転席から車を降りると、慣れた様子で顔認証と指紋認証を済ませた。
国家機密でも厳重に保管しているような、セキュリティである。
鉄扉が開くと、そこには大自然のような、庭園が広がっていた。
こんな一等地の住宅敷地内に、アルプスの少女がスキップして出てきそうな庭園があるのは、おそらくここしかないはず…
駐車場には、見たこともないスポーツカーや、左ハンドルの車が、何台も並んでいた。
見たことがないから、それが高いのか珍しいのかさえ、分からなかった。
やはり住む次元が違い過ぎる…
車を降りると、和久井は織田信長が出てきそうな、城屋敷に向かって歩き出した。
相澤に礼を言って車を降りると、気だるそうに歩く、和久井のあとに続いた。
「俺の女なら、たかだかテレビに映る凡人を見たくらいで、いちいち反応するな」
え?
和久井にとっては、芸能人も所詮は、凡人扱いである。
華麗だと思っていたリカバリーは、単なる赤っ恥の照れ笑いに終わった。
玄関扉を開けると、二次元で見るような、コスチュームを着た、三人のメイドが声を揃えて、和久井の帰宅を迎えた。
貸し切りで予約した高級レストランの、お客様を持て成すような迎え入れである。
もちろん高級レストランに行ったことはない。
それにしても、毎日こんな出入りをしているのかと想像すると、思わず面白くて笑いそうになった。
「誰かいるか?」
和久井が話した瞬間、三人のメイドの視線が、一瞬だけ自分に向けられたのが分かった。
「
メイド三人のボス的存在であろう、50代くらいのメイドが応える。
先ほど笑いそうになった8割の原因を占めたのが、このパンチの効いたメイドである。
デフォルトが十中八九…いや…九分九厘…ギャグである。
もし色恋の目的で、メイドカフェまで足を運び、このメイドに接客されたら、客は激怒するどころか、返金を要求するに違いない。
頼むからこれ以上、視界で余計な動きは、取らないでくれと願った。
自分の存在に触れてこないと言うことは、おそらく和久井のプライベートには、干渉しないと言う、ルールがあるのだろう。
「こちらのお綺麗な女性はお友達ですか?」
ないんかーい!!
「今年のクリスマスをと過ごす相手だ」
また余計なことを…
「まあ!」
五十路のメイドは、自分が告白されたかのように赤くなった顔を、両手で覆った。
学生時代の青春でも、フラッシュバックしたのだろう。
もう一人の中年のメイドは愛想笑いをし、歳の近そうなメイドは、雪女のように凍りつくような目で、自分を睨んでいた。
「入れ」
和久井が、足元にセッティングされたスリッパを履く。
睨みつけられた意味は、天然バカキャラハーフタレントでも、解るだろう。
和久井に気がある…
けどそんなことは、芸能人の破局ニュース並みにどうでも良かった。
三人のメイドに一言礼を言ってから、用意されたスリッパで、和久井家の敷居を跨いだ。
大きく見開いた吹き抜けのホール…
床に敷き詰められた大理石…
上り下りだけで酔いそうな螺旋状の階段…
バカ高そうな銅像…
天井から吊り下がるバカでかいシャンデリア…
その辺のバカが描いたような絵画…
どれもロードショーに出てくる大富豪の屋敷だった。
階段を上がり、二階の廊下を進み、右へ左へと、また廊下を進み、映画で有名になった、魔法学校のような造りだった。
ようやく突き当たりの部屋まで行くと、和久井は扉を開けた。
「おじゃまします」
恐る恐る部屋に入ったが、広々とした部屋のわりに、室内は意外にもスッキリとしていた。
白を基調に、必要最低限の家電しか揃っていない。
余計な物は必要ない、と言う和久井の性格が滲み出ていた。
「この部屋に入ったのは、お前が初めてだな。適当に座ってくれ」
和久井がテーブルの椅子を引く。
適当ではなく“ここへ座れ”と言う意味だと思い、大人しく椅子に座った。
「俺の女になった気分はどうだ?」
料理を食べる前に、味を聞かれているような気分だった。
まだ承諾もしていない…
「俺のこと好きになったか?」
口に牛乳が含んであったら、和久井の顔面に噴き出しているとこだった。
「冗談だよ」
和久井が声を上げて笑う。
和久井が…
笑っている…
学校では絶対に見せない表情である。
「冗談は言わない主義じゃなかったの?」
「初めて言ってみたんだよ」
からかわれているだけなのに、恥ずかしくなる自分が嫌になった。
「あんたの意図が見えないわ」
「疑いから入って用心する慎重な性格は、俺が選んだ相手として合格だ。だがその的を俺に向けるのは間違ってる」
毎回どの立ち位置から、物事を見ているの?
もう諦めて、卒業するまで和久井の彼女になった方が楽かもしれないと思った。
「大体俺に向かって弓を構えて何の意味がある?それにお前を俺の女にしたところで、俺に何のメリットがある?」
また遠回しに喧嘩を売られている…
しかしストレートに言われて考えてみると、たしかに言われてみれば、その通りである。
本心を疑ったところで、和久井が種明かしなんてする訳がない。
手品師に、トリックを教えてほしいと、聞いているようなものである。
それに和久井の言う通り、自分を相手にするメリットを探すなんて、暗闇で黒いシミを探すくらい難しい…
「そうね」
「やけに素直だな。別に悪意があって言った訳じゃないから勘違いするなよ」
「彼女を演じる自信なんてないわ」
「本当になれば演じる必要はない」
「だって卒業するまでって」
「そんな下らないこと考えていたのか?」
「レンタル彼女みたい」
「桜が咲く前に散る心配をするくらい、バカげてる」
「でも結局は散るんでしょ?」
「バカだな。散ってるんじゃない。舞ってるんだ」
くそ…
本当に…ああ言えばこう言う…
「あんたは、桜が咲く前に、場所取りさせるくらい自分勝手で理不尽で強引よ」
「今のは面白い」
和久井が声を上げて笑う。
また笑った…
ちゃんと笑える心を持っているのを知って、少しだけ安心した。
「自然体でいい。自然体で」
なんで二回言ったの…
「なんで?」
「あ?」
「じゃあなんで私なの?」
和久井の表情から、笑みが消える。
「どうせろくに会話もしたことないのに、とか考えてるんだろ?」
黙って頷いた。
「有名になった俳優が街を歩いていてスカウトされる時、そこに会話はあるか?球団が高校野球を見てドラフト指名する時、そこに会話はあるか?」
一体何の話をしているの?
「もちろん相手を知る上で、コミュニケーションは必要かもしれない。だが入社試験の面接や、金融機関の身辺調査じゃあるまいし、人を選ぶ入口に、本来会話なんてものは必要ない。そもそもお前がここに居るのはなぜだ?答えはお前が知っているはずだ」
ハッキリ分かったのは、ベラベラ喋る和久井は、アイドルではなく、ラジオ番組のMCに向いているということだけだった。
和久井が眉間に皺を寄せて睨んでいる。
「ちゃんと聞こえているわよ」
心の内を悟られないように装った。
ここへ来たのは、紛れもなく自分の意志である。
どのタイミングでも、たしかに帰ることはできた。
自信が無いのは努力不足、人格の差は苦労の差だと、死んだお婆ちゃんから、教わったことがある。
自分に自信が無いのも、住む世界を比べるのも、たった18年間だけど、これまで女性としての
「和久井の言う通りかもね」
「お前が素直だと、逆に自分が間違った事を言ったんじゃないかと思う」
いつも一言二言余計な男…
「今日はうちで夕食でも食べていけ」
「冗談でしょ?もうそろそろ帰るわ」
「なんでだよ?」
なんでだよって…
「いきなり家にお邪魔して、夕食までご馳走になるなんてできないわ」
「堅っ苦しいこと考えるな。うちは世間で思われているより、ずっとフランクな連中ばかりだ」
世間に影響力があること自体が、普通ではないのを、解っていない…
断る理由を探していると、部屋の扉がノックされた。
「なんだ?」
「凛花様がお呼びです」
メイドが扉越しに応える。
「帰ってきたのか?」
和久井が舌打ちをする。
「ドラマの合間を縫って寄ったそうです」
お母さんと仲が良くないのか…
「今行く」
和久井は、溜め息を吐いた。
どうやら展開が一転し、一難は間逃れたようである。
「お前も一緒に来い」
え?
………
一難去ってまた一難とは、まさに今のような状況を迎えた人が作った言葉に違いない。
「うそでしょ?」
「人の家にお邪魔してどうのとか、さっき言ってたな?挨拶するのが普通じゃないのか?」
和久井の性格の悪さが、滲み出ていた。
「きっとお母さんは、私の存在に気付いてないわよ」
そう言う問題でないのは、百も承知だったけど、必死に抵抗した。
「うちの親は、麻薬探知犬みたいな嗅覚だ。玄関に他人の靴があるだけで、確実にお前の存在に気付いてる」
まずい…
非常にまずい…
「決まりだな」
拾われた子犬のように、自宅まで来てしまったばっかりに…
「どうした?」
どうした?
どうしたもこうしたもない…
親との対面を
ここで和久井家の夕食のおかずを考えられるほど、肝は据わってない。
「べ…別に」
「お前の考えていることくらい分かる」
「なに?」
感情を悟られずに聞いた。
「親に出くわす可能性を想定せずに、家まで来てしまった自分のバカさ加減を後悔してる」
だいせいかーい!
くそ…
手元にハンカチがあったら、噛んで引っ張りたいくらい当たっている…
こうなったら、鉛のように重たい腰を意地でも上げるしかない…
「残念ハズレ」
「だったらさっさと行くぞ」
和久井が部屋の扉に手を掛ける。
どうやら逃げる選択肢は…
ないわね…
本当は、頭も体も全力で拒否していた。
深い溜め息をゆっくり吐いて腰を上げると、廊下を進む和久井の背中を追った。
−−−−−−−−−−
漫画のような大広間に入ると、サスペンスドラマでよく見る女優が、マグカップ片手に、台本のような冊子に目を通していた。
「
和久井の名前を呼んだだけで寒気が走り、穏やかな状況でないのが、伝わった。
抑揚のない声のトーンは、さすが女優である。
「なんだ?」
咄嗟に和久井の背後に隠れた。
「言わなくても分かるわよね?」
もしかして…
張り詰めた空気の原因って…
私…
「俺はテレパシーできる宇宙人じゃないから、言われなきゃ分からない。言われても分からないこともあるけどな」
「昨日の夕方に、梅宮さんの息子と会ったわね?」
梅宮さん?
「誰だそいつ?」
「とぼけないでちょうだい。梅宮さんから直接聞いたのよ」
「ああ…あのバカ犬を散歩していたバカ息子か?」
先ほど見かけた二世タレントだ…
「いきなり俺に向かって、犬が吠えてきたから、
和久井のことだから、どうせ飼い主に似るとかなんとか言って、怒らせたのだろう。
「梅宮さんのお父さんとは、ドラマでも共演したことのある仲なの。あまりトラブル染みたことは、ご近所で起こさないでちょうだい」
「あれがトラブルになるなら、5m感覚で街中に警備を配置した方がいい。あの歳になって、こんな超が付くほど下らない内容を、親に報告してる時点で、俺からしたら救いようのない出来損ないだ。それをわざわざ俺の耳に届くよう、根回しを入れるバカ親にも呆れて
和久井が眠たそうに欠伸をする。
「もういいわ」
凛花は、これ以上話をしても、無駄だと悟ったに違いない。
挨拶するタイミングは、今しかない。
「お邪魔しています」
和久井の背中からひょっこり顔を出した。
「あらやだ!」
突然の来訪者に凛化が驚く。
「白々しい反応するなよ」
和久井が、冷たい視線を凛花に送る。
「すごく綺麗な子!うちの事務所に来ないかしら?」
なかなか人を見る目があるみたいね…
それにしても、レスポンスの良さは、さすが和久井の親だと思った。
「恥ずかしいところを見せちゃったわね。楼真の母の凛花です」
『テレビで見たことあります』と言う言葉は、喉元で留まった。
「初めまして…あの…和久井くんのクラスメイトの…」
手が震えるほど緊張していた。
「
名前を名乗る前に言葉は
なぜ?
なぜ私の名前を?
サスペンスドラマに出た記憶はない。
「相澤から聞かせてもらったわ」
愉快そうに微笑む凛花の表情は、和久井にそっくりだった。
「単刀直入に聞くわね。恋乃葉ちゃんにとって、楼真はボーイフレンド?それともフィアンセ?」
唐突に意表を突く厄介な性格まで、和久井にそっくりだった。
「おい」
和久井が凛花を睨みつける。
ん?
ボーイフレンドかフィアンセ?
えーっと…
「ただのフィアンセです」
フィアンセ?
しまった…
フィアンセは、たしかフランス語で、女性からみた婚約者という意味だったはず…
選択肢を与えられたにもかかわらず、心を読ませまいと焦って、二択を間違えてしまった。
決勝戦でオウンゴールを決めてしまったくらいの失態である。
一番驚いた表情をしているのは、和久井だった。
「それは嬉しいわ」
え?
「こんな頭の良さそうで美人な子が、バカ息子のことを、そうやって思ってくれているなんて」
「バカはこいつだ。だからボーイフレンドとフィアンセの意味を間違えた。フィアンセの頭に『ただの』って付いてるんだから、間違えだって分かるだろ」
和久井が段々と本調子で苛立ち始める。
「あ…そうです…緊張していて、間違えてしまいました」
照れ笑いをしながら、焦って頭を下げた。
「あら残念」
凛花が、残念そうな表情をする。
普段から感情表現を演じる女優だけあって、それが本当かどうかなど、素人には分からなかった。
「お父さん今週は帰らないそうだから、夕食は先に食べてちょうだい。恋乃葉ちゃんも、お家の都合が良かったら、夕食も食べていってね」
凛花が冊子をバッグに入れて、大広間を出ようとする。
「あ…ありがとうございます」
和久井の言う通り、テレビドラマで見るキレキレな役柄からは、想像もできないほど打ち解けやすかった。
「素敵なお母さんね」
「是非ともどの辺がそう思ったのか聞きたいが、聞くだけ時間の無駄だから、その話は墓場まで持って帰ってくれ」
和久井は不機嫌に鼻で笑った。
「今日はせっかくだけどやっぱり帰るわ」
「どうして?」
「家で夕食作らなきゃいけないし」
「お前が作ってんのか?」
「そうよ」
「どうして?」
「どうしてってお母さんは居ないから」
「どうして?」
無神経な同じ言葉で、徐々に腹が立ってきた。
「私が幼い時に出て行ったからよ」
「どうして?」
デリカシーの欠片もない男…
パンチングマシンがあったら、世界記録を塗り替えられそうな気がした。
「さっきからバカにしてんの?」
「不謹慎なことを言うな。お前のことを知りたくて真剣に聞いてるんだ」
和久井の一方的な質問の方が、不謹慎なのは、間違いなかった。
「安っぽい小説みたいに在り来たりだけど、お母さんは買い物に行ったきり、今日に至るまで戻ってきてないわ」
「そんな遠くに買い物に行ってんのか?」
「んなわけないでしょ!出て行ったのよ!だから物心ついてからは、私が家事全般を率先してやってる!もちろん早起きできた時は、お弁当も自分で作ってるし、妹とお父さんのも作ってるわ!だから夕食を招待してくれる気持ちは嬉しいけど、帰らなきゃいけないの!また今度ゆっくり時間がある時に、お邪魔させてもらうわ」
付け入る隙のない完璧なゴールである。
「なるほど…お前も大変だな…」
まれに話が解る時もあるようね…
「せっかくだけどごめんね」
和久井の表情が曇り気味になる。
「そうか…それじゃあ仕方ない。夕食はお前の家で済ませよう」
はい??
耳に手を当てて、聞き返してやろうかと思った。
あっさり同点に追いつかれてしまった。
「なんでそうなるの?」
「こういうのは初動が大事だ。クリスマスを一緒に過ごす相手として挨拶に行く」
「よく分からないけど、物事や言動にはタイミングってものがあるでしょ」
上手く断らなければ、大惨事になりかねない…
「タイミングは
和久井の言うタイミングは、おそらく親との対面を差している。
「
「お前とはまず争点がちがう。俺は別にダメージを与えに行くつもりは、ミジンコ程もない」
駄目押しの追加点を取られて、ゲームセットを確信した。
こうなったら、逆にどう上手く乗り切れるかに、思考をシフトするしかない…
「ちょっとだけ時間をちょうだい」
「いちいち面倒くさい奴だな?別に家の中が汚くたって、父親がパンツ一丁だって何とも思わない」
くそ…
どちらも当たっている…
「とにかく電話を掛けさせて」
内容を聞かれたくなかったので、ラーメン屋の厨房にありそうな、巨大冷蔵庫の脇に避難した。
現状で頼れるのは、妹の愛ノ
仕方なく電話を掛けた。
雑音がうるさく、耳からスマートフォンを離して画面を睨みつけた。
カラオケにでも行っているのだろう。
「なに?」
部屋から出たであろう愛乃葉が、不機嫌レベル100の態度で、電話に応じた。
普段、愛ノ葉に電話を掛けることなど、ほとんどない。
「今日何時頃帰る?」
「は?別に何時だっていいじゃん」
明るくて、目立ちたがり屋の愛ノ葉は、自分と真反対の性格をしている。
普段なら好きなだけ遊んで、好きな時間に帰ってきて構わない。
でも今日は違う…
「お願いがあるんだけど?」
「無理」
即答である。
お金を貸していて返していない奴の、お願いを断る早さのレスポンスである。
思わずスマートフォンを叩きつけて、踏みつけて、蹴飛ばしそうになった。
愛ノ葉に、お金を借りた覚えはない…
むしろ逆に貸している側である…
「うちの学校の和久井って知ってる?」
もう最後の手段しかない…
「は?逆に知らない人いるの?」
愛ノ葉のいちいち突っかかってくる性格は、小学校の時からなにも変わっていない。
「なら話は早いわ」
一気に畳み掛けるしかなかった。
「は?」
「今日うちに来るのよ」
「はあ?」
「理由は話すと長くなるから、後で説明するわ。家の中を片付けといてほしいの」
「冗談でしょ?」
「冗談を飛ばせるほど余裕があったら、一番頼みたくないあんたに、電話なんてしてないわ」
「マジ?」
「今は和久井の家に居るから、そっちに帰るのは2時間後くらい。後は頼んだわよ」
「ちょ…」
愛ノ葉の言葉は聞かず、一方的に電話を切った。
競馬で言えば、最下位人気の馬に賭けてしまった…
「終わったか?」
「一応ね」
「全部聞こえてたぞ」
「先に言っておくけど、あんたみたいな御曹司が、踏み入れたことのないような領域よ」
「そんなことは言われなくても分かってる」
どういう意味?
自分で思うのはともかく、人にそう思われるのは感に触った。
「何でも初めての経験には、興味が湧くものだ」
和久井は、初めてお祭りに行く子供のような目になっていた。
どんな言葉を並べても、マイナスをプラスに、ネガティブをポジティブに変換するポテンシャルには、勝てる気がしなかった。
「10分後に出るぞ」
「え?早いわよ」
和久井は自分ではなく、スマートフォンに向かって喋っていた。
相手は多分、運転手である相澤だ。
「ちょっと着替えてくるから、そこで待ってろ」
和久井は凛花が座っていた椅子を、顎で差すと、リビングから出て行った。
溜め息を吐くと、凛花が座っていた椅子に腰を降ろした。
−−−−−−−−−−
なんでこんなことになってしまったのか…
和久井が、自分の隣の席に座っていたからか…
こうして裏切りも矛盾も、後悔も失敗も、自分への慰めのために、誰かのせいにする。
世の中の大半の人が、仕事も恋愛も学校も、きっと上手くいってないのだろう。
そう思うと、少しだけ気が楽になった。
どんな不可抗力であれ、自分に降り掛かる出来事は、全て自分の蒔いた種である。
今はその芽を刈り取る作業…
善いことも悪いことも、垂れ下がった紐を、引き上げたに過ぎない…
きっと自分は、あの窓側の席を引いた時点で、全ての運を、使い果たしてしまった…
そんな下らないことを考えていると、リビングの扉が開いた。
「そこは凛花さまの御席よ。御退きになりなさい」
先ほど玄関先で、雪女のような目で睨みつけていたメイドが入ってきた。
なんでもかんでも、御を付けて喋ればいいと思っているタイプである。
「どこの馬の骨か分からない、じゃじゃ馬が座れるような椅子じゃないわ」
ん?
じゃじゃ馬?
またバカにされている…
今日一日和久井と一緒に居て、バカにされた
「それは失礼したわね。ただ和久井がこの場に居ても同じことが言える?言えるなら今すぐ退いてあげるわ。もっとも和久井がここへ座ってろって言ったんだけどね。猫を被って言いたいことも言えない飼い猫の分際で、偉そうなこと言わないで」
メイドの顔が噴火寸前になる。
「せいぜい馬は馬らしく、届くことのない目の前にぶら下げられたニンジンを、一生追い掛け回すのね」
「別に私は和久井のことなんて追い掛けてないわ…ただ…」
「なによ?」
「馬と猫…走ったらどっちが早いかしら?」
誰かと、こんな口げんかをしたのは初めてだった。
「何を言ってるの?あなたはせいぜい調教されなきゃ、走り方も常識も分からないただの調教馬よ?」
「ご主人様に擦り寄らなきゃ餌ももらえない猫のように、びくびくして生きるより、調教されて、人を乗せて草原を自由に走り回る馬の方が、100億倍マシだわ」
「そうね。あなたは調教されても、所詮レースに出られないで、草原に捨てられる落ちこぼれの馬だったわ」
「あら?もともと捨てられていて拾われた野良猫に言われたくないわ。あんたみたいな野良猫は、猫じゃらしで遊ばれて一生喜んでなさい」
一瞬、メイドから湯煙が立っているように見えた。
「楼真さまのことなんてなにも分かってないくせに…」
とうとう噴火したのだろう。
「支度できたぞ」
絶妙のバッドタイミングで、和久井が扉を開ける。
スーツに身を包み、見慣れない七三分けが視界に入ってしまい、面白すぎて思わず吹き出した。
「どこの新入社員?それともどっかに面接でも行くの?」
「似たようなものだ」
笑われているにも関わらず、和久井は意外にも不機嫌にならなかった。
「なにを話してたんだ?」
「なにも話してないわよ」
「こいつは俺の幼馴染みだ」
和久井の顔が一瞬冷めたのが分かった。
なんとなく予想していた関係と展開ではあったが、どんな反応をすればいいか分からなかった。
楼真さまのことなんて、なにも分かってないくせに…
先ほどの言葉が頭の中で木霊する。
「話してた内容は、あんたの学校の様子や授業態度よ」
「余計なこと言ってないだろうな?」
視界に入るメイドが、怪訝な表情でこちらの様子を覗っている。
「あんたにとっての余計なことなんて、そもそも知らないわ」
「なに不機嫌になってる?」
「やっぱり今日は一人で帰るわ」
勢いよく椅子から立ち上って、リビングを出た。
「おい」
和久井の言葉が聞こえたけど、振り向かずに玄関を出て走った。
駐車場には、エンジンの掛かった車の傍にスタンバイする、相澤の姿が視界に入った。
「椿さま」
相澤の呼び掛けにも応えることなく走った。
門柱の鉄扉に手を掛けたが、扉は開かなかった。
なんで?
まさか内側から出るのにも、セキュリティが?
この場から逃げ出したいのに逃げられない。
機械音が鳴り、扉の鍵が解錠される。
リモコンかなにかで、相澤が開けてくれたに違いない。
恐ろしい体験をした心霊スポットくらい、もう来たくないと思った。
屋敷を出ても、警察に追われる逃亡者のように、ひたすら走った。
なぜか涙が頬を伝っている。
もう何がなんだか分からなかった…
気付くと土地勘はないはずなのに、代官山駅に到着していた。
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