第3話

 既に陽が落ちた店の外へ出ると、店前には相澤が車の傍で待っていた。


 こんな冷え込んだ中でも、律義に外で立って待っているのは、相澤かアイドルの出待ちくらいである。


 「屋敷に帰る」


 和久井が、後部座席に乗り込む。


 屋敷?


 「かしこまりました」


 優しそうな笑顔の相澤が、開け放たれた後部座席の車内を、手の平で差す。


 「失礼します」


 座席に座り、隣に視線を移すと、和久井は目を瞑り、仮眠体制に入った。


 コップに入った水が置いてあっても、零れなそうなくらい、丁寧に車が動き出す。


 屋敷とは、家のことなのだろうか?


 だとしたら、やはり噂通り普通の家系ではない…


 私もまさかその屋敷に?


 目を閉じている和久井には、聞けなかった。


 またしても道中の会話は一切なく、安定した走行で、車は代官山に到着した。


 神奈川の田舎に住む地元を思い出すと、とても同じ国だとは思えなかった。


 右も左も著名人や有名人が、住んでいるんだろうな…


 いちいち一軒一軒が、お洒落な外観の住宅だった。


 その中でも一際異彩を放つ、まさに屋敷と言う表現に相応しい建物の前に、車はゆっくりと停車した。


 屋敷を取り囲むように、ぐるりと回った外壁は、大河ドラマの名家に出てきそうな建造物だった。


 四方八方に設置された防犯カメラを眺めていると、犬の散歩をしている男性が、こちらの車に向かって、会釈した。


 「あ…」


 間違いない…


 テレビで引っ張り凧の、二世タレントである。


 「なんだ?」


 和久井が不機嫌そうに瞼(まぶた)を開ける。


 「あ…あれって珍しい犬よね?」


 どっからどう見ても、ただの柴犬を指差した。


 「そうだな」


 和久井は素っ気なく相槌を打つと、再び目を閉じた。


 重い門柱が、横にスライドすると、高さ2mはありそうな、鉄扉の前で車は停まった。


 素人が芸能人を見た時のリアクションは、バレずにリカバリーできたようである。


 相澤は、運転席から車を降りると、慣れた様子で顔認証と指紋認証を済ませた。


 国家機密でも厳重に保管しているような、セキュリティである。


 鉄扉が開くと、そこには大自然のような、庭園が広がっていた。


 こんな一等地の住宅敷地内に、アルプスの少女がスキップして出てきそうな庭園があるのは、おそらくここしかないはず…


 駐車場には、見たこともないスポーツカーや、左ハンドルの車が、何台も並んでいた。


 見たことがないから、それが高いのか珍しいのかさえ、分からなかった。


 やはり住む次元が違い過ぎる…


 車を降りると、和久井は織田信長が出てきそうな、城屋敷に向かって歩き出した。


 相澤に礼を言って車を降りると、気だるそうに歩く、和久井のあとに続いた。


 「俺の女なら、たかだかテレビに映る凡人を見たくらいで、いちいち反応するな」


 え?


 和久井にとっては、芸能人も所詮は、凡人扱いである。


 華麗だと思っていたリカバリーは、単なる赤っ恥の照れ笑いに終わった。


 玄関扉を開けると、二次元で見るような、コスチュームを着た、三人のメイドが声を揃えて、和久井の帰宅を迎えた。


 貸し切りで予約した高級レストランの、お客様を持て成すような迎え入れである。


 もちろん高級レストランに行ったことはない。


 それにしても、毎日こんな出入りをしているのかと想像すると、思わず面白くて笑いそうになった。


 「誰かいるか?」


 和久井が話した瞬間、三人のメイドの視線が、一瞬だけ自分に向けられたのが分かった。


 「莱人らいとさまはまだニューヨークから戻られていません。凛花りんかさまは近くでドラマの撮影です。蓮生れんせいさまと瑠美るみさまも、まだお仕事から戻られていません」


 メイド三人のボス的存在であろう、50代くらいのメイドが応える。


 先ほど笑いそうになった8割の原因を占めたのが、このパンチの効いたメイドである。


 デフォルトが十中八九…いや…九分九厘…ギャグである。


 もし色恋の目的で、メイドカフェまで足を運び、このメイドに接客されたら、客は激怒するどころか、返金を要求するに違いない。


 頼むからこれ以上、視界で余計な動きは、取らないでくれと願った。


 自分の存在に触れてこないと言うことは、おそらく和久井のプライベートには、干渉しないと言う、ルールがあるのだろう。


 「こちらのお綺麗な女性はお友達ですか?」


 ないんかーい!!


 「今年のクリスマスをと過ごす相手だ」


 また余計なことを…


 「まあ!」


 五十路のメイドは、自分が告白されたかのように赤くなった顔を、両手で覆った。


 学生時代の青春でも、フラッシュバックしたのだろう。


 もう一人の中年のメイドは愛想笑いをし、歳の近そうなメイドは、雪女のように凍りつくような目で、自分を睨んでいた。


 「入れ」


 和久井が、足元にセッティングされたスリッパを履く。


 睨みつけられた意味は、天然バカキャラハーフタレントでも、解るだろう。


 和久井に気がある…


 けどそんなことは、芸能人の破局ニュース並みにどうでも良かった。


 三人のメイドに一言礼を言ってから、用意されたスリッパで、和久井家の敷居を跨いだ。


 大きく見開いた吹き抜けのホール…

 床に敷き詰められた大理石…

 上り下りだけで酔いそうな螺旋状の階段…

 バカ高そうな銅像…

 天井から吊り下がるバカでかいシャンデリア…

 その辺のバカが描いたような絵画…


 どれもロードショーに出てくる大富豪の屋敷だった。


 階段を上がり、二階の廊下を進み、右へ左へと、また廊下を進み、映画で有名になった、魔法学校のような造りだった。


 ようやく突き当たりの部屋まで行くと、和久井は扉を開けた。


 「おじゃまします」


 恐る恐る部屋に入ったが、広々とした部屋のわりに、室内は意外にもスッキリとしていた。


 白を基調に、必要最低限の家電しか揃っていない。


 余計な物は必要ない、と言う和久井の性格が滲み出ていた。


 「この部屋に入ったのは、お前が初めてだな。適当に座ってくれ」


 和久井がテーブルの椅子を引く。


 適当ではなく“ここへ座れ”と言う意味だと思い、大人しく椅子に座った。


 「俺の女になった気分はどうだ?」


 料理を食べる前に、味を聞かれているような気分だった。


 まだ承諾もしていない…


 「俺のこと好きになったか?」


 口に牛乳が含んであったら、和久井の顔面に噴き出しているとこだった。


 「冗談だよ」


 和久井が声を上げて笑う。


 和久井が…


 笑っている…


 学校では絶対に見せない表情である。


 「冗談は言わない主義じゃなかったの?」


 「初めて言ってみたんだよ」


 からかわれているだけなのに、恥ずかしくなる自分が嫌になった。


 「あんたの意図が見えないわ」


 「疑いから入って用心する慎重な性格は、俺が選んだ相手として合格だ。だがその的を俺に向けるのは間違ってる」


 毎回どの立ち位置から、物事を見ているの?


 もう諦めて、卒業するまで和久井の彼女になった方が楽かもしれないと思った。


 「大体俺に向かって弓を構えて何の意味がある?それにお前を俺の女にしたところで、俺に何のメリットがある?」


 また遠回しに喧嘩を売られている…


 しかしストレートに言われて考えてみると、たしかに言われてみれば、その通りである。


 本心を疑ったところで、和久井が種明かしなんてする訳がない。


 手品師に、トリックを教えてほしいと、聞いているようなものである。


 それに和久井の言う通り、自分を相手にするメリットを探すなんて、暗闇で黒いシミを探すくらい難しい…


 「そうね」


 「やけに素直だな。別に悪意があって言った訳じゃないから勘違いするなよ」


 「彼女を演じる自信なんてないわ」


 「本当になれば演じる必要はない」


 「だって卒業するまでって」


 「そんな下らないこと考えていたのか?」


 「レンタル彼女みたい」


 「桜が咲く前に散る心配をするくらい、バカげてる」


 「でも結局は散るんでしょ?」


 「バカだな。散ってるんじゃない。舞ってるんだ」


 くそ…


 本当に…ああ言えばこう言う…


 「あんたは、桜が咲く前に、場所取りさせるくらい自分勝手で理不尽で強引よ」


 「今のは面白い」


 和久井が声を上げて笑う。


 また笑った…


 ちゃんと笑える心を持っているのを知って、少しだけ安心した。


 「自然体でいい。自然体で」


 なんで二回言ったの…


 「なんで?」


 「あ?」


 「じゃあなんで私なの?」


 和久井の表情から、笑みが消える。


 「どうせろくに会話もしたことないのに、とか考えてるんだろ?」


 黙って頷いた。


 「有名になった俳優が街を歩いていてスカウトされる時、そこに会話はあるか?球団が高校野球を見てドラフト指名する時、そこに会話はあるか?」


 一体何の話をしているの?


 「もちろん相手を知る上で、コミュニケーションは必要かもしれない。だが入社試験の面接や、金融機関の身辺調査じゃあるまいし、人を選ぶ入口に、本来会話なんてものは必要ない。そもそもお前がここに居るのはなぜだ?答えはお前が知っているはずだ」


 ハッキリ分かったのは、ベラベラ喋る和久井は、アイドルではなく、ラジオ番組のMCに向いているということだけだった。


 和久井が眉間に皺を寄せて睨んでいる。


 「ちゃんと聞こえているわよ」


 心の内を悟られないように装った。


 ここへ来たのは、紛れもなく自分の意志である。


 どのタイミングでも、たしかに帰ることはできた。


 自信が無いのは努力不足、人格の差は苦労の差だと、死んだお婆ちゃんから、教わったことがある。


 自分に自信が無いのも、住む世界を比べるのも、たった18年間だけど、これまで女性としての怠慢たいまんな人生を歩み、世の中と向き合ってこなかった結果でしかない。


 「和久井の言う通りかもね」


 「お前が素直だと、逆に自分が間違った事を言ったんじゃないかと思う」


 いつも一言二言余計な男…


 「今日はうちで夕食でも食べていけ」


 「冗談でしょ?もうそろそろ帰るわ」


 「なんでだよ?」


 なんでだよって…


 「いきなり家にお邪魔して、夕食までご馳走になるなんてできないわ」


 「堅っ苦しいこと考えるな。うちは世間で思われているより、ずっとフランクな連中ばかりだ」


 世間に影響力があること自体が、普通ではないのを、解っていない…


 断る理由を探していると、部屋の扉がノックされた。


 「なんだ?」


 「凛花様がお呼びです」


 メイドが扉越しに応える。


 「帰ってきたのか?」

 和久井が舌打ちをする。


 「ドラマの合間を縫って寄ったそうです」


 お母さんと仲が良くないのか…


 「今行く」


 和久井は、溜め息を吐いた。


 どうやら展開が一転し、一難は間逃れたようである。


 「お前も一緒に来い」


 え?


 ………


 一難去ってまた一難とは、まさに今のような状況を迎えた人が作った言葉に違いない。

 

 「うそでしょ?」


 「人の家にお邪魔してどうのとか、さっき言ってたな?挨拶するのが普通じゃないのか?」


 和久井の性格の悪さが、滲み出ていた。


 「きっとお母さんは、私の存在に気付いてないわよ」


 そう言う問題でないのは、百も承知だったけど、必死に抵抗した。


 「うちの親は、麻薬探知犬みたいな嗅覚だ。玄関に他人の靴があるだけで、確実にお前の存在に気付いてる」


 まずい…

 

 非常にまずい…


 「決まりだな」


 拾われた子犬のように、自宅まで来てしまったばっかりに…


 「どうした?」


 どうした?


 どうしたもこうしたもない…


 親との対面を躊躇ちゅうちょしているに決まっている。


 ここで和久井家の夕食のおかずを考えられるほど、肝は据わってない。


 「べ…別に」


 「お前の考えていることくらい分かる」


 「なに?」


 感情を悟られずに聞いた。


 「親に出くわす可能性を想定せずに、家まで来てしまった自分のバカさ加減を後悔してる」


 だいせいかーい!


 くそ…


 手元にハンカチがあったら、噛んで引っ張りたいくらい当たっている…


 こうなったら、鉛のように重たい腰を意地でも上げるしかない…


 「残念ハズレ」


 「だったらさっさと行くぞ」


 和久井が部屋の扉に手を掛ける。


 どうやら逃げる選択肢は…


 ないわね…


 本当は、頭も体も全力で拒否していた。


 深い溜め息をゆっくり吐いて腰を上げると、廊下を進む和久井の背中を追った。


 −−−−−−−−−−


 漫画のような大広間に入ると、サスペンスドラマでよく見る女優が、マグカップ片手に、台本のような冊子に目を通していた。


 「楼真ろうま


 和久井の名前を呼んだだけで寒気が走り、穏やかな状況でないのが、伝わった。


 抑揚のない声のトーンは、さすが女優である。


 「なんだ?」


 咄嗟に和久井の背後に隠れた。


 「言わなくても分かるわよね?」


 凛花りんかが、テーブルにマグカップを置く音が聞こえる。


 もしかして…


 張り詰めた空気の原因って…


 私…


 「俺はテレパシーできる宇宙人じゃないから、言われなきゃ分からない。言われても分からないこともあるけどな」


 「昨日の夕方に、梅宮さんの息子と会ったわね?」


 梅宮さん?


 「誰だそいつ?」


 「とぼけないでちょうだい。梅宮さんから直接聞いたのよ」


 「ああ…あのバカ犬を散歩していたバカ息子か?」


 先ほど見かけた二世タレントだ…


 「いきなり俺に向かって、犬が吠えてきたから、しつけがなってないと注意しただけだ」


 和久井のことだから、どうせ飼い主に似るとかなんとか言って、怒らせたのだろう。


 「梅宮さんのお父さんとは、ドラマでも共演したことのある仲なの。あまりトラブル染みたことは、ご近所で起こさないでちょうだい」


 「あれがトラブルになるなら、5m感覚で街中に警備を配置した方がいい。あの歳になって、こんな超が付くほど下らない内容を、親に報告してる時点で、俺からしたら救いようのない出来損ないだ。それをわざわざ俺の耳に届くよう、根回しを入れるバカ親にも呆れて欠伸あくびが出るぜ」


 和久井が眠たそうに欠伸をする。


 「もういいわ」


 凛花は、これ以上話をしても、無駄だと悟ったに違いない。


 挨拶するタイミングは、今しかない。


 「お邪魔しています」


 和久井の背中からひょっこり顔を出した。


 「あらやだ!」


 突然の来訪者に凛化が驚く。


 「白々しい反応するなよ」

 和久井が、冷たい視線を凛花に送る。


 「すごく綺麗な子!うちの事務所に来ないかしら?」


 なかなか人を見る目があるみたいね…


 それにしても、レスポンスの良さは、さすが和久井の親だと思った。


 「恥ずかしいところを見せちゃったわね。楼真の母の凛花です」


 『テレビで見たことあります』と言う言葉は、喉元で留まった。


 「初めまして…あの…和久井くんのクラスメイトの…」


 手が震えるほど緊張していた。


 「椿つばき恋乃葉このはちゃんよね?」


 名前を名乗る前に言葉はさえぎられた。


 なぜ?

 なぜ私の名前を?


 サスペンスドラマに出た記憶はない。


 「相澤から聞かせてもらったわ」


 愉快そうに微笑む凛花の表情は、和久井にそっくりだった。


 「単刀直入に聞くわね。恋乃葉ちゃんにとって、楼真はボーイフレンド?それともフィアンセ?」


 唐突に意表を突く厄介な性格まで、和久井にそっくりだった。


 「おい」


 和久井が凛花を睨みつける。


 ん?

 ボーイフレンドかフィアンセ?


 えーっと…


 「ただのフィアンセです」


 フィアンセ?


 しまった…


 フィアンセは、たしかフランス語で、女性からみた婚約者という意味だったはず…


 選択肢を与えられたにもかかわらず、心を読ませまいと焦って、二択を間違えてしまった。


 決勝戦でオウンゴールを決めてしまったくらいの失態である。


 一番驚いた表情をしているのは、和久井だった。


 「それは嬉しいわ」


 え?


 「こんな頭の良さそうで美人な子が、バカ息子のことを、そうやって思ってくれているなんて」


 「バカはこいつだ。だからボーイフレンドとフィアンセの意味を間違えた。フィアンセの頭に『ただの』って付いてるんだから、間違えだって分かるだろ」


 和久井が段々と本調子で苛立ち始める。


 「あ…そうです…緊張していて、間違えてしまいました」


 照れ笑いをしながら、焦って頭を下げた。


 「あら残念」


 凛花が、残念そうな表情をする。


 普段から感情表現を演じる女優だけあって、それが本当かどうかなど、素人には分からなかった。


 「お父さん今週は帰らないそうだから、夕食は先に食べてちょうだい。恋乃葉ちゃんも、お家の都合が良かったら、夕食も食べていってね」


 凛花が冊子をバッグに入れて、大広間を出ようとする。


 「あ…ありがとうございます」


 和久井の言う通り、テレビドラマで見るキレキレな役柄からは、想像もできないほど打ち解けやすかった。


 「素敵なお母さんね」


 「是非ともどの辺がそう思ったのか聞きたいが、聞くだけ時間の無駄だから、その話は墓場まで持って帰ってくれ」


 和久井は不機嫌に鼻で笑った。


 「今日はせっかくだけどやっぱり帰るわ」


 「どうして?」


 「家で夕食作らなきゃいけないし」


 「お前が作ってんのか?」


 「そうよ」


 「どうして?」


 「どうしてってお母さんは居ないから」


 「どうして?」


 無神経な同じ言葉で、徐々に腹が立ってきた。


 「私が幼い時に出て行ったからよ」


 「どうして?」

 

 デリカシーの欠片もない男…


 パンチングマシンがあったら、世界記録を塗り替えられそうな気がした。


 「さっきからバカにしてんの?」


 「不謹慎なことを言うな。お前のことを知りたくて真剣に聞いてるんだ」


 和久井の一方的な質問の方が、不謹慎なのは、間違いなかった。


 「安っぽい小説みたいに在り来たりだけど、お母さんは買い物に行ったきり、今日に至るまで戻ってきてないわ」


 「そんな遠くに買い物に行ってんのか?」


 「んなわけないでしょ!出て行ったのよ!だから物心ついてからは、私が家事全般を率先してやってる!もちろん早起きできた時は、お弁当も自分で作ってるし、妹とお父さんのも作ってるわ!だから夕食を招待してくれる気持ちは嬉しいけど、帰らなきゃいけないの!また今度ゆっくり時間がある時に、お邪魔させてもらうわ」


 付け入る隙のない完璧なゴールである。


 「なるほど…お前も大変だな…」


 まれに話が解る時もあるようね…


 「せっかくだけどごめんね」


 和久井の表情が曇り気味になる。


 「そうか…それじゃあ仕方ない。夕食はお前の家で済ませよう」


 はい??


 耳に手を当てて、聞き返してやろうかと思った。


 あっさり同点に追いつかれてしまった。


 「なんでそうなるの?」


 「こういうのは初動が大事だ。クリスマスを一緒に過ごす相手として挨拶に行く」


 「よく分からないけど、物事や言動にはタイミングってものがあるでしょ」


 上手く断らなければ、大惨事になりかねない…


 「タイミングははかるものじゃなくて、本来作るものだ」


 和久井の言うタイミングは、おそらく親との対面を差している。


 「あらかじめジャブを入れておくのと、突然ストレートを放つのじゃあ、受け取り方が変わってくるわ」


 「お前とはまず争点がちがう。俺は別にダメージを与えに行くつもりは、ミジンコ程もない」


 駄目押しの追加点を取られて、ゲームセットを確信した。


 こうなったら、逆にどう上手く乗り切れるかに、思考をシフトするしかない…


 「ちょっとだけ時間をちょうだい」


 「いちいち面倒くさい奴だな?別に家の中が汚くたって、父親がパンツ一丁だって何とも思わない」


 くそ…


 どちらも当たっている…


 「とにかく電話を掛けさせて」


 内容を聞かれたくなかったので、ラーメン屋の厨房にありそうな、巨大冷蔵庫の脇に避難した。


 現状で頼れるのは、妹の愛ノまのはしかいない…


 仕方なく電話を掛けた。


 雑音がうるさく、耳からスマートフォンを離して画面を睨みつけた。


 カラオケにでも行っているのだろう。


 「なに?」


 部屋から出たであろう愛乃葉が、不機嫌レベル100の態度で、電話に応じた。


 普段、愛ノ葉に電話を掛けることなど、ほとんどない。


 「今日何時頃帰る?」


 「は?別に何時だっていいじゃん」


 明るくて、目立ちたがり屋の愛ノ葉は、自分と真反対の性格をしている。


 普段なら好きなだけ遊んで、好きな時間に帰ってきて構わない。


 でも今日は違う…


 「お願いがあるんだけど?」


 「無理」


 即答である。


 お金を貸していて返していない奴の、お願いを断る早さのレスポンスである。


 思わずスマートフォンを叩きつけて、踏みつけて、蹴飛ばしそうになった。


 愛ノ葉に、お金を借りた覚えはない…


 むしろ逆に貸している側である…


 「うちの学校の和久井って知ってる?」


 もう最後の手段しかない…


 「は?逆に知らない人いるの?」


 愛ノ葉のいちいち突っかかってくる性格は、小学校の時からなにも変わっていない。


 「なら話は早いわ」


 一気に畳み掛けるしかなかった。


 「は?」


 「今日うちに来るのよ」


 「はあ?」


 「理由は話すと長くなるから、後で説明するわ。家の中を片付けといてほしいの」


 「冗談でしょ?」


 「冗談を飛ばせるほど余裕があったら、一番頼みたくないあんたに、電話なんてしてないわ」


 「マジ?」


 「今は和久井の家に居るから、そっちに帰るのは2時間後くらい。後は頼んだわよ」


 「ちょ…」


 愛ノ葉の言葉は聞かず、一方的に電話を切った。


 競馬で言えば、最下位人気の馬に賭けてしまった…


 「終わったか?」


 「一応ね」


 「全部聞こえてたぞ」


 「先に言っておくけど、あんたみたいな御曹司が、踏み入れたことのないような領域よ」 


 「そんなことは言われなくても分かってる」


 どういう意味?

 

 自分で思うのはともかく、人にそう思われるのは感に触った。


 「何でも初めての経験には、興味が湧くものだ」


 和久井は、初めてお祭りに行く子供のような目になっていた。


 どんな言葉を並べても、マイナスをプラスに、ネガティブをポジティブに変換するポテンシャルには、勝てる気がしなかった。


 「10分後に出るぞ」


 「え?早いわよ」


 和久井は自分ではなく、スマートフォンに向かって喋っていた。


 相手は多分、運転手である相澤だ。


 「ちょっと着替えてくるから、そこで待ってろ」


 和久井は凛花が座っていた椅子を、顎で差すと、リビングから出て行った。


 溜め息を吐くと、凛花が座っていた椅子に腰を降ろした。

 

 −−−−−−−−−−


 なんでこんなことになってしまったのか…


 和久井が、自分の隣の席に座っていたからか…


 こうして裏切りも矛盾も、後悔も失敗も、自分への慰めのために、誰かのせいにする。


 世の中の大半の人が、仕事も恋愛も学校も、きっと上手くいってないのだろう。


 そう思うと、少しだけ気が楽になった。


 どんな不可抗力であれ、自分に降り掛かる出来事は、全て自分の蒔いた種である。


 今はその芽を刈り取る作業…


 善いことも悪いことも、垂れ下がった紐を、引き上げたに過ぎない…


 きっと自分は、あの窓側の席を引いた時点で、全ての運を、使い果たしてしまった…


 そんな下らないことを考えていると、リビングの扉が開いた。


 「そこは凛花さまの御席よ。御退きになりなさい」


 先ほど玄関先で、雪女のような目で睨みつけていたメイドが入ってきた。


 なんでもかんでも、御を付けて喋ればいいと思っているタイプである。


 「どこの馬の骨か分からない、じゃじゃ馬が座れるような椅子じゃないわ」


 ん?


 じゃじゃ馬?


 またバカにされている…


 今日一日和久井と一緒に居て、バカにされた鬱憤うっぷんの糸が切れた音がした。


 「それは失礼したわね。ただ和久井がこの場に居ても同じことが言える?言えるなら今すぐ退いてあげるわ。もっとも和久井がここへ座ってろって言ったんだけどね。猫を被って言いたいことも言えない飼い猫の分際で、偉そうなこと言わないで」


 メイドの顔が噴火寸前になる。


 「せいぜい馬は馬らしく、届くことのない目の前にぶら下げられたニンジンを、一生追い掛け回すのね」


 「別に私は和久井のことなんて追い掛けてないわ…ただ…」


 「なによ?」


 「馬と猫…走ったらどっちが早いかしら?」


 誰かと、こんな口げんかをしたのは初めてだった。


 「何を言ってるの?あなたはせいぜい調教されなきゃ、走り方も常識も分からないただの調教馬よ?」


 「ご主人様に擦り寄らなきゃ餌ももらえない猫のように、びくびくして生きるより、調教されて、人を乗せて草原を自由に走り回る馬の方が、100億倍マシだわ」


 「そうね。あなたは調教されても、所詮レースに出られないで、草原に捨てられる落ちこぼれの馬だったわ」


 「あら?もともと捨てられていて拾われた野良猫に言われたくないわ。あんたみたいな野良猫は、猫じゃらしで遊ばれて一生喜んでなさい」


 一瞬、メイドから湯煙が立っているように見えた。


 「楼真さまのことなんてなにも分かってないくせに…」


 とうとう噴火したのだろう。


 「支度できたぞ」


 絶妙のバッドタイミングで、和久井が扉を開ける。


 スーツに身を包み、見慣れない七三分けが視界に入ってしまい、面白すぎて思わず吹き出した。


 「どこの新入社員?それともどっかに面接でも行くの?」


 「似たようなものだ」


 笑われているにも関わらず、和久井は意外にも不機嫌にならなかった。


 「なにを話してたんだ?」


 「なにも話してないわよ」


 「こいつは俺の幼馴染みだ」


 和久井の顔が一瞬冷めたのが分かった。


 なんとなく予想していた関係と展開ではあったが、どんな反応をすればいいか分からなかった。


 楼真さまのことなんて、なにも分かってないくせに…


 先ほどの言葉が頭の中で木霊する。


 「話してた内容は、あんたの学校の様子や授業態度よ」


 「余計なこと言ってないだろうな?」


 視界に入るメイドが、怪訝な表情でこちらの様子を覗っている。


 「あんたにとっての余計なことなんて、そもそも知らないわ」


 「なに不機嫌になってる?」


 「やっぱり今日は一人で帰るわ」


 勢いよく椅子から立ち上って、リビングを出た。


 「おい」


 和久井の言葉が聞こえたけど、振り向かずに玄関を出て走った。


 駐車場には、エンジンの掛かった車の傍にスタンバイする、相澤の姿が視界に入った。


 「椿さま」


 相澤の呼び掛けにも応えることなく走った。


 門柱の鉄扉に手を掛けたが、扉は開かなかった。


 なんで?


 まさか内側から出るのにも、セキュリティが?


 この場から逃げ出したいのに逃げられない。


 機械音が鳴り、扉の鍵が解錠される。


 リモコンかなにかで、相澤が開けてくれたに違いない。


 恐ろしい体験をした心霊スポットくらい、もう来たくないと思った。


 屋敷を出ても、警察に追われる逃亡者のように、ひたすら走った。


 なぜか涙が頬を伝っている。


 もう何がなんだか分からなかった…


 気付くと土地勘はないはずなのに、代官山駅に到着していた。

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