―師弟―


 梅の花が風なびく如月。

 任務の完了報告をするため、官邸に訪れていた紫苑は、そこで熱盛から新たな任務を言い渡されることになった。


「君にまた官吏候補生の担当官を頼みたい」


 自分のような人間に担当されては、その候補生も可哀想だと言ってやれば、熱盛は「謙遜かね」と返して笑う。実際、彼が過去に受け持った候補生達は、みな優秀な官吏に育っている。しかし、それは彼らに元々その素質があったからだと紫苑は思う。自分は閉じていた羽根を広げる手助けをしただけ。とは言え、国長直々に言い渡されたのでは授かるしかない。


「……で、そいつは一体誰なんです?」


 彼は敦盛の口から出た名前に少し驚いた。

――月下。

 彼女は以前から知る少女で、紫苑を見掛けると嬉しそうな顔で他国の話をせがんだ。あまり親しい仲ではなかったが、せがまれる度に土産代わりの話をしてやれば、まるで空想旅行をしているように聞いていた。楽しそうな笑顔が印象に残る少女だった。


「だけど、確かあいつは薬師を目指しちゃいませんでしたか? 少なくとも半年前まではそう言ってましたが」

「そのことだがね……」


 敦盛の話では、数ヶ月前に月国の子供を預かった月下は、その子供の境遇に心を打たれ、外交官になることを目指したという。


(あの時のか)


 月下と最後に会った日、彼は官邸で雪国の官吏を目撃していた。それは珍しいことではないが、よく見掛ける外交官が犬を担いでいたので覚えている。


 通常、官吏を目指す者は数年掛けて専門知識を養い、試問に臨む。例え第一試問に及第しても、第四試問で落第してしまえば振り出しに戻ってしまうからだ。それだけ官吏になるのは難しい。かく言う彼も、三回ほど試問に落第している。年に一度しかない機会とはいえ、たった数ヶ月の準備期間だ。


「ちと急ぎ過ぎじゃないですか?」

「大丈夫。彼女は頭が良いからね。来月の筆記試問では必ず及第点を取るよ」


 ゆったりと微笑む、その時の敦盛には自信が窺えた。次月の試問で月下はとてもお見事とは言えない点数で、何とか及第を果たした。


「ま、こんなもんでしょう」


 解答用紙を見ながら紫苑が言うと、敦盛はそれに頷き、手拭いで汗を拭った。


「私もそう思うよ。たった数ヶ月であの娘はよくやった。それを大臣達に説明するのに骨が折れたがね」


 普段は見ることのない、疲弊しきったその様子に、紫苑はふと彼のあざなを思い出した。


(あんな尻の青い小娘にあの“殺陣さつじんの敦盛”がねえ……)


 穏やかな国長の、穏やかではない異名。戦乱の世を馳せたという名は歴史書にも記載が無く、紫苑も噂でしか聞いたことがない。けれど、熱盛が希に見せる鋭い雰囲気に、噂もまんざら嘘ではないと思っている。そんな彼にこんな顔をさせたのだ、あの少女は。

 彼女との数少ない交流から感じたのは、良くも悪くもまだだということ。あの調子では男を知らないどころか、おそらく手を繋いだことさえ無いだろう。もし、恋だの愛だのとは程遠い少女を自分が汚したら、この紳士は一体どんな顔をするのか。それはなかなか興味深い。


(なんつってね)


 興味本位で面倒を抱えるほど自分の許容量は大きくない。それよりも、せいぜい口が滑らないように努めなければ。紫苑がそんなことを考えていると、部屋の扉を控え目に叩く音がした。


「失礼します」


 月下だ。彼女は国長の執務室にいる紫苑に気が付き、僅かに驚いたようだった。


「よっ」


 紫苑が笑いながら手を上げれば、久しぶりに会った彼に彼女も満面の笑顔を向けた。







 翌日の午後、官邸内にある待機室で紫苑は月下を待った。

 あれから彼お得意のやり方で彼女を歓迎したが、逆に怒らせてしまい、いいや、月下が怒るのは予想の範囲内であったが、敦盛にまで叱られ、仕方が無く手土産を持って家に行ったがさらに怒らせた。まあ、それさえも予想の範囲内ではあったのだが。月下には宿題を与えて金を渡した。もちろん自腹だ。予定では、今日から彼女は女のなりをし、紫苑の下半身を疼かせるために悪戦苦闘する。


(さて、お嬢ちゃんはどう出るかな?)


 くくっと紫苑の口から笑いが漏れたその時、扉の向こうで伺いを立てる声がした。月下だ。紫苑は笑いを引っ込め、彼女が扉を開くのを待った。


「し、失礼します」


 扉の隙間からゆっくりと顔を出した彼女は、白い官吏服に身を包んでいた。言われた通り、ちゃんと女物の正装をしている。


(……そうか、乳は一応あんのか)


 少々感動した。ささやかだが、胸と腰の辺りに丸みを帯びている。これまで彼女が着ていた男物の作務衣では分からなかった体の線だ。紫苑が感心していると、月下は怖ず怖ずとした動きで扉を閉めた。


「おはようございます」

「おう」


 昼も過ぎたので「おはよう」ではない。しかし紫苑は突っ込まなかった。小さな事は気にしない主義なのだ。


 月下はしばし、恐ろしいくらいの真顔で俯いていたが、やがて意を決したように顔を上げ、つかつかと紫苑の方にやって来た。そして彼の目の前で立ち止まると、手を腰に添え、突然ゆらゆらと腰を揺らし始める。


「…………」


 変な踊りだ。何のつもりだろうか。紫苑の顔が怪訝に染まる。


「はあい、せ、ん、せ、い」

「…………」


 さすがの紫苑も、理解するのに少し時間が掛かった。


(なるほど……)


――酷過ぎる。宿題と言っても、ただ彼女に女の自覚を持たせたかっただけだ。実は全く期待をしていなかったが、まさか、ここまで酷いとは思わなかった。


「……疼いてませんね」

「疼くわけねえだろ」

「何だか気持ち悪いです」

「俺もだ。大体、その変な踊りは何だ」

「踊りって……これは女らしく科を作ったんです!」


 溜め息を吐くと、紫苑はがくりと項垂れた。月下もがっくりと肩を落とす。


「落第」

「あの、実はもう一つあるんです。恥ずかしいですけど、こっちは自信作です!」

「ほう……?」


 気を取り直したように言う月下に、紫苑は訝しい視線を送った。すると彼女は首を傾げ、胸を押し出すように腕を寄せ、再び腰を揺らし始めた。


(だから何なんだよ、その変な踊りは)


 ちなみに、彼女が一生懸命に強調している胸の存在感は残念ながら薄い。それどころか、おしっこを我慢している子供にしか見えない。


「落第」

「え?」

「言っとくが、及第するまで官吏の仕事はさせねえからな」

「ええ?」


 酷い、あんまりだと言い散らす月下を軽くあしらいながら、紫苑は口角が上がるのを止められなかった。面白くなってきた。これから一年が楽しみだ。







 家までの道のりを、月下は肩を落として歩いた。

 彼女がくだらない宿題を言い渡されてから一週間が経とうとしている。毎日のように彼を訪ねては成果を披露するが、あっさりと切り捨てられて帰される。そんな日々の一週間だった。


『お前に比べたら、学舎の鼻垂れ小娘の方がよっぽど色気がある』


 先ほど紫苑に言われた台詞を思い出し、月下はきいっと手拭いを噛みしめた。科作りに良しが出るまでは官吏の仕事に携わらせてもらえない。たった一年しかない貴重な時間を、こんな事に割いていていいのだろうか。


(気晴らしに公園にでも行ってみよう……)


 公園では桃の木が色鮮やかな並木道を作り、訪れる人を歓迎していた。園の奥に行けば桜の木もあり、桃の濃い色と桜の淡い色が混ざり合う、美しい風景を見ることができる。今の時期にしか楽しめない景色だ。


(あれ?)


 ふいに目に留まった、桃の木を見上げる人物。


(霞さん……?)


 ぼろ市の帰りに不可解な別れをしたままで、月下の胸にしこりを残したままだった。そんな彼は今、熱心に桃の花を見ている。もしかすると、雪深い国の生まれである彼には珍しいのかもしれない。


「こんにちは、霞さん」


 その声に、彼はゆっくりと振り返った。しかし彼女の姿を捉えると、上から下へ視線を流し、まるで彼らしくない、不躾な様子を見せる。


「霞さん?」

「あ、ごめんね。こんにちは、お久しぶり」


 彼ははっとなったように目を丸めると、申し訳なさそうに頭を掻いた。


「雰囲気がいつもと違うから……服のせいだね」


 霞が言っているのは、月下が袖を通している官吏服のことだ。決して体の線を強調している物ではないが、これまで体型を隠すような物ばかり着ていたため、多少なりとも体の線が出るこの姿が新鮮なのだろう。


「あはは、似合ってないですか?」

「いや、可愛いですよ」

「……え」


 彼の言葉に心臓が跳ねた。そんな月下に霞が首を傾げる。


「可愛いは失礼だったかな。すみません、俺そういうの疎くて」


 困り果てた様子の彼が微笑ましいが、同時に、やはりお世辞かと落胆してしまう。顔に出してしまいそうになるのを堪え、月下は慌てて話を逸らした。


「さっきは桃の花を熱心に見てましたね」


 彼は一瞬だけぽかんとすると、目を泳がせ、何かを考える素振りを見せた。


「この木……桃?」

「ええ、そうですよ」

「桜だと思ってた」


 聞くと、霞は桃と桜どころか、梅の区別もつかないという。


「確かに、三つとも同じ種類だから似てるかもしれません。特に桃と桜は咲く時期が被るので、見分け方を知らないと同じに見えるかも」

「へえ、そうなんだ。月下さんは見分けがつくの?」

「もちろん」


 月下は薬師を目指していた関係で薬草に詳しいが、それ以外の草木にも知識を持っている。説明はお茶の子さいさいだ。


「桃は花柄が短いので、枝に沿うように花が咲くんです。それに比べて、桜は花柄が長いので枝から零れるように花が咲きます」

「じゃあ梅は?」

「梅には花柄がありません。だから枝にくっつくように花が咲くんです」


 感心している霞に微笑み掛けると、彼が笑みを返してくれた。笑うと目が無くなってしまうその顔に、何故か月下の胸は忙しく働きだす。


「煙草を吸っても?」

「え、ええ。どうぞ」


 懐から取り出した煙草に燐寸まっちで火を点け、霞は吐く煙と一緒に言葉を紡いだ。


「花国は綺麗な国だね。雪国では花を見ることがほとんど無いから、来る度に目に焼き付けるんだ」


 敦盛とはまた少し違うが、霞は穏やかな雰囲気を持つ青年だ。一緒にいると時間がゆっくりと進む。そんな彼が、少しだけ寂しそうに見えるのは気のせいだろうか。


「ああ、そう言えば、担当官吏が紫苑さんになったらしいですね。敦盛様に聞きました」

「彼のこと、ご存知なんですか?」

「当然ですよ、他国でも有名な方だし。そんな方に教えを頂くなんて羨ましいなあ」


 現在のところ、教わっているのは科の作り方だけですがね、とは言えなかった。


「そんなに有名なんですか?」

「知らないんですか? 花国の歴史書にも彼の名前が載ってますよ」

「ええ?」


 初耳だ。いや、どちらかと言えば寝耳に水だ。


(あの人、いったい何者なんだ……)


 ふと視線を上げると、涙袋を膨らませた優しい笑顔の霞と目が合った。すると、彼は月下へ手を伸ばして彼女の髪に触れた。そう分かった途端、月下の心臓が再び忙しく動き始める。


「あ、あの……」

「桃の花びらが」


 霞が濃い色の花びらを手に取って見せた。近くで見た彼の指は細く、しかし意外に節くれだっている。


「さっきは言いそびれたけど、その服、とても似合ってますよ。可愛いと言ったのも本心です」


 目玉が零れるほど彼を見つめている月下に、霞は「じゃあ、またね」とだけ言い残し、何事もなかったように去って行った。


 どれ位ぼんやりしていたのだろう。

 時が止まるという感覚を月下は初めて知った。気が付くと、目の前には紫苑がいる。


「……お前、こんな所で何してんだ」


 あなたこそ何してるんですか、と胸の内で言ったつもりの言葉はしっかりと声になっていたらしく、紫苑は「家に帰る途中だ」と返した。そして上目遣いで彼を見つめる月下に眉を寄せ、厳しい表情になる。


「おい、大丈夫か?」

「あの、せんせい……」


 何だか頭が回らない。頬が焼けるように熱い。目が潤む。自分はきっと熱があるのだ。そう告げようと、月下が口を開き掛けた時だ。


「よし、合格」

「はい?」

「及第だ。もの凄く不本意だが、まあまあ良かった」


 紫苑の表情は彼の言葉通り、本当にもの凄く不本意そうだ。いいや、それよりも。


(……何の話?)


「よし、明日からはびしばしやるぞ。気合い入れろ」


 じゃあな、と手を上げると、紫苑はさっさと帰ってしまった。


「へ?」


 何に及第したのか、月下が正確に状況を理解するのは、頭が正常に働きだした次の日のことだ。

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