―試練―
一
――これは試練だ。
三人の重鎮を前にして月下は思う。
「何だ、この点数は。こんな点を取る者が官吏候補生だなど、花国の恥だ」
強面の左大臣に凄まれ、背中から嫌な汗が垂れた。
「長様がご推薦されているのに申し訳ありませんが、確かに不安になる点数ではありますね……」
右大臣は物腰こそ柔らかいが、片眉を上げる仕草がその神経質さを物語る。
「しかし及第点を取っている」
そんな曲者の二人に対峙するのは、月下が敬愛して
「ぎりぎりだがな」
「偶然の及第では?」
「ぎりぎりでも偶然でも及第点は及第点。それに重要なのは、試問よりも官吏になってからです。前例もある。それは君達も知っているだろう」
外交官になるためには、花国が定める四つの試問に合格する必要がある。
一つ目は筆記試問。専門知識から成る五百問を解答し、定められた点数以上で及第となる。そして二つ目が口頭試問。それが今行われている“これ”だ。
(口頭試問なんて名ばかりじゃないか)
貶し、詰り、時には全く関係の無い問題まで持ち出し、とことん言及する二人の大臣。彼らのそれは、候補生の確固たる意志を計るためだ。しかし、これでは受ける側からすれば査問と変わらない。やっぱり試練だ、と月下は思う。
その日の夕刻。
国長の推薦と擁護により、二つ目の口頭試問にも何とか合格を果たした月下は、さっそく敦盛の執務室に呼ばれた。部屋に入ると、そこには敦盛の他にもう一人。それは月下が見知った男だった。
「よっ」
男はにかっと笑い、片手を上げた。
「
この紫苑という男、長身で男前と言えなくもない顔立ちだが、無精髭を生やして頭はぼさぼさ。身なりも何だか薄汚れた男である。ところが小汚い見た目に反し、花国が誇る外交官の一人であり、かなり優秀な人物らしい、と月下は耳にしているのだが、普段の彼からは想像もつかないのが少し申し訳ない。
「月下、君のことは彼に任せる。仲良くやりなさい」
そう言って、敦盛はいつもの柔らかい笑みを浮かべた。
花国が定める三つ目の試問。それは現役官吏の下で、彼らの補佐をしながら学ぶこと。一年間の修行後、最終的な合否の判定は担当官吏が行う。そして及第の場合、四つ目の試問として、担当官の監視下で本格的な公務を遂行するのだ。
「よろしくお願いします!」
月下は彼の手を取り、ほぼ一方的な形で握手をした。優秀な人物の下で修行ができるとは光栄なこと。握る手にも力が入るというものだ。しかし、紫苑は空いている方の手で無精髭を撫でている。これはこの男が考え事をする時の癖だ。それを知っている月下は小首を傾げた。
「……と呼べ」
「はい?」
よく聞こえなかったので、耳に手を当て、もう一度聞き返す。
「だから、俺のことは“せんせい”と呼べ。
「…………」
馬鹿馬鹿しい。呆然と紫苑を見つめる月下の背後で、呆れを含んだ敦盛の呟きが聞こえた。
「『せ・ん・せ・い』て色っぽく呼べよ」
彼は薄気味悪い声を出し、月下は眉間に皺を寄せた。そんな彼女の鼻先を、紫苑の人差し指がびしりと指す。
「宿題だ。ひと月以内にその一言で俺の下半身を疼かせろ」
「…………」
疼かせろ、下半身を。ほんの一瞬だが月下の意識は遠い空の彼方に飛んだ。国長の部屋で、しかも国長の目の前でこの男は何を言い出すのだ。ふざけているのか。紫苑を見る彼女の目は半目を通り越し、既に睨みを利かせている。
「どういった理由でその様なことを言わなくちゃいけないんです? いくら貴方が担当官とはいえ、無意味なことはしたくにゃぎゅあ……っ!」
言い切る前に月下は奇妙な声を出した。紫苑のでかい両手によって、こめかみに握り拳を押し付けられたのだ。
「いだだだだ!」
「いきなり口答えたあ、いい度胸だ」
痛い、痛いと声を荒げる彼女に構わず、紫苑は容赦なく拳に力を加える。
「いいか、月下。お前に足りないのは色気だ。上官の言い付けを聞くか、それともまだ痛い目を見るか?」
「わかっ……分かりました! 言われた通りにします!」
不本意ながらも承諾すると、ようやく解放してもらえた。月下は両手でこめかみをさすり、今度は怯えを含んだ目を紫苑に向ける。何て横暴な人なんだ、こんな人だとは思わなかった、尊敬してたのに、と様々な思いが巡り、痛みも伴ってか何だか泣けてきた。
「じゃ、以上。今日はもう帰っていいぞ」
その言葉に敦盛が頷く。こういう場合、普段の彼なら間違いなく紫苑を咎めている。それを黙しているのは考えあってのことだろうが、ついつい恨みがましく見てしまう。ところが、視線の意味を正確に悟ったらしい熱盛が目を逸らした。言いたい事なら山ほどあるが、これも試練だ。歯を食いしばり、月下は自分に言い聞かせた。
二
「今後のことは追って連絡する。それまでは自宅待機だ。いいな」
返事もそこそこに、少しすり減った様子の月下が部屋を出て行く。ぱたん、と控え目な音を立てて扉が閉まると、詰めていた息を吐いたのは意外にも敦盛だった。可愛い月下に睨まれ、情けなくも緊張していたのだ。
「……君に任せると言った手前、こんなことを言うのは何だが、少し乱暴じゃないかね?」
振る舞いが雑だとしても、月下とて一応は女性なのだ。あれでもか弱いのだ。暗に仄めかした彼の言葉だが、紫苑はからかうような仕草で首を竦めた。
「俺はあいつが女だなんて思っちゃいませんよ」
敦盛は眉を顰める。
「女扱いされたきゃ、らしくすりゃいい。あいつは自分が女だっていう自覚が無さ過ぎます」
ああ、そういう事か。紫苑の言いたいことが分かった。へそ曲がりなやり方だが、彼の言うことも一理ある。
女性の外交官はまだまだ少ない。それは花国だけの話ではなく、他国でも同様だ。酷い場合は政治への女性進出を嫌う国もあり、そんな場所へ外交に行けば嘲りの対象になる。下手をすれば、性的な嫌がらせを受けることもあるだろう。
――そう、彼女は自覚しなければならない。
自分は女で、男よりもひ弱な体を持ち、それは受け身の体で、子を孕むものということを。ただ女であるというだけで、他国では政治の道具になり、慰み者になる可能性さえ秘めているのだ。
「まあ、手っ取り早く“女”を自覚させる方法を採ってもいいんですがね」
厭らしい笑いを浮かべる紫苑に、穏やかだった敦盛の目が細く尖った。
「……俺もまだ死にたくないし、その方法は止めとこうと思ってますがね」
尋常ではない殺気を向けられ、あの時は本当に死ぬかと思った。後の話だが、紫苑は月下にそう語ったという。
三
自宅の卓に突っ伏し、月下は唸る。理由は一つ、紫苑の事だ。
たまに会えば国外の話を聞かせてくれ、時には相談にものってくれた。それに加え、花国でも優秀な外交官だ。純粋に好ましく思っていた。紫苑の方は月下をどう思っていたか知らないが、少なくとも彼女は彼を慕っていた。
俺の下半身を疼かせろ!
唐突に下品な台詞を思い出し、顔が真っ赤に染まる。尊敬する男は、あの一言で苦手な人物に変わってしまった。彼と上手くやっていく自信がない。頭を抱えた彼女を、卓の向かいに座る蓮が心配そうに見ている。
「月下? 大丈夫?」
「うん、何でもないよ」
笑顔を浮かべたものの、蓮は納得していないらしく、眉尻を下げ、上目遣いで見つめる。彼に申し訳なさを覚える一方で、その優しさを嬉しくも思う。収まりの悪い髪を指で梳いてやれば、彼は気持ち良さそうに頭を擦り寄せた。
二人が穏やかに肩を寄せ合っていると、蓮が鼻をくん、と鳴らした。それは月下にとって不意の出来事だったが、一拍後に寝室からがたん、という物音が聞こえ、「しまった」という言葉が脳裏を過る。空気の入れ替えで窓を開けたままだったのだ。
(拙い、誰か……部屋にいる!)
蓮が上げる唸りを聞きながら、激しく鼓動を繰り返す胸を押さえて立ち上がろうとしたが、彼に腕を掴まれて制された。その力は強く、とても幼子のものとは思えない。振り向くと、そこには髪を逆立て、皮膚を引きつらせる蓮の姿があった。彼女を守るように前に出た彼が、寝室への襖を睨んでいる。
「蓮、変化は駄目」
月下は月国の変幻自在を目にしたことが無い。だが、今起ころうとしていることがそれだと分かった。がるるる、という獣の唸り。蓮は月下の制止には応えず、襖の向こうにある気配に威嚇を続け、今にも飛びかかって行きそうだった。変幻自在の能力は、使えば使うほど命をすり減らす。
「蓮! 変化はいけません!」
声を張り上げた途端、気配が強くなったのが感じられた。彼女の声に反応したのは蓮ではなく、襖の向こうの誰かだった。みしみしと、素足で畳を踏みしめる軋みが聞こえる。蓮を羽交いじめにしながら、ゆっくりと近付く足音に息を飲んだ。
やがて、重みのある足音は襖の前で止まり、不気味な静けさが訪れる。だが、次の瞬間だった。ばしん、という大きく耳障りな音が轟く。月下は驚きを隠せない。おそらく蓮も同じだろう。
何故なら、目の前には仁王立ちの紫苑がいたのだ。
「…………」
「ん? どうした?」
のたまう紫苑があまりにも腹立だしく、月下、我に返る。
「あなたって人はーーー!」
いつになく不機嫌な月下と、顰めっ面の蓮に睨まれていながら、紫苑は気にした様子も見せず、あまつさえ鼻歌をうたっている。
「月下、この男だれ?」
尖った声で蓮が聞く。
「知らない人」
「うわ、ひでえ」
即答で切り捨てた彼女に紫苑が抗議の声を上げる。
「少しからかい過ぎたと思って、わざわざ謝りに来たんだろうが」
月下の頬がぴくぴくと痙攣した。
「謝りに来て、さらに機嫌を損ねてたんじゃ話になりませんね」
怒りを抑え、月下はあからさまな作り笑いを満面に貼り付けた。
「顔が引き攣ってるぞ。愛想笑いもできねえのか」
「あなたは……! 本当に謝るつもりがあるんですか! だいたい、何で窓から入ってくるんです! 仮にも官史が何てことを! それと私をからかうのもいい加減にして下さい!」
かっとなって一息で言い切った。彼女の中で“苦手な人物”に位置付けられていた紫苑が、“嫌いな人”に昇格した瞬間だ。
息を荒げる彼女を蓮があんぐりと見ている。そんな彼に、紫苑が脳天気に話し掛けた。
「よお、お前が噂の坊主か」
にっと笑い、小さなの頭に置こうとした手は、月下の腕によって阻まれた。
「あ? 何だ?」
「この子に触らないでください」
険悪な雰囲気が漂う。そんな中、彼女に抱きしめられた蓮は場違いなほど幸せな空気を漂わせていた。
「ばい菌でもうつるってか?」
「いいえ。でも性格の悪さがうつるかもしれません! ので!」
きっぱりと言ってやった。言ってやったが、すぐに後悔に襲われた。紫苑の顔から笑みが消えたからだ。
「いい気になんじゃねえぞ。人格ってのはなあ、形成されるもんだ。汚染も感染も遺伝もしねえんだよ」
彼が、怯んでいる月下の胸ぐらを掴む。
冷や水を浴びせる、とはこの事を言うのだろうか。無表情で雰囲気を豹変させた男に、月下はまさに気勢を削がれていた。
「あんだけ
何も言えずにいる月下を乱雑に解放すると、紫苑は忌々し気な目で彼女の全身を眺めた。そして懐から皺くちゃの紙幣を一枚出し、その顔にぴしゃりと当てる。
「この金で官吏服を買え。ちゃんと婦人用を買えよ。明日からその鼠色の作務衣は間違っても着てくんな」
言い捨てた紫苑は踵を返し、玄関に向かった。今度はちゃんと出入り口を使うらしい。彼の背中に目をやると、心なしか、肩が小刻みに震えているように見えた。
戸が閉まる音を聞いた月下は、糸が切れたようにへたり込む。
「月下、だいじょぶ?」
蓮が手を差し出してくれた。正直、あまり大丈夫ではないが、そこは意地を出して何とか微笑む。
「蓮こそ大丈夫?」
そう言ってやると、蓮は意外そうな顔をして首を傾げる。
「怖くなかったの?」
「ううん。だってあの人、優しい目をしてたから……」
「え?」
横暴な暴力、不法侵入、挑発、金、優しい目――疑問符が頭上を飛びかう。卓の上には、いつの間にか小さな折り詰めが置いてあった。月下が好きな、しかし高価なため、滅多に食べられない店の菓子だ。
(この先、ずっとあの調子なのかなあ……)
荒んだ心を癒やすように、ふわふわと笑う蓮の顔を見た。そして
(これは試練だ!)
翌日から、嘔吐の形相で「せんせい」と
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