―漢―


「そんな馬鹿な……」


 分厚い書物を目の前に、月下の手はぶるぶると震えた。

 官邸の資料室で彼女が読んでいるのは、許可を取らなければ閲覧できない、重要文庫に属する花国の歴史書だ。


 先日、霞から紫苑の名が歴史書に載っているという驚愕の事実を聞いた彼女は、真偽を確かめるためにやって来た。もちろん、霞が嘘を言っているとは思っていない。思ってはいないが、もしかすると別の人物と間違えているのでは、とは思った。しかし、書を読んでみれば霞が正しかったことが分かる。いいや、それはいい。それはいいのだが。


(何だ、この功績は……)


 花国新暦・五十二年。戦後の鳥国復興支援に尽力。


 花国新暦・五十四年。風国、花国との間に平和条約を締結。


 花国新暦・五十六年。月国、花国関係の増進に貢献。


 花国新暦・五十七年。雪国、月国、花国の三カ国同盟の結成に尽力。


 花国新暦・六十一年。風国交易に貢献。


(か、風国かぜくに交易?)


 それは月下にも覚えがあった。一年前、海を持つ国、風国から魚を輸入できるようになったのだ。乾物ではあるものの、花国では高価だった海の魚が手頃な値段で食べられるようになった、と彼女も喜んでいた。


(その交易を結んだのが紫苑さん?)


 紫苑が外交官となって十年と聞いている。そのたった十年で、彼は歴史書に五つも名が載る功績をあげている。紫苑が有能だとは知っていたが、新たな事実を目の当たりにし、狐につままれた気分になった。


 そんなことがあった数日後。


 官邸前にそびえ立つけやきの前で、月下は紫苑と待ち合わせをしていた。

 官吏候補生となって初めての公務、正確には、公務を任命されたのは紫苑で、月下は彼の補佐をするだけなのだが、とにかく初めての公務である。内容は風国の公館で大使らと会食、という至って和やかなものだ。ちなみに、その会食に出席できない月下は握り飯を持参している。


(それにしても……)


 遅い。昨日の打ち合わせで、確かに紫苑は「欅の前に九時」と言っていたはず。ところが、待ち合わせの時間から一刻は経つのに彼は現れない。


(まさか寝坊でもしてるんじゃ……)


 会食は十一時からだ。まだ時間に余裕があるとは言え、自分で時間を指定したくせに遅れるとはどういう了見なのだ。月下がうんざりしながら腕組みをした時だ。


「よ、待たせたな」


 声と共に背後から蹴りを入れられた。つんのめりながら眼鏡を押さえる。振り返ると、男が片手を上げ、にやりと笑っていた。その姿を上から下まで見て、彼女は眉間に皺を寄せた。はて、この男、どこかで見たことがあるような、無いような。


「何じろじろ見てんだ。さっさと行くぞ」

「うわあああ!」


 この口調はやはり紫苑だ。月下は驚愕のあまりに仰け反った。何故なら、今の彼は無精髭を剃り、ぼさぼさの髪は綺麗に整え、皺の無い官吏服に身を包んでいるからだ。いつもはよれよれの、ちょっと汚い官吏服を身に付け、お世辞にも上品とは言えない風貌だというのに。


「……どなたですか?」

「ぶっ飛ばすぞ、てめえ」


 月下の渾身の冗談を軽くあしらい、紫苑はさっさと足を進めた。


「あの、紫苑さん」

「何度も言わせんな。先生と呼べ」

「はーい、せんせー」


 棒読みだ。その単語に苦しめられた彼女の、細やかな抵抗である。それを知っているため、紫苑は青筋を立てたものの、切れるのは耐えたらしい。そんな彼の葛藤を余所に月下は続けた。


「公務なのに付き人は居ないんですか?」


 基本的に、外交官は任務の際、一人では行動しない。“付き人”と呼ばれる武術や術に長けた者が最低でも二人は付き、彼らを危険から守る。


「付き人なんざいらん。何故なら俺がもの凄く強えから」

「…………」


 嘘っぽい。彼のいまいち信用に欠ける言葉に苦いものを覚えた。凄い人だとは分かっている。けれど、嫌な人でもある。月下にとって、紫苑は知れば知るほど持て余します存在になっていた。







「紫苑様、お待ちしておりました」


 風国の公館で彼らを出迎えてくれたのは、美しい顔立ちの女性だった。


「お招きに預かり光栄です。この者は私が指南を担当する月下です」

「月下と申します。本日はこちらで色々学ばせて頂きます。よろしくお願い致します」


 折り目正しく腰を折りながら、月下は内心、丁寧に挨拶をする紫苑に驚いていた。普段、品性の欠片も無さそうな彼は、熱盛を前にしても態度を改めない。ずいぶん、日頃との落差が激しいものだ。


 女性は紫苑を広間へ、月下をその隣に位置する小さな部屋へ案内した。広間の一部を区切った小部屋は付き人用の控え室になっており、仕切りに付いた覗き窓から広間を見渡せる。会食が始まると、月下は早速その覗き窓から広間を窺った。

 おそらく、円卓の上座に座っている壮年の男が風国の大使だろう。その隣には先程の女性。彼女は口元を手で隠し、品良く微笑んでいる。雰囲気から、大使夫人と思われる。彼女の隣には男が二人座り、紫苑は夫人の真向かい、大使の隣でもある席で食事をしていた。


「紫苑様。月国の情勢が怪しいというのは本当ですか? 商人達が一揆を起こすかもしれないという噂を耳にしました」

「そういう話は止めなさい。今日は私的な会食だ」


 楽しそうに噂話を口にした夫人を大使が窘める。客人の前で叱られて夫人は少し悄げた様子だ。すると紫苑は苦笑を漏らし、二人の間に割って入るように口を開いた。


「私もそんな噂は耳にしました。一揆のことは分かりませんが、月国はこれから……」

「紫苑殿、他国の噂話は止めましょう」


 大使が紫苑にきつい視線を送る。彼は本当にこの会食を楽しんでいるようだ。そんな彼に紫苑が詫び言と共に頭を下げた。


(……やっぱり)


 嫌な人だ。月下は握り飯を頬張りながら憮然とした。


 このひと月で紫苑の人となりは十分理解したつもりだ。彼は一見、他人に対して容赦がない。もちろん、それも彼の一部であるが、本来は気遣いができる男だ。女性に対しても紳士で礼儀正しい。“月下以外の女性に”というのが悔しいところだが。

 大使の機嫌が損なわれた状態で、敢えて夫人の話に乗ったのは、つまり怒りの矛先を自分に向けたということだ。付き人のこともしかり。紫苑の任務は危険が伴うものが多い。外交官である彼は身の安全を確保するのも務めの一つだが、護衛を任せることで付き人に危険が及ぶことを公然とできないのだ。だから、自分の身は自分で守るため、彼は自己鍛錬を欠かさない。


 紫苑は、自分の懐に入れた者が危険に晒されれば、間違いなくその命を平気で差し出す。月下とて蓮や敦盛を救うためならそうするが、あくまでそれは最終手段としてで、他に手があるならそちらを優先する。しかし、紫苑の場合は手っ取り早く救うため、あっさりと“最終手段”を使うに違いない。そして月下は、既に自分が彼の懐に入っていることを自覚している。苦虫を噛みしめるように、彼女は表情を歪めた。


 大使の機嫌を損ねたまま、嫌な雰囲気で終了した会食の帰り道。


「……師匠せんせい

「あ? ん?」


 月下の口からすんなりと出た言葉に紫苑が目を丸める。


「私は貴方のことが好きです」

「…………」


 返事が無いので見上げれば、紫苑は複雑そうな表情をしていた。


「何を勘違いしてんですか! 変な意味じゃありません! 人として好きって言ってるんです!」

「分かってるわ! 恥ずかしいことばかり言うんじゃねえ!」


 道端で大声を張り上げる二人に、通り過ぎる人々が振り返る。


「……とにかく、貴方からは色々学ぶことがあるし、早々に先立たれては困るんです。だから、もう少し自分に頓着してください」

「何の話だよ」

「鈍いですね、私だって本当はこんなこと言いたくないんですよ。だけど……」


 月下の言葉に紫苑が訝しい表情を作る。


「仕方ないでしょう? もう懐に入っちゃったんだから……」


 そう。片足程度だが、月下の懐にも紫苑が入ってしまっている。


 紫苑は「よくわからねえ」と言いながら頭を乱暴に掻いた。整えられていた髪型がいつものぼさぼさ頭に戻る。すると彼は、その手をそのまま月下の頭にぼすっと置いた。


「つまり何だ。『私は貴方が好きだから、無理しちゃ嫌よ』ってことか?」

「そ……そういうことです」


 月下の頬が染まるのをにやにやと見つめ、紫苑が首を竦めた。


「まあ、努力しましょ」


 以降、月下は彼を“師匠せんせい"と呼び、教えを仰ぐことになる。


 後になって分かったことだが、紫苑が時間を指定した際は、その時間に集合、ではなく、その時間に家を出る、という意味らしい。月下が怒鳴り散らしたのは言うまでもない。

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