第一、五章 いちの上、により下
―羈絆―
一
――長月。高い空、乾いた空気。長雨も終わり、
食材の買い出しに商店街へやって来た
腰掛けに座り、月下が本を開く。その隣では蓮が冷やし飴の瓶をかざして、沈澱する濁りと澄んだ層を見つめ、褐色の柔らかな光が透けて綺麗だと喜んでいる。彼は冷やし飴が何なのか分かっていない。しかし、雰囲気からそれを“おやつ”と判断し、ほくほくと蓋を開けた。その瞬間、鼻をついた刺激臭に笑顔がみるみる曇っていく。
「蓮に生姜の匂いは強かったみたいだね」
月下が笑うと、蓮は目を瞬かせ、やがて可笑しそうに笑いだした。
二人が共に暮らし始めたのは、今から二ヶ月前のことだ。混血を理由に虐待されていた彼は、祖国である
月下が過労で倒れてからの蓮は、彼女に対し、素直に喜怒哀楽を表すようになった。当初は彼の警戒心から色々とあったが、今では心を開いて彼女を慕っている。なんでも、敦盛との間で紳士協定なるものを結んだという。その内容を教えてくれないのが少々残念である。
「月下」
あれから、呼び名が“おまえ”から月下に変わった。彼の愛らしい声で名を呼ばれる度、彼女の胸はぽかぽかする。
「月下。ねえ、見て」
蓮が小さな指で鈴虫を摘んでいた。良い音色で鳴く秋の虫だ。月下に見せて満足すると、彼は鈴虫を草むらに放した。いつもそうなのだ、捕まえてはすぐに逃がしてしまう。月下は一度、せっかく捕まえたのに何故逃がすのかと聞いたことがある。すると小首を傾げた彼は、「だって、虫にもお家があるでしょう?」と答えた。同じような理由で、草花も愛でるだけで手折ることをしない。
(……優しい子)
月下が外交官を目指そうと思ったのは蓮のおかげだ。彼のような子をこれ以上増やさないため、時間は掛かるかもしれないが何かをしたかった。故に、今は薬師の勉学を中断している。そして
「さて、野菜が痛んでしまう。帰ろうか」
家に帰って昼餉を済ませると、月下は蓮に留守番を頼み、報告のために官邸へ足を運んだ。二十日に一度、彼の生活や体調を熱盛に報するのだ。
「……それでですね、以前はご飯をかき込んでたのですが、今ではお箸の使い方も上手になりました。ちゃんと口元に運んで食べるんです」
蓮の小さな成長を嬉しそうに語る月下を眺め、敦盛も頬を緩めている。お茶請けに、とっておきの栗きんとんまで出してくれた。
「まだ人見知りはありますが、最近はお喋りも増えて片言が直ってきてます。“いろはにほへと”も覚えました」
月下は好物の栗きんとんにも手を付けず、一生懸命話している。
「その調子なら、今月中には学舎に通えそうだね」
「はい。だけど、学舎へは来年の卯月にと考えてます」
学舎に行けば友達ができる。動物や虫もいいけれど、やはり人間の友達を作って欲しい。しかし、月下が官吏の試問に合格すれば、二人の時間が減るのは確かで、だからこそ、それまでは出来るだけ一緒に過ごしたい。
「そうか。君の思うようにしなさい」
お茶を口にした後、熱盛は卓の上で忘れられている栗きんとんの皿を差し出した。
「ところで食べないのかね? 好きだろう?」
好物に手を付けようとしない彼女を不思議に思ったようだ。月下が照れたように顔を伏せると、彼はその仕草を見てぴんときたらしい。
「蓮君の分は帰りに持たせてあげるよ。安心して食べなさい」
それを聞いて、月下はようやく栗きんとんを口にした。まったりとした滑らかな舌触り、栗の香りとほのかな甘み。さすがは“とっておき”だ。
世間話をしながら、敦盛と口直しの
「……っか。月下?」
はっとした。顔を上げると、覗き込む敦盛と目が合った。月下の肩がびくりと揺れる。
「どうしたんだい? 具合でも悪いのかね?」
「……いいえ、大丈夫です」
用件を済ませたのか、女性の姿は既に部屋にはなかった。
「敦盛様……」
こんな失礼な事を聞いては駄目だ。そう思うのに、月下は言葉を止めることができなかった。
「……さっきの方は誰ですか?」
敦盛が瞠目する。とても嫌なことを言った気がした。
「新しい秘書官だよ。霞殿からの書簡を届けてくれたんだ」
――霞。その名を聞き、月下は無意識に胸を撫で下ろした。そして、物言いたげな視線を向ける敦盛から目を逸らす。
「すみません。私、そろそろ帰りますね」
逃げるように部屋を出ていく彼女に、敦盛が開き掛けた口を、愁いの眼差しで噤んだ。
二
「お帰りなさい、月下!」
玄関の戸を開くと、いつものように蓮が満面の笑みで迎えてくれた。
「ただいま。おくらの所には行ったの?」
「うん。お爺ちゃんがね、たまには月下にも会いたいって言ってたよ」
相変わらず、老犬おくらに会いに行くのは蓮の大事な日課だ。
「そっか、嬉しいな」
はい、これ、とお土産の栗きんとんを見せてやると、蓮がきゃっきゃっとはしゃぐ。
「じゃあ、僕がお茶をいれてあげる」
最近、蓮はよくお手伝いをしてくれる。それは彼ができる範囲の些細な手伝いだが、多忙な彼女にとっては有りがたい。
茶が用意できるまでの間、月下は執務室でのことを思い返した。それはほんの僅かな時間のつもりだったが、気付くと、茶器を持った蓮が心配そうに立っていた。
「月下、どうしたの? すごく怖い顔だよ」
「……ごめん、何でもないよ」
すると、蓮が口をへの字に曲げる。
「僕、頼りない?」
「あ、いや……」
声を震わせた彼に月下は詰まる。
蓮は泣き虫だ。本当によく泣く。理由の多くは月下を心配してのことで、原因が自分にあるため、彼に泣かれるのは結構堪えるのだ。
「何でもない」と「気にしないで」を繰り返していると、蓮はそれ以上は何も言わなくなり、黙って茶を差し出してくれた。納得はいかないものの、彼女の言い分を尊重したのだろう。まだ幼いのに、自分より余程しっかりしている。彼の淹れる茶は味も香りも素晴らしく、とても幼子が淹れたとは思えない。急須と茶葉と、日々格闘する中で彼自身が身に付けたのだ。忙しい月下のために美味しいお茶を、という優しい配慮である。それに比べ、自分は敦盛のために何かしているだろか。いいや、していない。それどころか、困らせるような言葉を残して逃げ帰った。
夜になり、朝になっても、月下の気持ちが浮上することはなかった。その理由は自分でも分かっている。敦盛と秘書官が並ぶ姿を見たからだ。敦盛を見る彼女の目。艶を含んだ目だった。何故だか分からないが、とても嫌な気分だった。
(やきもち? いや、まさか……)
気持ちを持て余しながら作った朝餉は、茸と挽き肉の甘味噌炒めを白飯に乗せた丼飯だ。寝起きから濃ゆいそれを口に運びながら、蓮がちらちらと彼女を窺っている。彼はずっと浮かない顔をしている月下が心配らしく、おくらの家に行く準備をしつつも、なかなか出かけようしない。
「蓮、心配掛けてごめんね。色々立て込んでて少し疲れてるみたい。でも前みたいに無理はしないから大丈夫だよ」
「僕がもっとお手伝いできればいいのに……」
そんな事はない、彼の手伝いは今でも十分なのだ。いつだって気遣ってくれる蓮に対し、自分は気苦労を掛けてばかりいる。そう思うと、彼女の気分はますます下降した。
「……ありがとう。でも私は平気だから。ほら、おくらが待ってるよ」
「うん……」
玄関まで促すと、ようやく彼もその気になったらしい。「お土産持ってくるね」と言い残し、ようやく出掛けて行った。
(お土産って何だろう)
虫は嫌だな。木の実とかならいいな、と考えながら、月下は彼を見送った。
三
午後になり、学舎で授業を終えた月下はその足で雪国の公館へ向かった。雪国の官吏である霞に会うためだ。
蓮を預かった際、大金を支援してくれた人物とは、それ以降もちょくちょくと手紙のやり取りをしている。しかし、その人物がどこの誰なのかは未だに教えてもらえず、宛先さえ知らされていない。敦盛と霞の二人だけがそれを知っているため、これまでは熱盛に手紙を託していたのだが、昨日の今日でそれも気まずいため、霞に託そうと考えたのだ。
余談だが、数回の文通でその人物が男性であること、ある程度の地位を持つこと、蓮に特別な感情を持っていることが分かっていた。そのような背景から、月下は呼び名に困ったその人物を、本人の許しを得て
霞は二ヶ月に一度の頻度で花国を訪れ、滞在時は公館に籍を置いている。
「……この地図、本当に合ってるのかな?」
そこは背の高い塀が並ぶ路地だった。古い地図を頼りに公館を目指して来たはいいが、何故か地図にはない道に出てしまった。
「困ったな、これじゃ霞さんに会う前に日が暮れてしまう……」
「はいはい、霞はここですよ」
覚えのある声に仰いでみると、塀の向こうから人間の頭がひょこりと現れた。
「月下さん、久しぶり」
「霞さん?」
唐突に頭だけで登場したのは、偶然にも今から会いに行こうとしていた霞だった。背の高い塀よりもさらに長身な彼は、生首のような姿でにこにこと笑っている。
「もしかして、俺に会いに来てくれた?」
「え、ええ」
「いやあ、運命を感じるなあ」
後頭部を掻きながら、彼が軽い口調で言う。腕が見えたことで生首ではなくなったが、何だか様子がおかしい。
「霞さん、そこで何してるんですか?」
「恥ずかしながら、道に迷った上に嵌ってしまって」
「はまっ……て?」
いまいち的を射ない彼の説明に、月下は塀の向こう側に回った。
(あら、まあ)
確かに霞は嵌っている――
周りの風景に気を取られていたら溝板を踏み抜き、途方に暮れていたところに月下が現れたらしい。それで思わず運命を感じてしまったとのこと。
片足を膝まで泥溝に埋めた彼を前に、どうしたものかと考える。汚れたままでは歩くのも憚るだろうし、何より、足を引き抜けば辺り一面に汚泥の臭いが広がってしまう。
「とりあえず、近くの家から桶を借りて水を汲んできます」
「お願いします」
そう言って再び頭を掻く彼の足下には、煙草の吸い殻がいくつも落ちていた。溝に嵌りながら吸ったのだろうが、いったいどれくらい途方に暮れていたのやら。
借りた桶で水を運び、霞の汚れた足を流す。それを何度か繰り返すと、びしょびしょだが遠目には目立たない程度に綺麗になった。
「いやあ、助かった」
「お役に立てて良かったです」
ずい分のん気な人だな、と月下は笑みを漏らす。そして先程のことを思い出し、彼の足下を見た。
「霞さんは煙草を吸われるんですか?」
「え? うん」
彼女の視線につられて足下を見た彼は、そこに落ちている吸い殻に気が付いて場都の悪そうな顔をした。
「すみません」
「いいえ」
長身の体を小さく畳み、吸い殻を拾う彼の姿は何だか放っておけなくて、月下の母性本能は大いにを擽られた。
「そう言えば、月下さんの用は? 俺に会いに来たのでしょう?」
「そうでした。これを送っていただこうと思って……」
宛先の無い手紙を受け取った彼は、それが誰に宛てたものか、すぐに分かったらしい。
「珍しいね。普段は敦盛様に頼んでいるでしょう?」
そうなのだ、今になって彼に頼むのは不自然なのだ。けれど事情は話せないので、「色々ありまして」と誤魔化す。
「お願いできますか?」
「もちろん。これくらいお安いご用ですよ」
霞は涙袋を膨らませて笑ったが、一拍後には何やら真剣な顔をした。
「ところで、月下さん。助けてくれたついでと言っては何だけど……」
「はい?」
「もう一つ助けてもらってもいいかな?」
歯切れの悪い彼に首を傾げ、月下は促すように見つめる。
「公館に帰る道を教えてください」
「…………」
そうだった。確かに、霞は道に迷ったと最初に言っていた。
自分も迷子になりかけていたのだが、果たしてすんなり辿り着けるだろうか。そんな心配が頭を掠めたが、ふと気が付く。
(あれ……?)
あれほど曇っていた胸の内がいつの間にか晴れていた。
(まあ、いいか。とりあえず今は、とことん付き合いましょう!)
その後、案の定、役立たずの地図に振り回され、人に尋ねながら彷徨い、公館に辿り着いた頃にはすっかり夜になっていた。
ようやく家に帰れば、蓮に「遅い、お腹が減った」と詰られ、挙げ句の果てには「どぶ臭い!」と鼻を塞がれ、結局は月下にとって散々な一日になったとか。
因みに、蓮からのお土産は蝉の脱け殻だった。
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