―恥―

 据え膳食わぬは男の恥、とはよく言うが、彼の脳裏に浮かんだ言葉は、“据え膳食わぬが紳士の嗜み”だったとか。


 部屋に入るなり、彼は待ち構えていた女に抱き付かれ、衣服の上からでも十分に感触が味わえるだろう豊満な乳房を押し付けられた。

 彼の新しい秘書官は若く美しく肉感的で、彼女が色を含んだ目で見つめてくるのを、彼自身も気付いていた。気付いてはいたが、まさかこんな暴挙にでようとは。最近の若い娘の奔放さに頭を抱えたくなった。そんな彼の思いを余所に、彼女は瞳を潤わせ、吐息を含む甘い声で彼の名を囁いた。


「敦盛様……」


 それは御年八十を迎える花国の長の名だった。


「ずっとお慕いしておりました」


 敦盛はにっこりと、且つ、爽やかな笑顔を彼女に向ける。久しく使っていなかった特定の緊急時用の笑顔だ。


「ありがとう。こんなお爺さんには勿体ない言葉です」


 彼が昔から使用している、この“特定の緊急時用”の笑顔は、その手のお誘いをやんわりお断りする際の笑顔である。

 意味を正確に感じとったのか、彼女は悲しみに濡れた頬を彼の胸に擦り寄せた。同時に腹をつかって彼の股間を擦り、刺激を与えている。もちろん、偶然を装って。敦盛は手の平で額を押さえると、彼女に気付かれないよう、苦笑とも自嘲ともつかない表情でそっと口角を上げた。


(危なかった……もう少し若い頃なら間違いなく反応していた)


 今こそ思う、年を食っていて良かったと。この老体ならば、雄として食指が動くことは難しい。


(女性のこういう健気で強かな部分は嫌いではないが……)


 敦盛がこうして落ち着いているのは、偏に慣れているからと言える。彼がまだ若かった頃はこの手の誘いが日常茶飯事だった。八十歳を目前にした年になり、さすがに色を含んだ誘いは無くなっていたので今回は少し驚いたが、それでも彼が未だ女性の目を攫っているのは事実である。


(さて、これをどう切り抜けたものか)


 父親が娘にするように、敦盛はほっそりとした背中をぽんぽんと叩いた。


「貴女なら私のような年寄りではなく、もっと素敵な男性ひとがいるでしょう?」


 彼女はいやいやをするように首を振ると、体をさらに押し付け、彼の胸に顔を埋めながら小さく囁く。


「お願いします、お願いします……」


 一度だけでいいの、と付け加えられ、敦盛は思わず唸りそうになる。


(そんな事をしたら心臓発作で死んでしまいますよ……)


 若い娘に色ある誘いを受けて、嬉しくないと言えば嘘になる。けれど、今の彼はそれどころではなかった。


(ああ、もうすぐ来てしまう……)


 今日は蓮に関する定期報告の日なのだ。あと半刻もしないうちに月下がやって来る。本当なら時間を掛け、穏やかに彼女の気持ちを静めてやりたいが、残念ながらその時間は無い。さりとて、好意を無下にするのも心が痛む。


(困ったな)


 余所事など考えていたせいだろう、敦盛に僅かな隙ができた。彼は彼女から体当たりをくらい、長椅子に押し倒された。背中を強かに打ち付け、思わず上げた短い唸り声は射精時のそれに似ており、部屋の空気が一気に淫靡を纏う。

 仰向けで唖然としている彼の腹に馬乗りすると、彼女は胸元の合わせをずらし、自慢の乳房を晒した。ぽろりと零れた、二つの柔肉が余韻を残すように揺れるのを目にし、ようやく熱盛が我に返る――が、次の瞬間には、彼女の白い手が彼の下半身に伸び、再び思考が止まる。彼が呆けているのをいいことに、彼女は長着の合わせに手を入れ、素肌を撫ではじめた。


「止めなさい、女性がこんなことを……はしたないですよ!」


 直に胸を撫でられ、さらには裾除けの上から艶めかしい手付きで自身を刺激され、さすがの敦盛も動揺して強く咎めた。しかし、彼女はその言葉さえも否定するように頭を振る。そして未だ高ぶりを見せようとしない彼にじれ、生身の彼自身に触れようと、今度は裾除けの中にまで手を入れる。ここにきて紳士の代表である敦盛も、とうとう力ずくで抵抗した。片手で彼女の手を押さえ、もう片方の手で自分の体を支えて起き上がる。反動で彼女が倒れそうになると、その背に腕を回して支えた。

 お互いの息が掛かる距離に顔が近付いていた。乱れた呼吸を整えながら、敦盛は目と鼻の先にある彼女の顔を改めて見る。


「貴女は本当に美しい女性ひとです」


 彼女が目を見張った。潤んだ瞳が零れてしまいそうなほど見開かれている。


「それなのに、何が悲しくてこんな老人なんかを……」

「先ほども申しました。私はずっと貴方のことをお慕いしていて、貴方のお側にいたくてこのお仕事に就いたんです!」

「好いてくれる気持ちは嬉しく思いますが、だからと言ってこんな事は感心しませんよ」


 形の良い眉を寄せ、彼女がしょんぼりと項垂れる。彼は溜め息とも安堵の息ともつかないものを漏らし、額を押さえた。少しきつく言い過ぎたかもしれない。

 頭を優しく撫でてやった。そうして、老いた心臓には刺激の強い、晒されままの乳房を覆うつもりで着衣に手を掛けた――が。


(ああ、しまった……)


 色々なものに気を取られて気付くのが遅れた。すぐ間近まで迫った二つの足音に、敦盛はこの世に神は存在しないと悟ったとか。


「敦盛さまー!」


 扉が勢い良く開き、同時に白銀の髪を揺らして幼子が飛び込んできた。その名を呼ばれた老人は、ただ今、全てを放棄したい気分に駆られている。


 蓮は長椅子の上に敦盛を見付けると、ぴたりと動きを止めた。顔には出ていないが少し驚いているようだ。


「こら、蓮。部屋に入る前にはお伺いをたてなさいって言ったじゃないか」


 幼子から数拍ほど遅れ、駆け込んできたのは月下。


「熱盛様、すみ……」


 彼女の言葉は、途中で空気に溶けた。当然だ。長着を乱れさせた国長が、乳房剥き出しの女と長椅子の上で向き合っているのだから。しかも片手はその腰を抱き、片手は合わせを剥いでいる。実際はその逆のことをするつもりだったが、これでは剥いでいるように見えても仕方がない。

 月下はといえば、驚愕から無表情になり、次に赤面したかと思うと、見る見る間に眉を顰め、その顔を怒りの形相に変えた。


「敦盛さま、僕も患者さんやってあげようか?」


 何を勘違いしているかはさて置き、蓮が首を傾げて無邪気な提案をする。


「見ちゃいけません!」


 月下は彼の体を回れ右させると、吃驚している蓮を抱き上げ、凄まじい怒気を撒き散らしながら部屋を飛び出して行った。

 静まり返った部屋の隅では、冷や汗を流して瞑目する敦盛と、驚愕したまま固まっている秘書官の二人。


「……話はまた今度にしましょう。とりあえず身なりを整えてください」


 彼女を立ち上がらせて自分も身なりを整えた後、敦盛は急ぎ足で部屋を出た。

 扉が閉まる瞬間、背後で舌打ちが聞こえたが気付かなかったことにしよう。女性は本当に強かだ。


 敦盛は思う。据え膳食わない男の恥がなんぼのものか。愛する娘に濡れ場まがいの光景を見られる方が余程の恥だ。


 その後、月下に追い付いた敦盛はたくさんのお菓子で彼女の機嫌を取り、宥めすかせ、一日掛けてようやく誤解を解いた。

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