―伍―


「あの人が変」


 小屋の前に腰を下ろして蓮が言う。少し興奮気味で喧嘩腰にも見える。頬も赤い。何故だろう。おくらは疑問に思ったが黙っていた。

 沈黙が続くと今度は指遊びを始め、落ち着かない様子だ。もじもじしている。そして相変わらず頬は赤い。返答が欲しいのだろうか、面倒だな。おくらの目が半開きになった。


「……変、とは?」


 お前の方がたいがい変だがな。素直にそう言ったらまた面倒くさい事になるだろう。懸命な犬である彼は、口には出さずに先を促した。


「僕からはなれてくれないの」


 数日前の夜、蓮は心無い暴力を受けた。その日から、月下は彼と過ごす時間を最優先にしている。自分の事はすべて後回しにして、蓮にこれまで以上の時間を割き、これまで以上に彼と過ごそうとしている、とのこと。


「そうか……」


 どう答えればいいのだ。「そう」としか言いようがない。おくらは心の中でぼやいた。


「べたべたされて困るんだよね」

「では、何故、頬を染めて……」


 途端に蓮の顔が険しくなる。ああ、思わず口が滑った。


「僕が外に出るのだって嫌がるんだよ。ここにくるのも大変なんだから」


 過保護が助長するのを避けるために反発はしないが、この場所に来ることだけは絶対に譲らない、と蓮は言う。遠まわしに愛情余っての束縛だと言いたいようだが、月下は決して外出を渋っているのではない。彼の周囲に気を配っているだけだ。全ては彼を心配してのことだった。


「縛られるのが煩わしいなら噛んでやれ。いつも言っているだろう、矜持は守れ」

「そんなことしたら、あの人がないちゃう……」


 尻つぼみの小さな呟きだった。けれど、耳が遠い老犬のおくらにも、それはしっかりと聞こえた。


 最初こそ幼子の言葉を真に受けていたが、今はもう知っている。彼は心とは別の言葉で話している。その理由は知らないけれど、おくらの主も心と言葉が一致しない人物なので、人間とはそういう生き物なのだと思うことにしている。それよりも例の娘だ。束縛を嫌い、人への警戒心が強い彼をここまで手懐けるとは。おくらは件の娘に少々興味を持っていた。


 蓮がはっとしたように立ち上がる。


 空気の匂いを嗅ぐ彼から僅かに遅れ、おくらも人の匂いに気付いた。いくら老いているとはいえ、犬である自分よりも早く気付くとは、さすがは人狼一族だと感心する。


「蓮、迎えにきたよ」


 その声は若い娘の割には低く、落ち着いた声だった。蓮が喜びに満ちた顔をぐぐっと顰める。そして弾けるように振り返った。


「よけいな事しないでよ!」


 わざわざ不機嫌を装うのはどうしてだろう。犬である彼は、言葉は理解できても人の複雑な気持ちまでは理解できない。ただ、いつも聞いている“あの人”とはこの娘なのだと、それだけは分かった。


「まあまあ、そう言わないで」


 蓮の言葉をさらりと流し、月下はおくらに視線を向けた。


「君がおくらだね」


 おくらの「そうだ」という返事は、空気を吐き出す小さな鳴き声になり、彼女の耳に届いた。


「蓮がいつもお世話になってます。ありがとう」


 彼女に頭を撫でられ、おくらの尻尾が無意識に揺れた。触れられたところが気持ち良い。穏やかに地面を叩くそれは、彼の心情を嘘偽りなく語った。


「帰るんでしょ? 早くしてよ!」


 彼らを凝視していた蓮が急に声を荒げた。もたもたするなと罵りながら、彼女の腕を引っぱる姿は必死そのもので、おくらを憮然とさせる。


「分かったよ。そろそろお暇しようか」

「じゃあね、お爺ちゃん」


 おざなりな挨拶を口にして蓮が彼女の背中を押す。さっさとこの場から立ち去りたいらしい。そんな彼に戸惑いながらも、月下は最後に「またね」と言って微笑んだ。その笑顔が酷くやつれて映ったのは、おくらの気のせいではない。


(馬鹿だ馬鹿だと思っていたが、本当に馬鹿だった。小僧は毎日一緒にいて気付いていないのか)


 視力の悪い彼は、すぐに二人の姿を見失った。その代わりに、薄れていく匂いを眺めるように見送った。







 月下が夕餉の準備をする間、蓮は絵本の挿絵を眺めて時間をつぶした。字が読めないのだ。それを知った時、月下は瞳いっぱいに涙を溜めていた。蓮くらいの年なら簡単な読み書きはできる。つまり、彼がまともな教育を受けてこなかったことを意味し、教師である彼女の胸を痛めるには十分だった。


「蓮」


 顔を上げた彼は、月下の優しい目と合った。途端、心臓の辺りに痺れを覚える。


(……僕、どうしちゃったんだろう)


 最近の自分は喜怒哀楽が激しい。月下との些細なやり取りに心拍数が上がり、胸が苦しくなる。それは不快なものではないが、さりとて、いつも前触れなく気分が高揚するので疲れる。不思議な気持ち、初めての感情。


「蓮、まだ掛かるから先にお風呂に入ってしまいなさい」


 着替えを持って風呂場に向かうと、体を洗ってから湯船に浸かった。白い肌は湯の中でみるみる赤みを帯び、曼珠沙華の境界線がぼやけていく。すっかり馴れたもので、今では呪印を見ても怖くない。

 蓮は肩まで浸かり、「いち、に、さん」と、三十を数えた。からすの行水である彼には辛い時間だが、月下との約束なのだ。


「きゅう、じゅう、じゅう、じゅう……いち?」


 とても怪しく三十まで数えた彼は、のぼせる間際で風呂を上がり、頭と体をよく拭いた。そして寝間着を着て、脱衣場を出ようとした時だ。違和感を覚えた。月下の鼻歌が聞こえない。物音が何もしない。いつもの癖で鼻を鳴らした。何かあれば匂いで分かる。鼻の優れた彼は、目や耳で確かめるよりも臭覚に頼る方が早い。


「……ねえ」


 どんなに辿っても違和の正体が分からず、恐る恐る声を掛けた。けれど匂いが動くことはない。


「ねえったら!」


 声を張っても、風呂場に彼の声が反響するだけ。どきりと心臓が軋んだ。危険はない、大丈夫だ。自分にそう言い聞かせても、彼の鼓動はどんどん早まっていく。

 そっと台所を窺った。しかし、先ほど月下が立っていた焜炉台こんろだいに彼女の姿はなく、蓮はそのまま目線を戸棚に移す。そこにもやはり何もない――はずだった。


 蓮の目はびたりと止まる。視界の隅に何かが映っているが、見るのが怖い。心臓が口から出てきてしまいそうなほど暴れ、息苦しさに眉根が寄った。


「ああ、あっ……」


 激しい呼吸は声帯を震わせ、不本意に声が漏れる。少しずつ視線を床に落としていくと、彼の蒼い瞳に琥珀色が映った。その琥珀色は髪で、横たわっているのは月下だった。


 声にならない叫びを上げて駆け寄ると、蓮は叩きつけるように彼女の体を揺さぶった。力を失った彼女の首がくたりと動く。すぐ側には、倒れた時に外れ、持ち主によって潰された眼鏡が、ひしゃげた姿で寄り添っている。硝子部分にも大きなひびが入り、再生はもう不可能だ。

 生気の感じられない彼女の顔を見て、蓮は頭で考えるよりも早く、片手を彼女の胸に、耳は口元に置いた。それは本能に近い行動だった。


 そわそわと部屋を歩き回る。すっかり冷静さを欠いた彼は、部屋の中を右往左往する。呼吸はある。心臓も動いている。月下はちゃんと生きている。


(だけど、はやく何とかしないと、本当にし……し……)


 蓮の顔が引きつった。その先は、例え心の中でも言葉にできなかった。涙と一緒に込み上げてくる唸り声を堪えられない。分かっている。泣いている場合ではない。自分が何とかしなければ。彼は袖で乱暴に涙を拭った。


「……あ!」


 その時、脳裏に国を治める老人の顔が浮かんだ。自分に呪印を与え、繋ぐことを強いる人間。しかし、その目はとても優しく、朗らかな笑顔を持った人。


 気が付くと蓮は家を飛び出し、裸足のまま走っていた。


 店終いを始める商店街を、蓮はあらゆるものを振り乱して走った。すれ違う人々が何事かと振り返える。闇雲に繰り返す呼吸に、肺が痛みの抗議を上げた。こんなに走ったのは久しぶりだ。胸が破裂しそうだった。こんな時、狼なら四肢を使い、倍の早さで駆けることができるのに――


 商店街を抜けると、やがて真っ暗な田んぼ道に出た。牛蛙の声が暗闇から不気味に響く。通い慣れた道でも、昼と夜では違う顔を見せる。普段の蓮なら怯えていたかもしれない。けれど、今の彼は恐れも忘れ、ただただ發条ぜんまいのように二本の足を動かした。


(はやく、はやく、はやく!)


――敦盛の許へ。






 官邸からの帰宅途中、熱盛は小さな悪寒に襲われた。背中から冷たい汗が流れる。その感覚に、彼は自分の施した術の綻びを知った。


(……おかしい。そろそろだと思っていたが様子が変だ)


 彼は自宅への歩みを止めると、年齢を感じさせない足取りで踵を返した。







「何の用だ、小僧」


 ようやく官邸門まで辿り着いた蓮は、体格の良い男に行く手を阻まれた。門番だ。事情を説明している時間はない。無言で男の脇を横切ろうとしたが、小さな彼はあっさりと捕まってしまう。


「はなしてよ!」

「そうはいかん。たとえ子供でも許可の無い者は通さない」


 力の限りに暴れたが軽くあしらわれ、あまつさえ野良猫のように襟首を掴まれ、ぽいと放られた。


「あつもりさまに用があるんだ! あ、あつもりさま!」

「はあ?」


 訝しげに眉を寄せた門番は、腕を組み、暑苦しいつらを近付ける。すると蓮の体に浮かぶ曼珠沙華に気が付いたらしく、一瞬だけ怯んだが、すぐに表情を改めた。


「敦盛様ならもう……」

「はい、ここにいますよ」


 背後から現れた国長に、門番の口から危うく魂が飛び出すところだった。ちなみに、蓮は少し前から彼の存在に気が付いていた。


「お、お帰りになったのでは?」

「うん。急用を思い出して裏口から入れてもらったんだ。ところで……」


 熱盛は手招きで蓮を呼び、土で汚れた彼を手拭いで払ってやりながら門番を見る。


「小さな子供に乱暴をするのは感心しませんね」


 優しい物言いだが、門番は首を竦めた。それを一瞥し、敦盛は蓮に笑顔を向ける。


「さて、蓮君。私に何か用があったのだろう?」


 ようやく本題に入り、蓮は弾けたように頭を上げた。


「おねがい助けて! あの人が死んじゃう!」


 あの人、と聞いた途端、彼の優しげな表情が一変する。


「すぐに馬車の用意を!」


 蓮がびくりと飛び上がる。いつになく声を荒げ、険しい表情をした熱盛に、門番も諾の返事を忘れて厩舎きゅうしゃに走った。


「月下は家だね?」

「…………」

「蓮君?」


 驚き、硬直する蓮を敦盛が覗き込む。


「怒鳴って悪かった。びっくりしただろう」

「僕はだいじょぶ……だから、早くあの人を助けて……」


 嗚咽を混じえ、箍が外れたように泣きじゃくる蓮の、涙と鼻水で汚れた顔を、熱盛が袖でそっと拭った。







 誰かに、名を呼ばれた気がする。


 そう思った時、頭を優しく撫でられて、ゆっくりと目を開けた。


 日陰に位置する診療所は、真夏でも風通しがよくて涼しい。ぼんやりと部屋を見渡して、蓮は、自分が寝台で寝ていることに気が付いた。すると、寝心地の悪い敷き布団がごそごそと動き出す。


「蓮、起きたなら早くどいてよー」


 はっと顔を上げると、蓮の下敷きになった月下が布団の中でもがいていた。どうやら、彼女に付き添って寝ている内に、肌寒さを覚え、ぬくもりを求めて腹の上に乗ったらしい。

 呆然と体を起こせば、月下はおはよう、と言ってのん気に笑う。次の瞬間、蓮は無我夢中で彼女に飛び付いた。


「良かった! 良かったよう!」


 月下の胸に顔を埋め、涙を必死に堪えた。

 横たわる彼女を見た瞬間、心臓が止まってしまうかと思った。呼んでも目覚めない彼女に、何も考えられなくなった。どんなに敦盛や看護婦達が大丈夫だと言っても、怖くて不安で気が触れてしまいそうだった。泣き疲れて眠るまで、置いていかないでと何度も繰り返した。


(もう、裏切られてもかまわない。僕はこの人が好き!)


 心を許して裏切られるのが怖かった。だから彼女との間に壁を作り、自分の気持ちを考えないようにしてきた。でも本当は、金平糖をもらったあの時から、蓮の心は月下に奪われていた。彼女に出会い、初めて知ったこの気持ち。愛しい。そう、これが愛しいという気持ちだ。


「やあ、お邪魔するよ」


 敦盛がひょこりと扉から顔を出した。彼は部屋に入り、抱き合う二人を微笑ましげに見つめる。


「蓮君。たった今、君にかけた私の術が解けたようだ」

「え?」


 二人はぴったりの息で顔を見合わせた。すると、蓮の顔を見た月下が目を丸くする。


「本当だ、呪印が消えてる」

「え、うそ」


 蓮は自分の顔を触ってみたが、そんなことで分かるはずもなく、月下が浴衣の袖を捲り上げてくれた。そこには見慣れた曼珠沙華はなく、本来の白い肌が見えている。


「あの術はね、君が三つの事を知った時、自然に解けるよう施したんだ」


 自分の腕と敦盛を交互に見ている蓮に代わり、月下が口を開く。


「三つの事とは何ですか?」


 少し勿体ぶったように、二人の顔を眺めて敦盛が答える。


「蓮君。君は勇気を出して、遠く離れた私の所まで走ってくれた。私を信じて頼ってくれた。愛するこの子のために……」


 そう言って、彼は皺だらけの大きな手を蓮の肩に置いた。


「君に必要だったのは勇気を出すこと、信じること、それと愛すること。それを知った時、君は君自身を大切にする。どうかね?」


 敦盛の言葉に蓮の瞳が揺れる。その通りだった。自分を大切にできない者が、人を大切になどできるわけがない。月下も敦盛も誰かを守る人だ。自分も誰かを、願わくば月下のことを守りたい。昨夜のように、無力感に襲われるなど、もうごめんだった。






 窓から差し込む夕陽が部屋の中を真っ赤に染めている。


 敦盛が帰り、病室には蓮と月下の二人きりだ。今までのように気張らず、自然体でいることの何と楽な事よ。


 月下が、「そう言えば」と口にした。


「私が寝ている時、“たんたかたん”の唄をうたってくれた?」


 音痴な彼女がうたうその唄を、蓮は“たんたかたんの唄”と呼んでいた。以前、官邸からの帰り道に聞いたあの唄だ。蓮は頬を染めながら頷く。そう、早く彼女に目を覚ましてほしくて、眠気と戦いながらうたっていた。

 月下が「蓮は唄が下手くそだね」と、失礼なことを零すが、彼女の無事に安堵している彼は、そんな些細なことなど気にしない。


「ねえ、蓮。うたってよ、君の声はとても気持ちいい……」


 はにかみながら蓮が頷く。


 うたうよ、月下。あなたのために――

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