―伍―
一
「あの人が変」
小屋の前に腰を下ろして蓮が言う。少し興奮気味で喧嘩腰にも見える。頬も赤い。何故だろう。おくらは疑問に思ったが黙っていた。
沈黙が続くと今度は指遊びを始め、落ち着かない様子だ。もじもじしている。そして相変わらず頬は赤い。返答が欲しいのだろうか、面倒だな。おくらの目が半開きになった。
「……変、とは?」
お前の方がたいがい変だがな。素直にそう言ったらまた面倒くさい事になるだろう。懸命な犬である彼は、口には出さずに先を促した。
「僕からはなれてくれないの」
数日前の夜、蓮は心無い暴力を受けた。その日から、月下は彼と過ごす時間を最優先にしている。自分の事はすべて後回しにして、蓮にこれまで以上の時間を割き、これまで以上に彼と過ごそうとしている、とのこと。
「そうか……」
どう答えればいいのだ。「そう」としか言いようがない。おくらは心の中でぼやいた。
「べたべたされて困るんだよね」
「では、何故、頬を染めて……」
途端に蓮の顔が険しくなる。ああ、思わず口が滑った。
「僕が外に出るのだって嫌がるんだよ。ここにくるのも大変なんだから」
過保護が助長するのを避けるために反発はしないが、この場所に来ることだけは絶対に譲らない、と蓮は言う。遠まわしに愛情余っての束縛だと言いたいようだが、月下は決して外出を渋っているのではない。彼の周囲に気を配っているだけだ。全ては彼を心配してのことだった。
「縛られるのが煩わしいなら噛んでやれ。いつも言っているだろう、矜持は守れ」
「そんなことしたら、あの人がないちゃう……」
尻つぼみの小さな呟きだった。けれど、耳が遠い老犬のおくらにも、それはしっかりと聞こえた。
最初こそ幼子の言葉を真に受けていたが、今はもう知っている。彼は心とは別の言葉で話している。その理由は知らないけれど、おくらの主も心と言葉が一致しない人物なので、人間とはそういう生き物なのだと思うことにしている。それよりも例の娘だ。束縛を嫌い、人への警戒心が強い彼をここまで手懐けるとは。おくらは件の娘に少々興味を持っていた。
蓮がはっとしたように立ち上がる。
空気の匂いを嗅ぐ彼から僅かに遅れ、おくらも人の匂いに気付いた。いくら老いているとはいえ、犬である自分よりも早く気付くとは、さすがは人狼一族だと感心する。
「蓮、迎えにきたよ」
その声は若い娘の割には低く、落ち着いた声だった。蓮が喜びに満ちた顔をぐぐっと顰める。そして弾けるように振り返った。
「よけいな事しないでよ!」
わざわざ不機嫌を装うのはどうしてだろう。犬である彼は、言葉は理解できても人の複雑な気持ちまでは理解できない。ただ、いつも聞いている“あの人”とはこの娘なのだと、それだけは分かった。
「まあまあ、そう言わないで」
蓮の言葉をさらりと流し、月下はおくらに視線を向けた。
「君がおくらだね」
おくらの「そうだ」という返事は、空気を吐き出す小さな鳴き声になり、彼女の耳に届いた。
「蓮がいつもお世話になってます。ありがとう」
彼女に頭を撫でられ、おくらの尻尾が無意識に揺れた。触れられたところが気持ち良い。穏やかに地面を叩くそれは、彼の心情を嘘偽りなく語った。
「帰るんでしょ? 早くしてよ!」
彼らを凝視していた蓮が急に声を荒げた。もたもたするなと罵りながら、彼女の腕を引っぱる姿は必死そのもので、おくらを憮然とさせる。
「分かったよ。そろそろお暇しようか」
「じゃあね、お爺ちゃん」
おざなりな挨拶を口にして蓮が彼女の背中を押す。さっさとこの場から立ち去りたいらしい。そんな彼に戸惑いながらも、月下は最後に「またね」と言って微笑んだ。その笑顔が酷くやつれて映ったのは、おくらの気のせいではない。
(馬鹿だ馬鹿だと思っていたが、本当に馬鹿だった。小僧は毎日一緒にいて気付いていないのか)
視力の悪い彼は、すぐに二人の姿を見失った。その代わりに、薄れていく匂いを眺めるように見送った。
二
月下が夕餉の準備をする間、蓮は絵本の挿絵を眺めて時間をつぶした。字が読めないのだ。それを知った時、月下は瞳いっぱいに涙を溜めていた。蓮くらいの年なら簡単な読み書きはできる。つまり、彼がまともな教育を受けてこなかったことを意味し、教師である彼女の胸を痛めるには十分だった。
「蓮」
顔を上げた彼は、月下の優しい目と合った。途端、心臓の辺りに痺れを覚える。
(……僕、どうしちゃったんだろう)
最近の自分は喜怒哀楽が激しい。月下との些細なやり取りに心拍数が上がり、胸が苦しくなる。それは不快なものではないが、さりとて、いつも前触れなく気分が高揚するので疲れる。不思議な気持ち、初めての感情。
「蓮、まだ掛かるから先にお風呂に入ってしまいなさい」
着替えを持って風呂場に向かうと、体を洗ってから湯船に浸かった。白い肌は湯の中でみるみる赤みを帯び、曼珠沙華の境界線がぼやけていく。すっかり馴れたもので、今では呪印を見ても怖くない。
蓮は肩まで浸かり、「いち、に、さん」と、三十を数えた。からすの行水である彼には辛い時間だが、月下との約束なのだ。
「きゅう、じゅう、じゅう、じゅう……いち?」
とても怪しく三十まで数えた彼は、のぼせる間際で風呂を上がり、頭と体をよく拭いた。そして寝間着を着て、脱衣場を出ようとした時だ。違和感を覚えた。月下の鼻歌が聞こえない。物音が何もしない。いつもの癖で鼻を鳴らした。何かあれば匂いで分かる。鼻の優れた彼は、目や耳で確かめるよりも臭覚に頼る方が早い。
「……ねえ」
どんなに辿っても違和の正体が分からず、恐る恐る声を掛けた。けれど匂いが動くことはない。
「ねえったら!」
声を張っても、風呂場に彼の声が反響するだけ。どきりと心臓が軋んだ。危険はない、大丈夫だ。自分にそう言い聞かせても、彼の鼓動はどんどん早まっていく。
そっと台所を窺った。しかし、先ほど月下が立っていた
蓮の目はびたりと止まる。視界の隅に何かが映っているが、見るのが怖い。心臓が口から出てきてしまいそうなほど暴れ、息苦しさに眉根が寄った。
「ああ、あっ……」
激しい呼吸は声帯を震わせ、不本意に声が漏れる。少しずつ視線を床に落としていくと、彼の蒼い瞳に琥珀色が映った。その琥珀色は髪で、横たわっているのは月下だった。
声にならない叫びを上げて駆け寄ると、蓮は叩きつけるように彼女の体を揺さぶった。力を失った彼女の首がくたりと動く。すぐ側には、倒れた時に外れ、持ち主によって潰された眼鏡が、ひしゃげた姿で寄り添っている。硝子部分にも大きな
生気の感じられない彼女の顔を見て、蓮は頭で考えるよりも早く、片手を彼女の胸に、耳は口元に置いた。それは本能に近い行動だった。
そわそわと部屋を歩き回る。すっかり冷静さを欠いた彼は、部屋の中を右往左往する。呼吸はある。心臓も動いている。月下はちゃんと生きている。
(だけど、はやく何とかしないと、本当にし……し……)
蓮の顔が引きつった。その先は、例え心の中でも言葉にできなかった。涙と一緒に込み上げてくる唸り声を堪えられない。分かっている。泣いている場合ではない。自分が何とかしなければ。彼は袖で乱暴に涙を拭った。
「……あ!」
その時、脳裏に国を治める老人の顔が浮かんだ。自分に呪印を与え、繋ぐことを強いる人間。しかし、その目はとても優しく、朗らかな笑顔を持った人。
気が付くと蓮は家を飛び出し、裸足のまま走っていた。
店終いを始める商店街を、蓮はあらゆるものを振り乱して走った。すれ違う人々が何事かと振り返える。闇雲に繰り返す呼吸に、肺が痛みの抗議を上げた。こんなに走ったのは久しぶりだ。胸が破裂しそうだった。こんな時、狼なら四肢を使い、倍の早さで駆けることができるのに――
商店街を抜けると、やがて真っ暗な田んぼ道に出た。牛蛙の声が暗闇から不気味に響く。通い慣れた道でも、昼と夜では違う顔を見せる。普段の蓮なら怯えていたかもしれない。けれど、今の彼は恐れも忘れ、ただただ
(はやく、はやく、はやく!)
――敦盛の許へ。
官邸からの帰宅途中、熱盛は小さな悪寒に襲われた。背中から冷たい汗が流れる。その感覚に、彼は自分の施した術の綻びを知った。
(……おかしい。そろそろだと思っていたが様子が変だ)
彼は自宅への歩みを止めると、年齢を感じさせない足取りで踵を返した。
三
「何の用だ、小僧」
ようやく官邸門まで辿り着いた蓮は、体格の良い男に行く手を阻まれた。門番だ。事情を説明している時間はない。無言で男の脇を横切ろうとしたが、小さな彼はあっさりと捕まってしまう。
「はなしてよ!」
「そうはいかん。たとえ子供でも許可の無い者は通さない」
力の限りに暴れたが軽くあしらわれ、あまつさえ野良猫のように襟首を掴まれ、ぽいと放られた。
「あつもりさまに用があるんだ! あ、あつもりさま!」
「はあ?」
訝しげに眉を寄せた門番は、腕を組み、暑苦しい
「敦盛様ならもう……」
「はい、ここにいますよ」
背後から現れた国長に、門番の口から危うく魂が飛び出すところだった。ちなみに、蓮は少し前から彼の存在に気が付いていた。
「お、お帰りになったのでは?」
「うん。急用を思い出して裏口から入れてもらったんだ。ところで……」
熱盛は手招きで蓮を呼び、土で汚れた彼を手拭いで払ってやりながら門番を見る。
「小さな子供に乱暴をするのは感心しませんね」
優しい物言いだが、門番は首を竦めた。それを一瞥し、敦盛は蓮に笑顔を向ける。
「さて、蓮君。私に何か用があったのだろう?」
ようやく本題に入り、蓮は弾けたように頭を上げた。
「おねがい助けて! あの人が死んじゃう!」
あの人、と聞いた途端、彼の優しげな表情が一変する。
「すぐに馬車の用意を!」
蓮がびくりと飛び上がる。いつになく声を荒げ、険しい表情をした熱盛に、門番も諾の返事を忘れて
「月下は家だね?」
「…………」
「蓮君?」
驚き、硬直する蓮を敦盛が覗き込む。
「怒鳴って悪かった。びっくりしただろう」
「僕はだいじょぶ……だから、早くあの人を助けて……」
嗚咽を混じえ、箍が外れたように泣きじゃくる蓮の、涙と鼻水で汚れた顔を、熱盛が袖でそっと拭った。
四
誰かに、名を呼ばれた気がする。
そう思った時、頭を優しく撫でられて、ゆっくりと目を開けた。
日陰に位置する診療所は、真夏でも風通しがよくて涼しい。ぼんやりと部屋を見渡して、蓮は、自分が寝台で寝ていることに気が付いた。すると、寝心地の悪い敷き布団がごそごそと動き出す。
「蓮、起きたなら早くどいてよー」
はっと顔を上げると、蓮の下敷きになった月下が布団の中でもがいていた。どうやら、彼女に付き添って寝ている内に、肌寒さを覚え、ぬくもりを求めて腹の上に乗ったらしい。
呆然と体を起こせば、月下はおはよう、と言ってのん気に笑う。次の瞬間、蓮は無我夢中で彼女に飛び付いた。
「良かった! 良かったよう!」
月下の胸に顔を埋め、涙を必死に堪えた。
横たわる彼女を見た瞬間、心臓が止まってしまうかと思った。呼んでも目覚めない彼女に、何も考えられなくなった。どんなに敦盛や看護婦達が大丈夫だと言っても、怖くて不安で気が触れてしまいそうだった。泣き疲れて眠るまで、置いていかないでと何度も繰り返した。
(もう、裏切られてもかまわない。僕はこの人が好き!)
心を許して裏切られるのが怖かった。だから彼女との間に壁を作り、自分の気持ちを考えないようにしてきた。でも本当は、金平糖をもらったあの時から、蓮の心は月下に奪われていた。彼女に出会い、初めて知ったこの気持ち。愛しい。そう、これが愛しいという気持ちだ。
「やあ、お邪魔するよ」
敦盛がひょこりと扉から顔を出した。彼は部屋に入り、抱き合う二人を微笑ましげに見つめる。
「蓮君。たった今、君にかけた私の術が解けたようだ」
「え?」
二人はぴったりの息で顔を見合わせた。すると、蓮の顔を見た月下が目を丸くする。
「本当だ、呪印が消えてる」
「え、うそ」
蓮は自分の顔を触ってみたが、そんなことで分かるはずもなく、月下が浴衣の袖を捲り上げてくれた。そこには見慣れた曼珠沙華はなく、本来の白い肌が見えている。
「あの術はね、君が三つの事を知った時、自然に解けるよう施したんだ」
自分の腕と敦盛を交互に見ている蓮に代わり、月下が口を開く。
「三つの事とは何ですか?」
少し勿体ぶったように、二人の顔を眺めて敦盛が答える。
「蓮君。君は勇気を出して、遠く離れた私の所まで走ってくれた。私を信じて頼ってくれた。愛するこの子のために……」
そう言って、彼は皺だらけの大きな手を蓮の肩に置いた。
「君に必要だったのは勇気を出すこと、信じること、それと愛すること。それを知った時、君は君自身を大切にする。どうかね?」
敦盛の言葉に蓮の瞳が揺れる。その通りだった。自分を大切にできない者が、人を大切になどできるわけがない。月下も敦盛も誰かを守る人だ。自分も誰かを、願わくば月下のことを守りたい。昨夜のように、無力感に襲われるなど、もうごめんだった。
窓から差し込む夕陽が部屋の中を真っ赤に染めている。
敦盛が帰り、病室には蓮と月下の二人きりだ。今までのように気張らず、自然体でいることの何と楽な事よ。
月下が、「そう言えば」と口にした。
「私が寝ている時、“たんたかたん”の唄をうたってくれた?」
音痴な彼女がうたうその唄を、蓮は“たんたかたんの唄”と呼んでいた。以前、官邸からの帰り道に聞いたあの唄だ。蓮は頬を染めながら頷く。そう、早く彼女に目を覚ましてほしくて、眠気と戦いながらうたっていた。
月下が「蓮は唄が下手くそだね」と、失礼なことを零すが、彼女の無事に安堵している彼は、そんな些細なことなど気にしない。
「ねえ、蓮。うたってよ、君の声はとても気持ちいい……」
はにかみながら蓮が頷く。
うたうよ、月下。あなたのために――
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