―肆―


 時は、月下と蓮が留守番のことで話し合った日の日中まで遡る。


 雪国の外交官として所用を済ませた霞は、花国の視察ついでに、ちゃっかり観光を楽しもうと町に出ていた。しかし、そこで自身の失念を悟って頭を抱える。


(参った……)


 顔立ちは地味だが、白銀という珍しい髪を持ち、長身である彼は殊のほか目立つのだ。大通りを少し歩いただけで人目を攫ってしまう程に。


(本当に参ったな)


 騒ぎを避けて道の外れに向かう。すると、つい先日、出会ったばかりの人物が通りを横切った。保護した幼子を引き渡した娘、月下である。相変わらず野暮ったい作務衣を着た、色気の“い”の字もない彼女の姿に苦笑が漏れた。あれでは確かに間違える。

 苦い笑みを浮かべたまま、霞は彼女に声を掛けることなく踵を返した。ところが慌てたような足音が背後で聞こえ、彼は心の準備を余儀なくされる。そっと立ち去るつもりが、目立つ風貌のおかげで失敗に終わった。


「霞さん」


 聞き覚えのあるこの声はやはり月下のものだった。彼は滑らかな動きで振り返り、花が綻ぶように微笑む。


「こんにちは、月下さん」

「こ、こんちくわ」


――噛んだ。

 目を丸め、月下が頬を染める。霞もまた、目を広げた。


「あの子は元気ですか?」

「え? あ、はい」

「俺ね、あれからずっと公館に滞在してたんです。やっと用事も済んだし、明日の朝一番で発つことになりましたけど。最後に月下さんの顔が見れて良かったです」


 そう言うと、月下はますます赤くなった。言葉を失ったように口を噤んだその様子に、霞はこめかみを掻く。


「……もしかして、緊張してる?」

「す、すみません」


 彼女が申し訳なさそうに眉を垂らす。何だか苛めている気分になり、霞は話題を変えることにした。


「ああ、そうだ。今日、明日あすにでも敦盛様からお呼び出しがあるかもしれませんよ」

「敦盛様から?」


 飛脚がやって来たのは丁度その時だ。

 額当てに官邸専属の印を持つ彼らは、数いる飛脚の中から厳選された者達である。緊急を要する届け物が多いため、選考基準の一つに足の速さがあるのだが、彼らはその速さで強盗さえ回避してしまう。


「月下さん、長様からです!」

「ご苦労さまです」


 月下が受け取りの署名をすると、飛脚は軽い足取りで走り去った。彼女はさっそく書簡を解いて手紙を読んでいる。ちらりと見えたのは、敦盛の達筆で簡潔な文字だった。


――明日、官邸へ来ルコト。


明日あす、官邸へ来ること、だそうです。霞さんの言っていた通りになりましたね」


 そう口にしながら見上げた月下と、書簡に目を落としていた霞は、偶然にも、ばっちりと目が合った。二人はそのまま見つめ合い、何故か気まずい空気が流れる。


「あの……それでは私、帰りますね。どうか、お元気で」

「ありがとう。月下さんもお元気で」


 小さくなっていく背中を見つめ、霞は後ろ頭を掻いた。


「ほんと……参った……」


 ぽつりと零した彼の呟きは、風に溶けて彼女の耳には届かなかった。







 今日は月下の帰りが遅い。日が傾く頃に帰宅した蓮は、冷蔵庫を開け、庫内を冷やす氷に頬を寄せて夜のことを考えた。月下の知り合いが訪ねて来るのだが、この家に他の人間を入れることが嫌で堪らないのだ。それなのに、月下の困った様子を見た時、無意識に諾と頷いていた。


(なんだろう、これ。へんな気持ち)


 彼女を思うと心臓が高鳴る。知らず知らずに漏れた彼の吐息は、心なしか艶っぽかった。

 蓮は落ち着くために、最近覚えたばかりの唄を口ずさんだ。ひどく調子外れだが、彼自身は決して音痴ではない。誰かさんの鼻歌でしかそれを知らないため、同じ部分で音を外すのだ。


 ふと、蓮は顔を上げた。外に知らない気配を感じる。それは匂いと共にどんどん近付いていた。


(……来た)


 玄関の戸を何度か叩いた後、控え目に「ごめんください」という、年配の女の声が聞こえた。寝台の下に潜り込んで様子を窺っていると、しばらくして鍵を開く音が聞こえ、彼はがっかりと頭を落とす。居留守を使えば立ち去るだろうと期待していたが、まさか鍵を預かっていたとは。


「蓮君? 居ないのかしら? それとも隠れてるの? おばさんね、月下先生に頼まれてご飯作りに来たのよ」


 女は辺りを探りながら足音を鳴らす。玄関から徐々に、ゆっくりとした動作で。そして蓮の隠れる寝台の前までやってくると、白い足袋を履いた足がぴたりと止まった。膝と手を突くのが見え、彼は固く目を閉じる。怖い。こちらを覗きこむ気配に体が震えた。


「あら、こんな所にいたのね。さあ、出てきなさいな」


 寝台の下に腕を突っ込むと、女は乱暴な手付きで彼の襟元を掴んだ。彼女はとても穏やかに言葉を紡ぐ反面、蓮の体は雑に扱った。小さな隙間で暴れてみたが、自分の身を傷つけるだけで一矢報いる事は叶わない。衰えた女の力でも、怯えた幼子を引っ張り出すことは容易すいのだ。間もなくして、とうとう彼は寝台から引きずり出されてしまった。


「こんにちは、蓮君」

「さわるな!」


 次の瞬間、彼女の腕は蓮によって噛み付かれていた。


 同じ頃。

 花国官邸では、熱盛の執務室で月下が小切手を凝視し、体中の毛穴から汗を流していた。


「い、いけません!」


 卓の中心に置かれているのは、問題の小切手。それを挟むように、彼女と熱盛が向かい合っている。敦盛はにこにこと。一方の月下は蒼白となりながら。

 高級感のある紙に墨で書かれているのは、今後どれだけ生きしようとも、絶対に目にすることがないだろう金額だ。月下が学舎で貰っている給金の数年分に等しい。


「こんなもの、頂けません!」

「そう言わないで。あちらの方は蓮君と、蓮君を引き取った君への支援だと仰っているんだ。霞殿が何日も花国に足止めされていたのは、これを受け取るためだよ」


 月下が蓮と出会った日、霞は事の経緯を報告書にし、伝達鳥でとある場所に送ったという。その返答が昨日、小切手と共に届いたそうだ。彼が言っていた“用事”とはこの事だったのかと、月下も合点がいった。しかし。


「そもそも、その方は何処どこ何方どなたなんですか?」

「それは言えない。その方の素性は明かさない約束なんだ」

「だけど、こんな大金を頂くなんて……」


 渋る月下を見据え、敦盛は卓に肘を付き、顎を乗せた。


「彼を押し付けておいて何だが、君の給金だけで子供を養っていくのは無理だ。もちろん、その分は私が助けるつもりだったがね。このお金は蓮君のために必要なものだよ。受け取りなさい」

「でも……」


 月下が頑なに渋る理由は、結局のところ金額なのだ。


「では、こうしよう」


 そう言うと、敦盛は小切手を懐にしまった。


「これは私が責任を持って預かろう。そうして毎月、決まった額を君に渡そうじゃないか」


 倹約家の月下に限って心配はないが、無駄遣いの防止になるし、誰かに騙されて奪われることもない。大金を抱え込む心労も多少は和らぐ。小心者で人の良い彼女に配慮し、これくらいはしてやろう。しかし、これ以上は譲歩しない。胸の前で腕を組み、態度でそう示す彼の気迫に負け、月下は小さく諾と返した。

 実は、『金が無くなり次第、いくらでも追加するので連絡をするように』と言われていたが、今はまだ伏せておくことにした。後に敦盛はそう語った。そんなことを話せば、彼女が気絶でもするのではないかと心配したらしい。







 月下が官邸から出ると、辺りはすっかり暗くなっていた。早く帰らねばと思うが、鉛のように足が重い。


(何だか凄く疲れた。今日は早めに寝よう……)


 寝不足が続いていた。それというのも、蓮と暮らし始めた彼女には一つの目標ができていた。目印はまだぼんやりしているので、将来の夢といってもいい。日常生活に加えて蓮のお世話、そして彼の就寝後、その目標について独学で学んでいる。そのため、以前に比べて睡眠時間が大幅に減っているのだ。


(そういえば、蓮……)


 唐突に理由の分からない不安が訪れた。今日は月下の帰宅が遅いため、同僚の教師に子守を頼んでいる。


 疲れも忘れ、月下は焦燥に駆られるまま大急ぎで走った。そして、もどかしい思いで玄関を開く。


「ただいま帰りました」

「あら、月下先生。お帰りなさい」


 奥から顔を出したのは、月下の同僚である年配の女教師だ。


「今日はありがとうございました。あの、蓮は良い子に……」


 言葉はそこで止まった。包帯の巻かれた腕が目に入ったのだ。昼間、学舎で会った時には、彼女の腕にそんなものは無かった。

 月下の視線に気付いた彼女は朗らかに笑う。


「救急箱を勝手に使わせてもらったわ」

「いいえ、それは構わないのですが……」


 まさか、この怪我は蓮が負わせてしまったのか。包帯の上からやんわりと触り、腕の具合を確かめた。


「噛まれただけよ。血は出たけど、それほど痛くないわ」

「何てことを……すみません! 本当にすみません!」


 口から飛び出した詫び言はまるで悲鳴だった。嫌な予感はこの事だったのだ。大変な事になってしまった。月下は床に額を擦り付けてひれ伏した。


「月下先生、頭を上げて」


 大丈夫よ。気にしないで。そう言いながら肩を支え、月下の体を起こす彼女の微笑みはどこまでも温かい。懐の深さに涙が出そうになる。


「ねえ、月下先生」

「はい」


 本当に、本当に心から尊敬の念を抱いたのだ。


「長様の言いつけとはいえ、あなたも大変ね。あんな野蛮人を押し付けられて」


――その言葉を聞くまでは。


「……は?」


 この人は今、何と言ったのだろう。間抜けにも、言葉の意味が理解できずに聞き返した。その間にも彼女は、いかに月国の民が教養なく、無骨で不作法かを説いている。高揚して喋る様は癇癪に似ており、月下を嫌な気分にさせた。


「でもね、小さな時からしっかりと躾れば従順に育つものよ」


 さっきまで温かいと感じていた、彼女のえびす顔に胸がざわつく。


「蓮はどこですか」


 気配がしない。隠れているだけと思えないのは、気味が悪いほど優しい笑顔のせいだ。月下は彼女を押し退けて部屋へ向かった。

 まず、玄関から一番近い居間を覗く。物がぎっしりと詰まった棚と、卓しか置いていない部屋に蓮の隠れる場所は無い。すぐに通り抜け、隣の寝室に足を向ける。襖を開けると蓮が寝台で寝ているのが見えた。しかし、ほっとしたのも束の間、異変に気付いた彼女は彼に駆け寄った。


「蓮!」


 彼は、敷布で寝台に括り付けられていた。


 暴れたのだろう。縛られた肌が布と擦れて赤くなっている。けれど、それよりも彼女を打ちのめしたのは、果実のように腫れた頬と、瞳から顎まで筋を作る涙の痕だった。


「この子を殴ったのですか?」


 目眩を覚えるほどの怒りが体中を巡る。険のある声を抑えることができない。感謝は欠片も無くなった。だが、そんな月下を目にしても、彼女は泰然自若たいぜんじじゃくを崩さない。


「どんなに可愛い見た目でも月国の子よ。関わるなら本気を出さないと。それが本当の意味でその子と向き合うってことじゃないかしら」


 まるで子供達を諭すような言い方だ。自分の考えに大いなる自信を持っているからこその口調。

 月下は必死に言葉を選んだ。感情に任せて発した言葉はただの罵りになる。そうなれば蓮の、強いては、彼を保護した霞や敦盛の立場をも悪くしてしまう。


「しかし、縛った上に手を出すのはどうかと思います。学舎でのあなたは、こんな事しないはずです」

「それは普通の子が相手だからに決まっているでしょう」

「……っ!」


 呆れを含んだ言葉は、月下の地雷の見事に踏んだ。


『それは、お前が普通じゃないからに決まってるだろう』


 大きく頭を振った。これ以上、記憶を浮上させないために。そして対峙するために。彼女に向き合った時、月下の表情は凛としていた。


「お帰りください」


 互いの意見が拗れている今、このまま話し続けるのは賢明ではない。


「今日はありがとうございました。この事は後日、こちらからお話をさせて頂きます」


 冷淡な月下の口調に彼女も驚いたようだが、素直に帰り支度を始めた。


 玄関が閉まる音を背後に聞きながら、月下は深いため息を漏らす。


(……冷静な対応ができただろうか)


 言葉は言霊だ。放つ際は十歩先を見なければ後で自分の首を絞める。尤も、先ほどは一歩先を見るのがやっとであったが。


 敷布を解いてやると、月下は眠る蓮の髪に触れた。泣き疲れて眠る彼の呼吸は水っぽい音を立てている。真っ赤に腫れた頬が痛々しい。こんな姿になるまで殴られたのだ。


 柔らかな髪を撫でていると、目を覚ましたらしい蓮が涙袋を震わせ、ゆっくりと目を開いた。蒼い瞳はとろんとし、焦点を合わせるために、寄り目になっている。その仕草に安堵を覚えて口元が緩んだ。


「起こしちゃったね」


 月下がそう言った途端、彼は我に返ったように身を捩った。しかし頬の腫れに痛みが走ったらしく、首を竦めて小さくなった。


「待ってて」


 台所へ行き、手拭いに氷を包んで戻った。それを頬に優しく当てていると、上目使いで見ている彼と目が合う。


「痛い?」

「……へいき」


 掠れた声で答え、蓮は目を逸らした。彼の腹がきゅるりと鳴る。何も食べてないのだろう。


「何か作るよ」


 食事の用意がしてあったが、敢えてそれには手を付けない。食べ物に罪はないが、彼女が作った物を口に入れる気分にはなれなかった。


 蓮の好きな魚の油付けを、甘じょっぱい味付けにして白飯にのせる。普段なら野菜も沢山のせるが、今日は特別に油付けだけを目一杯のせてやった。


 匂いにつられ、蓮がふらふらと台所にやって来る。目が合うと、彼は慌てたようにそっぽを向くが、こっそり自分を窺っているのに月下は気付いていた。


 この時に抱いた居たたまれない思いは、後に彼女を過度な忍耐へと走らせる。

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