―参―


「蓮、か。とても良い名だね」


 敦盛が微笑みを含んだ視線が向けると、お茶請けのまんじゅうを頬張っていた蓮は、長椅子の背に慌てて身を隠した。一方、月下は敬愛する国長に褒められて頬を染めている。名に込めた自分の願いを理解してもらえて嬉しかったのだ。


 熱盛が手にしていた湯呑みを卓に置いた。


「……さて」


 和やかな雑談の間、常に笑顔だった彼が表情を引き締めた。本題だな、と気付き、月下は背筋を正す。


「蓮君の術のことだが……」


 案の定の切り出しに、行儀悪く座り込んでいた蓮も緊張の面持ちになる。


「結論から言うと解術はできない。いいや、する気はない。例えこの術が彼の枷や鎖になろうと、私には君達を守る義務がある」






 官邸からの帰り道。

 見晴らしの良い丘に差し掛かったところで、月下は視線を遠くに向けた。野良仕事の休憩中だろう農夫が、水筒を片手に小さな木陰で寛いでいる。うだるような暑さの中、その光景はとても涼しげに見えた。


 時間が経った今も、彼女の頭の中は敦盛の言葉が支配していた。普段の温和な雰囲気を消し、厳しい表情と凛とした声。あの時の彼は国長の顔をしていた。言葉こそ柔らかだったが、過ぎるほど寛容な彼が言い放つのは珍しい。しかし、分かってもいた。厳しさに反し、その目はやはり、優しい色をしていた。


 月下は隣を歩く蓮の様子を窺い見た。深くかぶった麦わら帽子で顔は見えないが、うな垂れた頭がその落胆を表している。彼からすれば裏切りに等しい出来事だっただろう。


「ごめんね、約束したのに……」

「…………」


 何も答えてもらえない。顔さえ上げてもらえない。当然だ、彼は陳腐な謝罪など求めていない。

 月下は慎重に言葉を選んだ。嘘を吐くつもりは無かったなど、烏滸おこがましい事は言えない。さりとて、傷ついている彼を蔑ろにはできない。そんな事を考えていた彼女の耳に、突如、けたたましい声が聞こえた。それは犬の鳴き声で、獰猛な野太い吠えだ。驚いて辺りを見渡すと、この辺りでも名家と云われる屋敷からだった。開け広げの大きな門からは、庭先で家屋に向かって吠える犬が見える。垂れたひげと覚束ない四肢から高齢であると思われ、いつも寝ている大人しい犬だと記憶していたが珍しい事もある。


「『外せ外せ外せ!』」


 吠えに被せ、叫喚きょうかんしたのは蓮だった。彼はぎゃんぎゃんと犬が鳴く度に、ふざけるな、離せと怒りの言葉を口にする。何が起きたか分からないが、とにかく宥めようとするも、彼はひときわ大きく叫んだ。


「『くさりは嫌だ、くさりは嫌だ!』」

「蓮!」


 その場を静めるため、月下も負けじと声を張った。虚ろな目に涙をこんもりと溜め、蓮が静かに顔を上げる。


「僕も……くさりは嫌だ」

「蓮……」


 小さく頼りない声だったが、騒々しく吠える声にも掻き消されることなく、月下の耳に届いた。


「……お爺ちゃんがかわいそう」


 お爺ちゃんとは、あの老犬のことだろう。

 手を握ると、彼は曼珠沙華に染まる、紅葉のような手で握り返した。ただの条件反射なのかもしれない。二人の間には、薄い硝子のような信頼関係しかないのだから。それでも月下は確信した。大丈夫だ、自分達は上手くやっていける。


「お家の屋根の一番てっぺん、あそこを目指して兎が跳んだ。ぴょんぴょこ、ぴょんぴょこ、ぴょんぴょんぴょん……」


 月下はうたった。それは子供の頃、今よりもずっと泣き虫だった頃、敦盛が彼女を慰めた懐かしい唄だ。

 調子外れな彼女のうた声は、それを知らない蓮でさえ間違った音程と分かるほどで、すれ違う人が失笑と忍び笑いを浮かべている。


 目を見張る蓮に気を良くし、月下は繋いだ手を大きく揺らして二番もうたう。


「おうち目指してあの子が駆けた、私も一緒にあの子と駆けた、たんたか、たんたか、たんたんたん」


 月下の思いを聞いても尚、熱盛は解術をせず、その上で蓮を任せると言った。月下ならばと信じ、彼を託してくれたのだ。ならば、蓮が子供らしく生きられるように精一杯愛してやろう。そして、いつか蓮にも敦盛の思いを分かってほしい。術は枷でも鎖でもなく、自分達を守る愛情なのだと。







「着替える前に汗を拭こうか」


 固く絞った手拭いで体を拭いてやりながら、月下は蓮を窺ってみた。すると彼は頬を赤く染め、恥じらうようにもじもじしている。


「はい、これを着て。新しい甚平だよ」


 着替えを手伝い、髪を櫛で梳いてやりながら、月下は再び蓮を窺ってみた。うっとり――彼は目を閉じ、気持ち良さそうにしている。


(……何だろう?)


 帰宅してから蓮の様子がおかしい。あれほど警戒していたのが嘘のように無防備だ。喜ばしい状況にあるにも拘わらず、彼の急激な変化に月下は少し困惑した。


 官邸へ行ってから数日が経ったある日。


 日が暮れる前に帰宅することを条件に、蓮は一人で外出することを許されていた。それを許すのは、彼に対する月下なりの信頼だ。


「ちょっと優しくしたらすぐ信じちゃった」


 そう言ったのは蓮である。彼と向かい合い、話を聞いている犬は、得意気なその様子に生ぬるい視線を送っている。


 外出するようになって以来、蓮は件の屋敷に通い、老犬と日々の時間を過ごしていた。犬は赤犬で、名を“おくら”という。

 おくらの飼い主である屋敷の主は、人の気配ですぐに隠れてしまう幼子を承知してか、使用人達には蓮の姿を見掛けても構わないように命じているらしく、誰も彼に接してこない。悪さをするわけではないので放っているのだが、ただ、屋敷の者達が少し異様に感じるのは――


「その茶番はいつまで続けるつもりだ」

「ふういんが解けるまでだよ。それまでは“ゆだん”させとくの」


 幼子が犬と喋っているように見えることである。事実、人狼の血を持つ蓮はおくらの言葉を理解し、彼と会話をしているのだが、犬の言葉など分からない人間からすると、子供が一人で喋っているように見えて奇妙に映る。


「お前には狼の矜持がないのか」

「きょおじ?」

「まあ、いい。で? お前は毎日、その娘の家に帰っているのだな」

「うん、ご飯たべれるし」


 月下と暮らすのは、封印をいち早く解くためだ。油断をさせて、ついでに食事も頂いて一石二鳥。ただ、それだけだと蓮は言う。おくらは「やはり矜持がない」とぼやくが、蓮には矜持の意味が分からない。分からないから生返事をした。


 縁側の奥まった場所から、青年が一人と一頭の様子を眺めている。この屋敷の主である彼は、腕を組んで呆れたように息を吐く。


「また来ているのか、あの小童こわっぱめ。あれが来ると外に出れなくてたまらん」


 そう呟き、青年は静かにその場から姿を消した。


――さて。

 今日の夕餉は何だろうと、蓮がおくらの小言を右から左へ受け流していた頃。


「ねえ、ちょっとちょっと。月下さん」


 学舎の帰りに寄った商店街で、月下は顔見知りに声を掛けられた。


「こんにちは。あの、もしかして蓮がまたお邪魔してます?」


 話し掛けてきたのは、老犬おくらを飼う屋敷の女中だ。折り目正しく腰を折り、月下は彼女に深々と頭を下げる。


「それはいいの、うちの若様がいいって言ってんだし。そうじゃなくてね。あの子、大丈夫かしら。ほら、暑い日が続いてるじゃない……」


 変な意味じゃなくてね、と頬に手を当て、言い難そうに言葉を濁す彼女は蓮の“独り言”を心配しているらしい。いつかその事に触れられると思っていたので、月下はあらかじめ用意していた答えを言う。


「あの子は疎まれて育ったので人と接するのが怖いんです。なので、穏やかな其方そちらのわんちゃんに気を許しているのかもしれません」


 そうだ、嘘は言っていない。本来なら友達と一日中遊んだって足りない年頃なのに、その対象に動物や虫ばかり選ぶ彼が哀れでならない。女中も同情し、涙を拭いながら、「変なこと言ってごめんなさいね」と言う。詫び言を繰り返されて恐縮する反面、月下は胸が救われる思いがした。







「ぎょうじって何?」


 夕餉の支度をしていた月下に蓮が問い掛ける。野菜を切る手を止めて振り返った彼女は、眼鏡を押し上げながら質問を返した。


「『ぎょうじ』って?」


 蓮とて分からないから聞いたのだ。地団駄を踏もうとしたが、待てよ、と首を傾げた。おくらは本当に“ぎょうじ”と言っただろうか。


「ぞうり? こおり? きゅうり?」


 思い当たる単語を次々に並べ、ぴんとくるものを探す。


「よく分からないけど、だんだん離れてってる気がするなあ」


 月下が苦笑いをしながら突っ込んだ。


「……きょうじ?」


 ぴんと来た。そんな顔で彼女を見る。


「矜持のことかな。驚いた、ずいぶん難しい言葉を知ってるね」


 感心したように言われ、蓮は飛び跳ねてしまいたくなるのを抑え、敢えて不機嫌そうに唇を尖らせる。


「……それって何?」

「そうだね、自負って意味になるのかな」

「じふ?」

「誇りのことだよ」

「ほこり? ごみ?」

「あはは、うーん……」


 腕を組み、困ったように月下が唸る。

 ここ数日、蓮はこのように質問を繰り返しては彼女を唸らせている。学舎で子供達の相手をしているだけあり、彼女の答えは的確で早いのだが、蓮の質問攻撃はそれを上回るのだ。


「今の蓮に説明するには難しいなあ」


 首を傾げる彼に、「まあ、ぼちぼち覚えなさい」と言い、月下は野菜を切る作業に戻ってしまった。


(なんなの、子供あつかいして!)


 自分がまだ子供だという事実を棚に上げ、月下の背中を睨んだ。しかし食欲をそそる香りが部屋に満ちると、空腹を主張した腹が鳴り、おどろの感情はあっという間に飛散する。


「はい、お待たせ」


 ごとん、という重量感のある音を立て、卓に丼が置かれた。今晩は野菜あんかけの丼飯だ。ごくりと喉を鳴らし、蓮は丼に飛びかかりたい衝動に堪えた。二人揃って「いただきます」をしないと、月下は絶対に食事を許さないのだ。一度だけ強行突破で飯にがっついた時があるが、お仕置きとして次の食事から月下特製、薬草お浸し丼が数日続いた。彼にとって、あの日々は本当の意味で苦い思い出となっている。


「いただきます」


 月下の合図で食事が始まり、蓮は夢中で飯をかき込んだ。初日に比べると大分落ち着いて食べられるようになったが、彼の食事はまだまだ意地汚さが目立つ。


「そうだ、蓮。おくらの家にまた勝手に入ったらしいね」


 月下がため息を漏らす。それは庭への侵入に対してか、それとも食事に対してか。


「……おこられた?」

「いいや。でもね、ここのところ炎天下続きだし、屋敷の人が君を心配していたよ」


 蓮は俯き、黙りこんだ。

 初めにおくらを訪ねたのは、彼の鎖を解いてやろうとしたからだ。だが当の本人は、この鎖は里帰り中の長男一家がいる間だけ。だから我慢する。赤ん坊がいるから仕方がない、と語った。本人がそう言うならと渋々そのままにしているが、彼を繋いでいる人間を蓮が信用できるわけがない。


 一向に顔を上げる気配のない彼に、月下が再びため息を漏らす。


「ともかく、勝手によそ様のお庭に入るのは駄目。おくらの家では許してもらえるけど、本当なら叱られるんだよ。分かった?」


 顔を伏せたまま、蓮は「ごめんなさい」と呟いた。ちっとも悪いと思ってないので、もちろん上辺だけの謝罪だ。彼はこうすれば月下が目尻を下げるのを知っているのだ。どういう訳か、彼女にそういった顔をさせるのが楽しい。例の質問攻撃も、月下が自分を構うのが愉快でならないからである。


「うん。私も強く言い過ぎた、ごめんね」


 上目遣いで盗み見れば、彼女は予想通りの優しい表情をしていた。

 楽しい、嬉しい、何かが満たされる。なのに、ほんの一瞬だけ嫌な考えが過ぎった。あの優しい笑顔は、自分を躾ている満足感や優越感からではないだろうか。だったら、それは本当の優しさではない。彼女の気が済めば捨てられてしまう。そんな薄暗い考えに頭を支配された時、調子外れな鼻歌が聞こえてきた。食器を洗いながら月下がうたっている。蓮は無意識に耳を傾けた。自然に口角が緩んでいく。のん気で間抜けなうた声は、蓮の冷えた心を真綿で包み込んだ。


 にやけた顔を隠すために俯いていると、不意に月下が、「あ」と声を上げた。


「明日は敦盛様にお呼ばれしてるから、帰りが遅くなるよ。君のことは人に頼んであるから」

「え……一人でへいき」

「だけどね、ご飯のこともあるし。親切な人だから大丈夫だよ。ほら、金平糖覚えてる? あれをくれた人だよ」


 蓮は硬い表情で浴衣を掴んだ。この家は彼の縄張りなのだ。人が、ましてや顔も知らない他人が入って来るなど、許せない。許せないが、だけど――


 彼の様子に気付き、月下が何かを思案する。


「分かった。君がそう言うなら……」

「嫌じゃない!」


 蓮は慌てて言葉を遮った。


「急にどうしたの? 本当に?」

「うん……」

「無理しなくていいんだよ」

「だいじょぶだったら!」


 だって、月下が困った顔をしている。こんな事で落胆されたくない。嫌われたくない。


(ちがう! そうじゃない!)


 彼女の機嫌を損ねたら解術ができない。飯にありつけなくなる。住む場所を失う。


(この人のいうこと聞いて、ゆだんさせて、それから、それから……)


 蓮は誰にともなく、心の中で言い訳を考えていた。

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